夕靄の中 山本周五郎 ②

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プレイ回数1684難易度(4.2) 3630打 長文
人を刺しに江戸へ戻った男が、娘を亡くした老女と出会う。

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問題文

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(てらのもんをくぐるまで、そして、しょうろうのわきをとおってぼちへはいるまで、)

寺の門をくぐるまで、そして、鐘楼の脇を通って墓地へ入るまで、

(かれはいきぐるしいほどきんちょうした。)

彼は息苦しいほど緊張した。

(かかるならぼちへはいるまえだ。)

かかるなら墓地へ入るまえだ。

(そして、ぼちへはいってしまえば、たしかにとはいえないが、)

そして、墓地へ入ってしまえば、たしかにとはいえないが、

(だっそうのきかいがあるかもしれない。)

脱走の機会があるかもしれない。

(かれはからだじゅうのしんけいで、うしろのけはいにちゅういした。)

彼は躯じゅうの神経で、うしろのけはいに注意した。

(そのおとこはつけてくる。ふりかえってみるまでもない。)

その男はつけて来る。振返ってみるまでもない。

(そのおとこはねむたそうな(しかしすこしもまぎれのない)めで)

その男は眠たそうな(しかし少しも紛れのない)眼で

(こっちのせなかをみつめながら、まよいもあせりもない、)

こっちの背中をみつめながら、迷いも焦りもない、

(ひろうようなあしどりで、つけてくる。)

拾うような足どりで、つけて来る。

(それはちょうど、めにもみえずきることもできないいとで、)

それはちょうど、眼にも見えず切ることもできない糸で、

(しっかりとむすびつけられてでもいるようなかんじだった。)

しっかりと結びつけられてでもいるような感じだった。

(だがかれはぼちへはいった。)

だが彼は墓地へ入った。

(ひがしのはしへ、まっすぐにゆけ、そこからいりやへぬけられる。)

東の端へ、まっすぐにゆけ、そこから入谷へぬけられる。

(せんこうのけむりにむせて、せきがでた。)

線香の煙にむせて、咳が出た。

(いしじきのみちをひだりにまがり、みぎにまがる。)

石敷の道を左に曲り、右に曲る。

(はかはごうしゃなくいきから、しだいにかんそとなり、まずしくなる。)

墓は豪奢な区域から、しだいに簡素となり、貧しくなる。

(いっぽうはかねにあかしてつくり、たえずていれをして、)

一方は金に飽かして造り、絶えず手入れをして、

(ふききよめたようにきれいになっているが、)

拭き清めたようにきれいになっているが、

(かたほうではふるびて、かけて、かしいだりたおれたりしたのや、)

片方では古びて、欠けて、傾いだり倒れたりしたのや、

など

(またたけがきもなくぼせきもなく、ただすうまいのそとうばをたてたばかりのものもある。)

また竹垣もなく墓石もなく、ただ数枚の卒塔婆を立てたばかりのものもある。

(びんぼうにんはしんでもこんなものだ。)

貧乏人は死んでもこんなものだ。

(かれはくちびるをゆがめた。いくまがりかすると、もうみちにもいしはしいてない。)

彼は唇を歪めた。幾曲りかすると、もう道にも石は敷いてない。

(げたのはのあとのついた、はだかのあかつちつづきで、)

下駄の歯の跡の付いた、裸のあか土つづきで、

(やすいせんこうとつちの、きのめいるようなにおいがただよっていた。)

安い線香と土の、気のめいるような匂いが漂っていた。

(はかはどれもささやかでちいさい、ふるいのもあたらしいのも、)

墓はどれもささやかで小さい、古いのも新しいのも、

(みなせまいところへごたごたとよりあって、)

みな狭いところへごたごたとより合って、

(あたかもかれらがいきていたときのように、つつましくひかえめに、)

あたかもかれらが生きていたときのように、慎ましく控えめに、

(じっとかたをすぼめているようにみえた。)

じっと肩をすぼめているようにみえた。

(かれはあしをとめた。みぎがわにあたらしいはかがあった。)

彼は足を停めた。右がわに新しい墓があった。

(それはごくあたらしく、まだとうかとはたたないのだろう、)

それはごく新しく、まだ十日とは経たないのだろう、

(もりあげたつちもかわかず、しらきのぼひょうのおもてのみょうごうをかいたじも、)

盛上げた土も乾かず、白木の墓標の表の名号を書いた字も、

(すみのかがにおうようであった。)

墨の香が匂うようであった。

(かれはぼひょうのうしろへまわってみた、ぞくみょうおいね、としはにじゅうろくさい、)

彼は墓標のうしろへまわってみた、俗名おいね、年は二十六歳、

(めいにちはじゅうさんにちまえの、しもつきなのかとかいてあった。)

命日は十三日まえの、霜月七日と書いてあった。

(「おいねちゃんていうんだね」かれはそっとつぶやいた、)

「おいねちゃんていうんだね」彼はそっと呟やいた、

(「えんのないにんげんがはななんぞあげて、めいわくかもしれないが、)

「縁のない人間が花なんぞあげて、迷惑かもしれないが、

(のっぴきならなぬばあいだからかんべんしてもらうよ」)

のっぴきならぬばあいだから勘弁して貰うよ」

(そしてまえへもどった。)

そして前へ戻った。

(あおたけのつつのかたほうに、せんこうをたてる。)

