雨あがる 山本周五郎 ⑩

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね2お気に入り登録
プレイ回数1195難易度(4.3) 4193打 長文
腕は立つが人が良すぎるゆえ仕官の口がない伊兵衛と妻の話。
人を押しのけて出世することが出来ない伊兵衛と、妻おたよが長雨のため街道筋の宿屋に逗留している。
寺尾聰、宮崎美子、主演で映画化。

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問題文

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(いへえはしぼんだかおになり、それからきゅうにうきたつようにいった。)

伊兵衛はしぼんだ顔になり、それから急に浮きたつように云った。

(「しかしもうこれもおしまいです、といってもいいとおもうんだが、)

「しかしもうこれもおしまいです、と云ってもいいと思うんだが、

(じつはきょうはしょくろくのだかまでほぼないていしたんでねえ」)

実は今日は食禄の高までほぼ内定したんでねえ」

(「このまえにも、いちど」)

「このまえにも、いちど」

(「いやきょうはちがうんですよ、けんじゅつもやったし、)

「いや今日は違うんですよ、剣術もやったし、

(ゆみはごすんのまとをにじゅうはっけんまでのばしたし、)

弓は五寸の的を二十八間まで延ばしたし、

(うまはきそさんのあおで、まだのったものがないというかんばをこなしましたがね、)

馬は木曽産のあおで、まだ乗った者がないという悍馬をこなしましたがね、

(それはそれとしてはなしはべつなんです」)

それはそれとして話はべつなんです」

(はんしゅはながいしでしなのかみあつあきといい、まだよつぎをしてまのない、)

藩主は永井氏で信濃守篤明といい、まだ世継ぎをして間のない、

(はたちそこそこのわかさだったが、たいそうぶげいにねっしんであり、)

二十そこそこの若さだったが、たいそう武芸に熱心であり、

(またおおいにはんせいかいかくをやろうという、しんしんきえいのひとであった。)

また大いに藩政改革をやろうという、新進気鋭の人であった。

(そしていへえのぎりょうをみて、ぜひとうけにつかえるようにといったが、)

そして伊兵衛の技倆を見て、ぜひ当家に仕えるようにと云ったが、

(それはぜんにんしゃをはいしてめしかかえるのではなく、)

それは前任者を排して召抱えるのではなく、

(あらたにひとましをするというのであった。)

新たに人増しをするというのであった。

(「それだからといって、ぜったいだとはむろんおもいはしないけれども、)

「それだからといって、絶対だとはむろん思いはしないけれども、

(とにかくこんどはね、そこまでうたがうというのもねえ」)

とにかくこんどはね、そこまで疑うというのもねえ」

(「それはそうでございますとも」おたよはそらすようにうなずいた。)

「それはそうでございますとも」おたよはそらすように頷いた。

(「おかわりをつけましょうか、おしょくじになさいますか」)

「お代りをつけましょうか、お食事になさいますか」

(「そうだね、そう、しょくじにしましょう」)

「そうだね、そう、食事にしましょう」

(ひさしぶりでじゅうぶんにうでだめしをして、)

久しぶりで充分に腕だめしをして、

など

(かれのぜんしんはそうかいなつかれとまんぞくにあふれていた。)

彼の全身は爽快な疲れと満足に溢れていた。

(そのうえしかんののぞみはくぶどおりかくじつである。)

そのうえ仕官の望みは九分どおり確実である。

(これまでのれいがあるから、つまはしんじようとしないし、)

これまでの例があるから、妻は信じようとしないし、

(できるだけそのことにふれたくないようであるが、)

できるだけそのことに触れたくないようであるが、

(いへえとしてはそれがあわれであり、どうかして(だんげんはせずに))

伊兵衛としてはそれが哀れであり、どうかして(断言はせずに)

(すこしでもあんしんさせてやりたいとねがわずにはいられなかった。)

少しでも安心させてやりたいと願わずにはいられなかった。

(あくるひはどうしゅくしゃのうちからさんにんしゅったつしていった。)

