雨あがる 山本周五郎 ④
寺尾聰、宮崎美子、主演で映画化。
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問題文
(あくるあさまだくらいうちに、いへえはふるいみのかさをかり、)
明くる朝まだ暗いうちに、伊兵衛は古い蓑笠を借り、
(つりざおとびくをもってやどをでた。)
釣り竿と魚籠を持って宿を出た。
(じょうかまちのほうへさんちょうばかりいったところに、けんまがわというかわがあり、)
城下町のほうへ三丁ばかりいったところに、間馬川という川があり、
(このきんじょでのあゆのつりばといわれていた。)
この近所での鮎の釣り場といわれていた。
(かれもやどのしゅじんにおしえられて、にどばかりでかけ、)
彼も宿の主人に教えられて、二度ばかりでかけ、
(ちいさなのをごろくびあげたことがあるが、)
小さなのを五六尾あげたことがあるが、
(そのあさはどうやらつりがもくてきではなく、)
その朝はどうやら釣りが目的ではなく、
(やどからにげだすためにでかけたようであった。)
宿から逃げだすためにでかけたようであった。
(かれはへこたれて、しょげたかおで、)
彼はへこたれて、しょげた顔で、
(ときどきさもたまらないというようにくびをふり、ためいきをついた。)
ときどきさも堪らないというように首を振り、溜息をついた。
(はしをわたってすぐひだりへ、つつみのうえをにちょうばかりもゆくと、)
橋を渡ってすぐ左へ、堤の上を二丁ばかりもゆくと、
(きしにかんぼくのしげったところがある。)
岸に灌木の茂ったところがある。
(まえにきたばしょであるが、そこでちょっとたちどまって、)
まえに来た場所であるが、そこでちょっと立停って、
(またふらふらあるきだし、つつみをおりてまつばやしのなかへはいっていった。)
またふらふら歩きだし、堤を下りて松林の中へ入っていった。
(「はあ、もうしちねんになるんだ、はあ」)
「はあ、もう七年になるんだ、はあ」
(はやしのなかはまつのわかばがにおっていた。かさへおおつぶのあまだれがぱらぱらとおちた。)
林の中は松の若葉が匂っていた。笠へ大粒の雨垂れがぱらぱらと落ちた。
(「おれはかまわないとして、おたよは、どんなきもちでいるか、)
「おれは構わないとして、おたよは、どんな気持でいるか、
(ということだろう、それを、うまいようなことをいって、ちかいをやぶって、)
ということだろう、それを、うまいようなことを云って、誓いをやぶって、
(かけじあいなどして、・・・はあ、つづめたところ、)
賭け試合などして、・・・はあ、つづめたところ、
(じぶんがのみたかったのでしょう、そうでしょう、)
自分が飲みたかったのでしょう、そうでしょう、
(したなめずりをしてでかけたじゃないか、いそいそとうれしそうに、ひやっ」)
舌なめずりをしてでかけたじゃないか、いそいそと嬉しそうに、ひやっ」
(いへえはくびをちぢめ、ぎゅっとめをつむった。)
伊兵衛は首を縮め、ぎゅっと眼をつむった。
(みさわのいえはまつだいらいきのかみにつかえて、だいだいにひゃくごじゅっこくをとっていた。)
三沢の家は松平壱岐守に仕えて、代々二百五十石を取っていた。
(ちちはひょうごすけといい、かれはそのひとりむすこで、)
父は兵庫助といい、彼はその一人息子で、
(おさないころひどくからだがよわかったため、そうかんじというぜんじへあずけられた。)
幼い頃ひどく躯が弱かったため、宗観寺という禅寺へ預けられた。
(じゅうしょくのげんわというひとにたいそうあいされ、)
住職の玄和という人にたいそう愛され、
(おおきくなってからもずっとおうらいがたえなかった。)
大きくなってからもずっと往来が絶えなかった。
(からだとおなじようにせいしつもよわきで、ひっこみじあんの、ないてばかりいるこだったが、)
躯と同じように性質も弱気で、ひっこみ思案の、泣いてばかりいる子だったが、
(おしょうのたくみなきょういくのおかげだろう、)
和尚の巧みな教育のおかげだろう、
(じゅうしごになるとすっかりかわって、からだもけんこうになり、)
十四五になるとすっかり変って、躯も健康になり、
(きしつもあかるくせっきょくてきになった。)
気質も明るく積極的になった。
(ーーせきちゅうにひあり、うたずんばいでず。これがげんわのくちぐせであったが、)
ーー石中に火あり、打たずんば出でず。これが玄和の口癖であったが、
(いへえはこのことばをまもりほんぞんのようにしていた。)
伊兵衛はこの言葉を守り本尊のようにしていた。
(がくもんでもぶげいでも、こんなんなところへぶつかるとこれをじっとかんがえる。)
学問でも武芸でも、困難なところへぶつかるとこれをじっと考える。
(いしのなかにひがある、うたなければでない、)
石の中に火がある、打たなければ出ない、
(どのようにうつか、さあ、どううったらせきちゅうのひをはっすることができるか、)
どのように打つか、さあ、どう打ったら石中の火を発することができるか、
