雨あがる 山本周五郎 ⑨

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プレイ回数1145難易度(4.2) 3733打 長文
腕は立つが人が良すぎるゆえ仕官の口がない伊兵衛と妻の話。
人を押しのけて出世することが出来ない伊兵衛と、妻おたよが長雨のため街道筋の宿屋に逗留している。
寺尾聰、宮崎美子、主演で映画化。

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問題文

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(よくじつもやはりあめがふっていたが、かれはじょうかまちまでいって、)

翌日もやはり雨が降っていたが、彼は城下町までいって、

(できあいのかみしもやはながみぶくろや、せんす、たび、はきものなどをかい、)

出来合の裃や鼻紙袋や、扇子、足袋、履物などを買い、

(かなりかねがあまるので、つまのためにかんざしをかった。)

かなり金が余るので、妻のためにかんざしを買った。

(おたよにものをかうなんてひさかたぶりだなあ。)

おたよに物を買うなんて久方ぶりだなあ。

(たしょういいこころもちになったが、みちへでてあるきだすと、)

多少いい心もちになったが、道へ出て歩きだすと、

(れいのどこかさされでもしたようなひょうじょうでぎゅっとまゆをしかめた。)

例のどこか刺されでもしたような表情でぎゅっと眉をしかめた。

(じょうだんじゃない。ひさかたぶりどころか、)

冗談じゃない。久方ぶりどころか、

(つまのためにものをかうなどということははじめてである。)

妻のために物を買うなどということは初めてである。

(けっこんしてはちねんはん、かのじょがじっかからもってきたものは、すべてうってしまった。)

結婚して八年半、彼女が実家から持って来た物は、すべて売ってしまった。

(まつだいらけをたいしんするときには、まだちいさなどうぐるいはもっていたが、)

松平家を退身するときには、まだ小さな道具類は持っていたが、

(それもほうろうちゅうにのこらずうってしまった。)

それも放浪ちゅうに残らず売ってしまった。

(しかもこちらからかってやったものはひとつもないのである。)

しかもこちらから買ってやった物は一つもないのである。

(かれはしょげて、ためいきをついた。)

彼はしょげて、溜息をついた。

(それからきゅうにかおをあげけんかでもうるようなぐあいに、)

それから急に顔をあげ喧嘩でも売るようなぐあいに、

(「だがこんどはまさゆめですからね」こうつぶやいててんをにらめつけた、)

「だがこんどは正夢ですからね」こう呟いて天を睨めつけた、

(「つかいのくるすぐまえにぜんちょうもあり、あらゆるじょうけんがそろってるんだから、)

「使いの来るすぐまえに前兆もあり、あらゆる条件が揃ってるんだから、

(それにもうそろそろ、いくらなんでもそろそろじせつがきてもいいころだよ」)

それにもうそろそろ、いくらなんでもそろそろ時節が来てもいい頃だよ」

(いへえはげんきにあめのなかをあるきだした。)

伊兵衛は元気に雨のなかを歩きだした。

(それからいつかめにとつぜんあめがあがった。)

それから五日めにとつぜん雨があがった。

(まえのばんのやはんまでそんなけぶりさえなく、)

前の晩の夜半までそんなけぶりさえなく、

など

(むげんのようにしとしとふっていたのが、あけてみるとからっとはれて、)

無限のようにしとしと降っていたのが、明けてみるとからっと晴れて、

(それこそぬけるようなあおぞらにきらきらとひがてっていた。)

それこそぬけるような青空にきらきらと日が照っていた。

(「あがったぞ、あめがあがったぞ、てんきになったぞ」)

「あがったぞ、雨があがったぞ、天気になったぞ」

(どうしゅくしゃたちのひとりひとりが、そらをみあげてはそうさけんだ。)

同宿者たちの一人ひとりが、空を見あげてはそう叫んだ。

(せいかつをとりもどしたもののそぼくなそしてまさにかんきにわきたつようなこえであった。)

生活をとり戻した者の素朴なそして正に歓喜にわきたつような声であった。

(そしていへえのところへもしゅぜんからししゃがきた。)

そして伊兵衛のところへも主膳から使者が来た。

(とじょうのしたくでこい、というのである。)

登城の支度で来い、というのである。

(「すばらしいきっちょうですね、これは」)

「すばらしい吉兆ですね、これは」

(いへえはにこにこしながらそういいかけたが、)

伊兵衛はにこにこしながらそう云いかけたが、

(つまのあきらめたかおをみるとあわてて、「わたしのほうはなんだけれども、)

妻の諦めた顔を見ると慌てて、「私のほうはなんだけれども、

(みんなはつかいじょうもふりこめられていたんだからねえ、)

みんな二十日以上も降りこめられていたんだからねえ、

(これでみんなすくわれますよ、ええ、あのよろこびようをごらんなさい、)

これでみんな救われますよ、ええ、あの喜びようをごらんなさい、

(わたしたちまでうれしくなってしまうでしょう」)

私たちまで嬉しくなってしまうでしょう」

(「わたくしもしゅったつのしたくをしておきますわ」)

「わたくしも出立の支度をしておきますわ」

(「そうですね、そう」かれはちょっとつまをみて、)

「そうですね、そう」彼はちょっと妻を見て、

(「しかしきょうというわけにはいかないですよ、)

「しかし今日というわけにはいかないですよ、

(かえりがおそくなるかもしれませんからね」)