明くる日は同宿者のうちから三人出立していった。

(たがなおしのげんさんのにょうぼうは、せおったこどもをゆりあげしながら、)

タガ直しの源さんの女房は、背負った子供を揺りあげしながら、

(「もうおめにかかれませんわねえ、)

「もうお眼にかかれませんわねえ、

(どうかおふたりともおだいじになすってくださいましよ、)

どうかお二人ともお大事になすって下さいましよ、

(ごしゅっせをなさるようにおいのりもうしておりますからねえ、)

御出世をなさるようにお祈り申しておりますからねえ、

(ほんとにいろいろとごしんせつにしていただいて、おせわさまでございましたよう」)

ほんとにいろいろと御親切にして頂いて、お世話さまでございましたよう」

(こういってそでくちでなみだをふいた。)

こう云って袖口で涙を拭いた。

(「みなさんがきまって、もうおめにかかれないとおっしゃるのね」)

「みなさんがきまって、もうお眼にかかれないと仰しゃるのね」

(おたよがあとでいった、「これまでもきまったようにそうおっしゃいましたわ、)

おたよがあとで云った、「これまでもきまったようにそう仰しゃいましたわ、

(どうしてまたいつかあいたいとおっしゃらないのでしょうか」)

どうしてまたいつか会いたいと仰しゃらないのでしょうか」

(いへえはさあねといって、うろたえたようにめをそらした。)

伊兵衛はさあねと云って、うろたえたように眼をそらした。

(あのひとたちにはきょうしかない、じぶんじしんのあしたのことがわからない、)

あの人たちには今日しかない、自分自身の明日のことがわからない、

(いまいっしょにいることはしんじらるが、)

今いっしょにいることは信じられるが、

(またあえるというのぞみは、もつことができないのである。)

また会えるという望みは、もつことができないのである。

(それはたびをわたるかれらにかぎったことではない、にんげんはすべて、)

それは旅を渡るかれらに限ったことではない、人間はすべて、

(・・・こんなふうなしめっぽいかんそうがうかんだからであった。)

・・・こんなふうなしめっぽい感想がうかんだからであった。

(ゆうがたになるとあらたなきゃくがごにんきた。)

夕方になると新たな客が五人来た。

(なかにさるまわしがいて、ゆうしょくのあとでさるにげいをさせてみせ、)

中に猿廻しがいて、夕食のあとで猿に芸をさせてみせ、

(じぶんでもしょこくのめずらしいひなうたなどうたった。)

自分でも諸国の珍しいひな唄などうたった。

(どうしゅくしゃたちはおおいによろこんだが、さるまわしがころあいをみはからって、)

同宿者たちは大いに喜んだが、猿廻しが頃合をみはからって、

(「みんながすこしおちょうもくをはずんでくれれば、)

「みんなが少しお鳥目をはずんで呉れれば、

(これからさるにねやごとをおどらせてみせる」というと、)

これから猿に閨ごとを踊らせてみせる」と云うと、

(かれらはみれんなくそこをはなれて、いばしょへもどってしまった。)

かれらはみれんなくそこを離れて、居場所へ戻ってしまった。

(そのよくちょう。しょくじをすませるとまもなく、おたよはにもつをかたづけはじめた。)

その翌朝。食事を済ませると間もなく、おたよは荷物を片づけ始めた。

(「きょうはいいおひよりでございますわ」)

「今日はいいお日和でございますわ」

(なにかをつつみながら、ひとりごとのようにかのじょはそういった、)

なにかを包みながら、独り言のように彼女はそう云った

(「すこしくもがあるくらいなひでも、あのとうげはよくあめがふるそうですから、)

「少し雲があるくらいな日でも、あの峠はよく雨が降るそうですから、

(こすならきょうのようなひがいいといいますわ」)

越すなら今日のような日がいいと云いますわ」

(「そう、じつにきょうはよくはれた」)

「そう、実に今日はよく晴れた」

(いへえははなしをそらすように、ひくいひさしごしにそらをみあげ、)

伊兵衛は話をそらすように、低い庇越しに空を見あげ、

(びんぼうゆすりをし、またそらをみあげ、そしてたちあがった。)