(さあ・・・こんなぐあいにくふうするのである。)
さあ・・・こんなぐあいにくふうするのである。
(すると(ばんじとはいかないが)たいていのばあいだかいのみちがついた。)
すると(万事とはいかないが)たいていのばあい打開の途がついた。
(がくもんはしゅし、ようめい、ろうしにまでおよび、ぶげいはとうほうから、)
学問は朱子、陽明、老子にまで及び、武芸は刀法から、
(やり、なぎなた、ゆみ、じゅうじゅつ、ぼう、ばじゅつ、すいれんとものにして、)
槍、薙刀、弓、柔術、棒、馬術、水練とものにして、
(しかもみんなるいのないところまでじょうたつした。)
しかもみんな類のないところまで上達した。
(ではいへえはぐんぐんしゅっせしたろうか。)
では伊兵衛はぐんぐん出世したろうか。
(いな、まったくぎゃくであった。)
否、まったく逆であった。
(かれはそのためにしゅかをろうにんしなければならなかった。)
彼はそのために主家を浪人しなければならなかった。
(りゆうはふたつあるようだ。)
理由は二つあるようだ。
(ひとつはかれのうでまえがけたはずれになったこと、)
一つは彼の腕前が桁外れになったこと、
(もうひとつはかれのきしつである。)
もう一つは彼の気質である。
(てきようすると、けんじゅつでもじゅうじゅつでも、きわめてむさくいであってむるいにつよい。)
摘要すると、剣術でも柔術でも、極めて無作為であって無類に強い。
(にじゅういちにさいのころにはそのみちのしはんですらあいてにならなくなったが、)
二十一二歳の頃にはその道の師範ですら相手にならなくなったが、
(かくべつにちんきなしゅほうをろうするわけではなく、)
格別に珍奇な手法を弄するわけではなく、
(ごくかんたんに、まさかとおもうほどあっけなくしょうぶがついてしまう。)
ごく簡単に、まさかと思うほどあっけなく勝負がついてしまう。
(せきちゅうのひをうちだすいってん。)
石中の火を打ち出す一点。
(つまりかれがその「いってん」をみいだしたとき、しょうはいがさだまるというのである。)
つまり彼がその「一点」をみいだしたとき、勝敗が定まるというのである。
(しかしそれがあまりにむぞうさであまりにたんじゅんめいかいであるため、)
しかしそれがあまりにむぞうさであまりに単純明快であるため、
(とうのあいては、ひっこみがつかなくなるし、)
当の相手は、ひっこみがつかなくなるし、
(みているひとたちはしらけたきもちになるし、)
観ている人たちはしらけた気持になるし、
(かれじしんはてれるというけっかになった。)
彼自身はてれるという結果になった。
(ちちのひょうごすけがしに、かれはにじゅうよんさいでかとくそうぞくをした。)
父の兵庫助が死に、彼は二十四歳で家督相続をした。
(どうじにおなじかちゅうのくれまつしからよめをむかえたが、これがおたよであるが、)
同時に同じ家中の呉松氏から嫁を迎えたが、これがおたよであるが、
(まもなくははおやもちちのあとをおってなくなると、)
間もなく母親も父のあとを追って亡くなると、
(にわかにかれはいづらいようなきもちにかられだした。)
にわかに彼は居辛いような気持に駆られだした。
(げんわろうのおかげでずいぶんせっきょくてきにはなったものの、)
玄和老のおかげでずいぶん積極的にはなったものの、
(ほんしょうまではかわらないとみえ、じぶんのうでまえがつよくなるのとはんぴれいして、)
本性までは変らないとみえ、自分の腕前が強くなるのと反比例して、
(せいしつはいよいよものやさしく、けんそんにゅうわになっていった。)
性質はいよいよものやさしく、謙遜柔和になっていった。
(かっておごらないのはびとくかもしれないが、)
勝って驕らないのは美徳かもしれないが、
(いへえはかつたびにてれたりすまながったりする。)
伊兵衛は勝つたびにてれたり済まながったりする。
(ほんきになってすまながり、てれるので、あいてはますますひっこみがつかない。)
本気になって済まながり、てれるので、相手はますますひっこみがつかない。
(しゅういのものもなんとなくさっぱりしないし、)
周囲の者もなんとなくさっぱりしないし、
(そこでかれじしんはわるいことでもしたようなきぶんになる。)
そこで彼自身は悪いことでもしたような気分になる。
(こういうことがかさなってゆき、)
こういうことが重なってゆき、
(だんだんにきまずくなり、(ちょくせつにははんのしはんたちのさくどうもすこしはあったが))
だんだんに気まずくなり、(直接には藩の師範たちの策動も少しはあったが)
(ついにみずからいとまをねがってたいしんした。)
ついに自らいとまを願って退身した。
(これだけのこころえがあるのだ、いっそだれもしらぬとちへいって、)
これだけの心得があるのだ、いっそ誰も知らぬ土地へいって、
(あたらしくしかんするほうがそうほうのためにあんたいだろう。)
新しく仕官するほうが双方のために安泰だろう。
(おたよともそうだんし、しょうだくをえてたびにでたのである。)
おたよとも相談し、承諾を得て旅に出たのである。