青竹の筒の片方に、線香を立てる。

(にさんぼんおれて、おれたのはつちのうえでけむりをあげた。)

二三本折れて、折れたのは土の上で煙をあげた。

(はなはたいりんでもあるしおおすぎた、たけづつへさせるだけさして、)

花は大輪でもあるし多すぎた、竹筒へさせるだけさして、

(あまったのはぼひょうのまえへ、よこにおいた。)

余ったのは墓標の前へ、横に置いた。

(それから、そこへかがんで、めをつむりながらがっしょうした。)

それから、そこへかがんで、眼をつむりながら合掌した。

(あのおとこはこっちをみている。そうとおくないものかげから、しんぼうづよく、)

あの男はこっちを見ている。そう遠くない物蔭から、辛抱づよく、

(あのほそいめで、じっとこっちをうかがっている。)

あの細い眼で、じっとこっちをうかがっている。

(「にじゅうろくというと、おれとはみっつちがいだったんだな、おいねちゃん」)

「二十六というと、おれとは三つ違いだったんだな、おいねちゃん」

(くちのなかでそっとこうささやいた、)

口の中でそっとこう囁いた、

(「むすめのままだったのか、それともおよめにいったのか、)

「娘のままだったのか、それともお嫁にいったのか、

(このはかのようすじゃあ、あんまりらくなくらしでもなかったらしいが、)

この墓のようすじゃあ、あんまり楽な暮しでもなかったらしいが、

(しんでほっとしているか、それともやっぱりみれんののこることがあるか」)

死んでほっとしているか、それともやっぱりみれんの残ることがあるか」

(しょうしんをよそおうために、そうよびかけたのであるが、)

傷心を装うために、そう呼びかけたのであるが、

(つむっているめのうらへ、ふっとおつやのすがたがうかんできた)

つむっている眼の裏へ、ふっとおつやの姿がうかんできた。

(「ーーおつや」)

「ーーおつや」

(ふしぎにめはなだちははっきりしない。いろのあさぐろい、ひきしまったかおも、)

ふしぎに目鼻だちははっきりしない。色の浅黒い、ひき緊った顔も、

(かたのほそいしなやかなからだつきも、すべてがこづくりで、)

肩の細いしなやかな躯つきも、すべてが小づくりで、

(ふんわりとかるく、やわらかそうであった。)

ふんわりと軽く、柔らかそうであった。

(あたしをつれてにげておくれ、おとうさんはきんじをむこにするきよ、)

あたしを伴れて逃げてお呉れ、お父さんは金次を婿にする気よ、

(もうにげるほかにどうしようもないわ。)

もう逃げるほかにどうしようもないわ。

(りょうてでかたをだきしめ、ほおへほおをつけて、みもだえするようにいった。)

両手で肩を抱きしめ、頬へ頬をつけて、身もだえするように云った。

(あついこきゅうとだいたてのはげしいちからが、まざまざと、)

熱い呼吸と抱いた手の烈しい力が、まざまざと、

(げんじつのようによみがえってくる。)

現実のように甦ってくる。

(おつやのちちおやは「はしばのしちべえ」という、)

おつやの父親は「橋場の七兵衛」という、

(かなりなをうったばくちうちである。)

かなり名を売った博奕打である。

(こっちはしたてしょくからぐれて、じぶんではいっぱしのやくざきどりでいた。)

こっちは仕立職からぐれて、自分ではいっぱしのやくざ気取りでいた。

(おつやはひとりむすめ、おもいあって、ゆくすえのやくそくまでしたが、)

おつやは一人娘、想いあって、ゆくすえの約束までしたが、

(はしばいっかにとっては、かれなどはざこのいちびにすぎなかった。)

橋場一家にとっては、彼などは雑魚の一尾にすぎなかった。

(にげるのはいいがくろうするぜ。いっしょなら、どんなくろうだって、)

逃げるのはいいが苦労するぜ。いっしょなら、どんな苦労だって。

(そしてしめしあわせたがぬけだすところをみつかって、とりまかれた。)

そしてしめし合せたがぬけ出すところをみつかって、取巻かれた。

(はんさん、しなないでおくれ。)

半さん、死なないでお呉くれ。

(つかまったおつやのさけびがきこえた。)

捉まったおつやの叫びが聞えた。

(めのくらむようなきもちだった。)

眼のくらむような気持だった。

(むちゅうでたんとうをぬき、とびかかってきたきんじを、さした。)

夢中で短刀を抜き、とびかかって来た金次を、刺した。

(ひだりのわきばらだった。そのぶきみなてごたえに、きもがきえた。)

左の脇腹だった。そのぶきみな手ごたえに、胆が消えた。

(いきててくれ、おつや。わめきながらにげた。)

生きてて呉れ、おつや。喚きながら逃げた。

(きりゅうというところでいちねんはんしたてしょくをしながら、)

桐生という処で一年半仕立職をしながら、

(おつやをよびよせるおりをまった。)

おつやを呼びよせる折を待った。

(しなないでおくれ。のどをしぼるようなおんなのぜっきょうが、いつもみみのおくにあった。)

死なないでお呉れ。喉を絞るような女の絶叫が、いつも耳の奥にあった。

(しなないでおくれ、はんさん、しなないで。)

死なないでお呉れ、半さん、死なないで。

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