夕靄の中 山本周五郎 ①
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | てんぷり | 5626 | A | 5.7 | 97.6% | 576.0 | 3321 | 80 | 75 | 2024/10/13 |
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問題文
(かれはたちどまって、かがみ、ぞうりのおのぐあいをなおすかっこうで、)
彼は立停って、かがみ、草履の緒のぐあいを直す恰好で、
(すばやくそっちへめをはしらせた。)
すばやくそっちへ眼をはしらせた。
(まちがいはない、たしかにつけてくる。)
間違いはない、たしかにつけて来る。
(そのおとこはふところでをして、さゆうのいえなみをながめながら、)
その男はふところ手をして、左右の家並を眺めながら、
(ゆっくりとこちらへあるいてくる。)
ゆっくりとこちらへ歩いて来る。
(ふるびたもめんじまのきものにはんてんで、すそをはしょり、)
古びた木綿縞の着物にはんてんで、裾を端折り、
(だぶだぶのながいももひきに、ぞうりをはいている。)
だぶだぶの長いももひきに、草履をはいている。
(しごとをやすんだかみくずかい、といった、ごくありふれたふうていである。)
仕事を休んだ紙屑買い、といった、ごくありふれた風態である。
(どこにこれというとくちょうはないが、とぼけたようなめつきや、)
どこにこれという特徴はないが、とぼけたような眼つきや、
(ひどくゆっくりと、おちついたあるきぶりには、)
ひどくゆっくりと、おちついた歩きぶりには、
(かくすことのできないいっしゅのものがあった。)
隠すことのできない一種のものがあった。
(それはろうれんなりょうけんのもつ、あやまりのないはんだんと、)
それは老練な猟犬のもつ、誤りのない判断と、
(かぎつけたえものはけっしてのがさない、)
嗅ぎつけた獲物は決してのがさない、
(れいせいでしつようなねばり、というかんじをれんそうさせるものであった。)
冷静で執拗なねばり、という感じを連想させるものであった。
(こんなはずはない、ふしぎだ。かれはあるきだした。)
こんな筈はない、ふしぎだ。彼は歩きだした。
(どうしたってそんなはずはない、)
どうしたってそんな筈はない、
(えどへはいってから、いちどもしったものにはあわないし、)
江戸へ入ってから、いちども知った者には会わないし、
(かれがもどってくるということを、かんづくものもないはずである。)
彼が戻って来るということを、感づく者もない筈である。
(まちかどをまがるときそっと、めのすみでみた。)
町角を曲るときそっと、眼の隅で見た。
(まあいはすこしひらいたが、おとこはやはりつけてくる。)
間合は少しひらいたが、男はやはりつけて来る。
(こちらへはまるでめをむけず、いぜんとしておちついた、)
こちらへはまるで眼を向けず、依然としておちついた、
(きみのわるいほどせかないあるきぶりで、ゆっくりとつけてくる。)
きみの悪いほどせかない歩きぶりで、ゆっくりとつけて来る。
(そこはかたがわがぶけやしき、かたがわがまちやであった。)
そこは片側が武家屋敷、片側が町家であった。
(あたたかかったふゆのいちにちの、もうすっかりかたむいたひざしが、)
暖かかった冬の一日の、もうすっかり傾いた日ざしが、
(みちのうえにながくかげをおとしている。)
道の上に長く影をおとしている。
(たそがれにはまのある、ふとおうらいのとだえるいっとき。)
黄昏には間のある、ふと往来の途絶えるいっとき。
(まちぜんたいがひそかにためいきでもつくような、)
街ぜんたいがひそかに溜息でもつくような、
(しずんだ、うらさびしいじこくであった。)
沈んだ、うらさびしい時刻であった。
(おじけがついている、こんなかんじははじめてだ、)
おじけがついてる、こんな感じは初めてだ、
(ことによるとあぶない、ねんぐのおさめどきになるかもしれないぞ。)
ことによると危ない、年貢のおさめどきになるかもしれないぞ。
(しかしかれのひょうじょうはすこしもかわらなかった。)
しかし彼の表情は少しも変らなかった。
(あるくちょうしもけっしてみだれはしない、)
歩く調子も決して乱れはしない、
(ひとのめにはへいぼんなおたなものとみえるだろう、)
人の眼には平凡なお店者とみえるだろう、
(いくらかにがみばしったびなんで、)
いくらか苦みばしった美男で、
(みだしなみのいい、わかいてだいといったふうに、)
身だしなみのいい、若い手代といったふうに、
(たしかに、これまでかれはついぞ、)
たしかに、これまで彼はついぞ、
(そのじしんをうらぎられたことはなかった。)