貧乏ゆすりをし、また空を見あげ、そして立ちあがった。

(「おでかけなさいますの?」)

「おでかけなさいますの?」

(「いやでかけやしない、ちょっとその」)

「いやでかけやしない、ちょっとその」

(かれはやどのそとへでて、おちつかないめつきでじょうかまちのほうをながめやった。)

彼は宿の外へ出て、おちつかない眼つきで城下町のほうを眺めやった。

(かなりいらいらしているらしい、ふとそっちへあるきだしそうにして、)

かなり苛々しているらしい、ふとそっちへ歩きだしそうにして、

(おもいかえして、みじかいたいそくをついた。)

思い返して、短い太息をついた。

(そのときうしろで、いきなりててんててんとたいこのおとがした。)

そのときうしろで、いきなりテテンテテンと太鼓の音がした。

(あまりとつぜんだったので、かれはびっくりしてよこへとびしりぞいた。)

あまり突然だったので、彼は吃驚して横へとび退いた。

(「おはようござい、きょうえんまんだいきちでござい」)

「お早うござい、今日円満大吉でござい」

(さるまわしであった。どこかしらゆがんだしなびたようなからだつきの、)

猿廻しであった。どこかしら歪んだしなびたような躯つきの、

(ふしぜんにようきなそのさるまわしは、そんなあいさつをして、)

不自然に陽気なその猿廻しは、そんな挨拶をして、

(さるをせなかにとまらせ、たいこをたたきながら、)

猿を背中にとまらせ、太鼓を叩きながら、

(あしばやにじょうかまちのほうへさっていった。)

足早に城下町のほうへ去っていった。

(「てんきはもうしぶんなしですがねえ」)

「天気は申し分なしですがねえ」

(こべやへもどって、しばらくしていへえがそういった、)

小部屋へ戻って、暫くして伊兵衛がそう云った、

(「ともかくまだふつかめだし、せんぽうでもなんとかいってくるだろうしねえ、)

「ともかくまだ二日めだし、先方でもなんとか云って来るだろうしねえ、

(だまってたつというわけにもいかないとおもうんだが」)

黙って立つというわけにもいかないと思うんだが」

(「そうでございますわね、でもわたくし、したくだけはしておきますわ」)

「そうでございますわね、でもわたくし、支度だけはしておきますわ」

(「それはそうですとも、どっちにしてもここはでてゆくんだから・・・」)

「それはそうですとも、どっちにしても此処は出てゆくんだから・・・」

(いへえはどきりとしてこちょうしていうと、かまきりのようにくびをあげた。)

伊兵衛はどきりとして誇張していうと、かまきりのように首をあげた。

(うまのひづめのおとが、やどのまえでとまったのである。)

馬の蹄の音が、宿の前で停ったのである。

(おたよもききつけたのだろう、これもはっとしたようだったが、)

おたよも聞きつけたのだろう、これもはっとしたようだったが、

(すぐわれにかえってつつみものをつづけた。)

すぐわれに返って包み物を続けた。

(いへえはたってえもんをなおし、できるだけおちついたくちぶりで、)

伊兵衛は立って衣紋を直し、できるだけおちついた口ぶりで、

(「きたようだね」こういいながらでていった。)

「来たようだね」こう云いながら出ていった。

(ちょうどどまへうしおだいろくがはいってくるところだった。)

ちょうど土間へ牛尾大六が入って来るところだった。

(いへえはどきどきするむねをおさえ、できるかぎりへいせいをよそおい、)

伊兵衛はどきどきする胸を抑え、できる限り平静を装い、

(やさしくびしょうしながらあがりはなまででむかえた。)

やさしく微笑しながら上り端まで出迎えた。

(「いやここでしつれいします」)

「いや此処で失礼します」

(うしおだいろくはたしょういまわしそうに、きたならしいいえのなかをみまわして、)

牛尾大六は多少いまわしそうに、汚ならしい家の中を見まわして、

(このまえのときよりずっときりこうじょうでいった。)

このまえのときよりずっと切り口上で云った。

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