帰りがおそくなるかもしれませんからね」

(「たびをさきにおめしあそばせ」)

「足袋を先にお召しあそばせ」

(おたよはやはりさりげなくはなしをそらした。)

おたよはやはりさりげなく話をそらした。

(いへえはごごおそく、ひのかたむくころにかえってきた。)

伊兵衛は午後おそく、日の傾く頃に帰って来た。

(しゅびはじょうじょうだったのだろう、こみあげてくるうれしさをけんめいにおさえているが、)

首尾は上々だったのだろう、こみあげてくる嬉しさを懸命に抑えているが、

(おさえてもおさえてもこみあげてくるので、)

抑えても抑えてもこみあげてくるので、

(われながらしまつにこまるといったふうな、ふあんていなしぶいかおをしていた。)

われながら始末に困るといったふうな、不安定な渋い顔をしていた。

(「かえりにあおやまさんへよったものだから」)

「帰りに青山さんへ寄ったものだから」

(かれはこういって、おおきなつつみをそこへおいた。)

彼はこう云って、大きな包をそこへ置いた。

(「いわいにどうしてもいっさんということで、もちろんきょうはじたいしたけれども、)

「祝いにどうしても一盞ということで、もちろん今日は辞退したけれども、

(よらないのもしつれいですからねえ、これはとのさまからのひきでものです」)

寄らないのも失礼ですからねえ、これは殿様からの引出物です」

(かもんをうったかみにつつまれたつつみがふたつ、おたよはどきっとしたようすであるが、)

家紋を打った紙に包まれた包が二つ、おたよはどきっとしたようすであるが、

(すぐへいせいにかえって、そっとおしいただいてすみへかたづけた。)

すぐ平静にかえって、そっと押戴いて隅へ片づけた。

(「きょうはひとつ、のませてください」)

「今日はひとつ、飲ませて下さい」

(いへえはかみしもをぬぎながらいった。)

伊兵衛は裃を脱ぎながら云った。

(「はいかしこまりました」)

「はいかしこまりました」

(おたよもそのへんじだけはあかるかった。)

おたよもその返辞だけは明るかった。

(だいたいとしてこういうやすやどにはふろはない。)

大体としてこういう安宿には風呂はない。

(かれはじゅっちょうばかりにしのやどにあるせんとうへいってきて、)

彼は十町ばかり西の宿にある銭湯へいって来て、

(それからつつましいさけのぜんにむかった。)

それからつつましい酒の膳に向った。

(おたよはきゅうじをしながら、どうしゅくしゃのだれそれとだれそれがしゅったつしたこと、)

おたよは給仕をしながら、同宿者の誰それと誰それが出立したこと、

(だれそれとだれそれはあしたたつこと、)

誰それと誰それは明日立つこと、

(しゅったつしたひとびとのでんごんや、おたがいになきあったことなどを、)

出立した人々の伝言や、お互いに泣き合ったことなどを、

(しみじみとしたくちぶりで、めずらしくたべんにかたった。)

しみじみとした口ぶりで、珍しく多弁に語った。

(「こういうおやどへとまるかたたちとは、)

「こういうお宿へ泊る方たちとは、

(ずいぶんたくさんおちかづきになりましたけれど、)

ずいぶんたくさんお近づきになりましたけれど、

(みなさんやさしいよいかたばかりでしたわね、)

みなさんやさしい善い方ばかりでしたわね、

(じぶんのくらしさえまんぞくでないのに、いつもたにんのことをしんぱいしたり、)

自分の暮しさえ満足でないのに、いつも他人のことを心配したり、

(たにんのふこうにこころからないたり、わずかなものをおしみもなくわけたり、)

他人の不幸に心から泣いたり、僅かな物を惜しみもなく分けたり、

(ほかのせけんのひとたちとはまるでちがって、かなしいほどおもいやりのふかい、)

ほかの世間の人たちとはまるで違って、哀しいほど思い遣りの深い、

(あたたかなひとたちばかりでしたわ」)

温かな人たちばかりでしたわ」

(「まずしいものはおたがいがたよりですからね、)

「貧しい者はお互いが頼りですからね、

(じぶんのよくをはってはいきにくい、というわけだろうね」)

自分の欲を張っては生きにくい、というわけだろうね」

(「せっきょうぶしのおじいさんはこういっておいででした、)

「説教節のお爺さんはこう云っておいででした、

(もうおめにはかかれませんが、)

もうお眼にはかかれませんが、

(どこへいってもおふたりのごはんじょうをいのっております」)

どこへいってもお二人の御繁昌を祈っております」

(おたよはそっとめをふせた、「それからなみだをふいて、)

おたよはそっと眼を伏せた、「それから涙を拭いて、

(このあいだのことはしぬまでわすれません、)

このあいだのことは死ぬまで忘れません、

(あんなにありがたい、うれしいことはうまれてきてはじめてだった、)

あんなに有難い、嬉しいことは生れて来て初めてだった、

(よのなかはいいものだということを、このとしになってはじめてしりましたって)

世の中はいいものだということを、この年になって初めて知りましたって

(・・・わたくしむねがつまってしまいました」)

・・・わたくし胸が詰ってしまいました」

(「もうよしましょう、わたしにはそういうおたよのほうが)

「もうよしましょう、私にはそういうおたよのほうが

(もっとかなしい、つらいですから」)

もっと哀しい、辛いですから」

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