その自信を裏切られたことはなかった。
(それだけが、いまのかれにはいのちのつなのようであった。)
それだけが、いまの彼には命の綱のようであった。
(いつかはそうなる、だれだって、いつかいちどはそうなるんだ、)
いつかはそうなる、誰だって、いつかいちどはそうなるんだ、
(が、いまはいけない、すくなくともあといちにち、)
が、今はいけない、少なくともあと一日、
(こんやひとばんでもいい、あいつをかたづけるまでは、)
今夜ひと晩でもいい、あいつを片づけるまでは、
(それまではどんなことをしたって。)
それまではどんなことをしたって。
(おおきなてらのもんがみえてきた。)
大きな寺の門が見えて来た。
(うえののさんないのもりが、まぶしくゆうやけのひかりをあびている。)
上野の山内の森が、眩しく夕焼けの光りをあびている。
(するとてらはねぎしのだいそうじだ。)
すると寺は根岸の大宗寺だ。
(かれはみぎてをふところへいれた、)
彼は右手をふところへ入れた、
(はらまきのなかのたんとうへさわるまえに、ひとさしゆびのつめぎわがするどくいたんだ。)
腹巻の中の短刀へ触るまえに、ひとさし指の爪際が鋭く痛んだ。
(とげをさしたのかとおもって、だしてみると、それはささくれであった。)
棘を刺したのかと思って、出してみると、それはささくれであった。
(そうだ、あのてらのぼちはひろかった。)
そうだ、あの寺の墓地は広かった。
(かれはゆびのささくれをなめながら、まっすぐに)
彼は指のささくれを舐なめながら、まっすぐに
((はじめからそれがもくてきであったかのように)もんぜんのちゃみせへはいっていった。)
(初めからそれが目的であったかのように)門前の茶みせへはいっていった。
(くらくじめじめした、かなりひろいどまに、ござをしいたこしかけがならび、)
暗くじめじめした、かなり広い土間に、ござを敷いた腰掛が並び、
(かべによせて、しおれたきくや、きしみや、あかおけなどがみえる。)
壁によせて、しおれた菊や、樒や、阿迦桶などが見える。
(じゅうしちはちのむすめがひとり、どまにむしろをひろげて、)
十七八の娘が一人、土間にむしろをひろげて、
(せっせとちいさなはなのたばをつくっていた。)
せっせと小さな花の束を作っていた。
(「はなとせんこうをください」むすめはこっちをみた。)
「花と線香を下さい」 娘はこっちを見た。
(いろがくろくてまるっこい、いなかからでてきたばかりといったふうの、)
色が黒くてまるっこい、田舎から出て来たばかりといったふうの、
(あいそのないかおだちであった。)
愛想のない顔だちであった。
(「おまいりですか」ぶっきらぼうにいって、)
「おまいりですか」ぶっきら棒に云って、
(いまつくったばかりのはなたばを、むぞうさにひとつとり、)
いま作ったばかりの花束を、むぞうさに一つ取り、
(かがんだままだしてみせた、「こんなのでどうですか」)
かがんだまま出してみせた、「こんなのでどうですか」
(そしてよこめでこちらをみたが、あわててはなのあたまをこすった。)
そして横眼でこちらを見たが、慌てて鼻の頭をこすった。
(「もうすこしおおきいのにしてください、)
「もう少し大きいのにして下さい、
(そっちのたいりんのきくをいれて、いいえそのしろいのがいい」)
そっちの大輪の菊を入れて、いいえその白いのがいい」
(「これはたかいけどいいですか」)
「これはたかいけどいいですか」
(かれははなをえらばせながら、めではたくみにおもてをみていた。)
彼は花を選ばせながら、眼では巧みに表を見ていた。
(そのおとこはゆっくりと、いちどみせのまえをとおりすぎ、)
その男はゆっくりと、いちどみせの前を通り過ぎ、
(またもどってきて、もとのほうへと、のんびりとおりすぎた。)
また戻って来て、元のほうへと、のんびり通り過ぎた。
(さかやきがうすくのび、たくましいあごにもぶしょうひげがみえた。)
月代がうすく伸び、逞しいあごにも無精髭がみえた。
(としはさんじゅうごろく、ひにやけたにくのあついほおに、)
年は三十五六、日にやけた肉の厚い頬に、
(ねむたそうな、ほそいめをもっていた。)
眠たそうな、細い眼をもっていた。
(「おせんこうはひをつけるんですか」)
「お線香は火をつけるんですか」
(はなのたばができると、むすめはそういって、いっしゅのめつきでこちらをみた。)
花の束が出来ると、娘はそう云って、一種の眼つきでこちらを見た。
(それはこういのまなざしかもしれないがてきいをふくむようにおもえた。)
それは好意のまなざしかもしれないが敵意を含むように思えた。
(あかおけをもって、ついてこようとするむすめをことわって、かれはそのみせをでた。)
阿迦桶を持って、ついて来ようとする娘を断わって、彼はそのみせを出た。