夕靄の中 山本周五郎 ②
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | てんぷり | 5452 | B++ | 5.6 | 96.1% | 632.4 | 3591 | 143 | 79 | 2024/10/14 |
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問題文
(てらのもんをくぐるまで、そして、しょうろうのわきをとおってぼちへはいるまで、)
寺の門をくぐるまで、そして、鐘楼の脇を通って墓地へ入るまで、
(かれはいきぐるしいほどきんちょうした。)
彼は息苦しいほど緊張した。
(かかるならぼちへはいるまえだ。)
かかるなら墓地へ入るまえだ。
(そして、ぼちへはいってしまえば、たしかにとはいえないが、)
そして、墓地へ入ってしまえば、たしかにとはいえないが、
(だっそうのきかいがあるかもしれない。)
脱走の機会があるかもしれない。
(かれはからだじゅうのしんけいで、うしろのけはいにちゅういした。)
彼は躯じゅうの神経で、うしろのけはいに注意した。
(そのおとこはつけてくる。ふりかえってみるまでもない。)
その男はつけて来る。振返ってみるまでもない。
(そのおとこはねむたそうな(しかしすこしもまぎれのない)めで)
その男は眠たそうな(しかし少しも紛れのない)眼で
(こっちのせなかをみつめながら、まよいもあせりもない、)
こっちの背中をみつめながら、迷いも焦りもない、
(ひろうようなあしどりで、つけてくる。)
拾うような足どりで、つけて来る。
(それはちょうど、めにもみえずきることもできないいとで、)
それはちょうど、眼にも見えず切ることもできない糸で、
(しっかりとむすびつけられてでもいるようなかんじだった。)
しっかりと結びつけられてでもいるような感じだった。
(だがかれはぼちへはいった。)
だが彼は墓地へ入った。
(ひがしのはしへ、まっすぐにゆけ、そこからいりやへぬけられる。)
東の端へ、まっすぐにゆけ、そこから入谷へぬけられる。
(せんこうのけむりにむせて、せきがでた。)
線香の煙にむせて、咳が出た。
(いしじきのみちをひだりにまがり、みぎにまがる。)
石敷の道を左に曲り、右に曲る。
(はかはごうしゃなくいきから、しだいにかんそとなり、まずしくなる。)
墓は豪奢な区域から、しだいに簡素となり、貧しくなる。
(いっぽうはかねにあかしてつくり、たえずていれをして、)
一方は金に飽かして造り、絶えず手入れをして、
(ふききよめたようにきれいになっているが、)
拭き清めたようにきれいになっているが、
(かたほうではふるびて、かけて、かしいだりたおれたりしたのや、)
片方では古びて、欠けて、傾いだり倒れたりしたのや、
(またたけがきもなくぼせきもなく、ただすうまいのそとうばをたてたばかりのものもある。)
また竹垣もなく墓石もなく、ただ数枚の卒塔婆を立てたばかりのものもある。
(びんぼうにんはしんでもこんなものだ。)
貧乏人は死んでもこんなものだ。
(かれはくちびるをゆがめた。いくまがりかすると、もうみちにもいしはしいてない。)
彼は唇を歪めた。幾曲りかすると、もう道にも石は敷いてない。
(げたのはのあとのついた、はだかのあかつちつづきで、)
下駄の歯の跡の付いた、裸のあか土つづきで、
(やすいせんこうとつちの、きのめいるようなにおいがただよっていた。)
安い線香と土の、気のめいるような匂いが漂っていた。
(はかはどれもささやかでちいさい、ふるいのもあたらしいのも、)
墓はどれもささやかで小さい、古いのも新しいのも、
(みなせまいところへごたごたとよりあって、)
みな狭いところへごたごたとより合って、
(あたかもかれらがいきていたときのように、つつましくひかえめに、)
あたかもかれらが生きていたときのように、慎ましく控えめに、
(じっとかたをすぼめているようにみえた。)
じっと肩をすぼめているようにみえた。
(かれはあしをとめた。みぎがわにあたらしいはかがあった。)
彼は足を停めた。右がわに新しい墓があった。
(それはごくあたらしく、まだとうかとはたたないのだろう、)
それはごく新しく、まだ十日とは経たないのだろう、
(もりあげたつちもかわかず、しらきのぼひょうのおもてのみょうごうをかいたじも、)
盛上げた土も乾かず、白木の墓標の表の名号を書いた字も、
(すみのかがにおうようであった。)
墨の香が匂うようであった。
(かれはぼひょうのうしろへまわってみた、ぞくみょうおいね、としはにじゅうろくさい、)
彼は墓標のうしろへまわってみた、俗名おいね、年は二十六歳、
(めいにちはじゅうさんにちまえの、しもつきなのかとかいてあった。)
命日は十三日まえの、霜月七日と書いてあった。
(「おいねちゃんていうんだね」かれはそっとつぶやいた、)
「おいねちゃんていうんだね」彼はそっと呟やいた、
(「えんのないにんげんがはななんぞあげて、めいわくかもしれないが、)
「縁のない人間が花なんぞあげて、迷惑かもしれないが、
(のっぴきならなぬばあいだからかんべんしてもらうよ」)
のっぴきならぬばあいだから勘弁して貰うよ」
(そしてまえへもどった。)
そして前へ戻った。
(あおたけのつつのかたほうに、せんこうをたてる。)
青竹の筒の片方に、線香を立てる。
(にさんぼんおれて、おれたのはつちのうえでけむりをあげた。)
二三本折れて、折れたのは土の上で煙をあげた。
(はなはたいりんでもあるしおおすぎた、たけづつへさせるだけさして、)
花は大輪でもあるし多すぎた、竹筒へさせるだけさして、
(あまったのはぼひょうのまえへ、よこにおいた。)
余ったのは墓標の前へ、横に置いた。
(それから、そこへかがんで、めをつむりながらがっしょうした。)
それから、そこへかがんで、眼をつむりながら合掌した。
(あのおとこはこっちをみている。そうとおくないものかげから、しんぼうづよく、)
あの男はこっちを見ている。そう遠くない物蔭から、辛抱づよく、
(あのほそいめで、じっとこっちをうかがっている。)
あの細い眼で、じっとこっちをうかがっている。
(「にじゅうろくというと、おれとはみっつちがいだったんだな、おいねちゃん」)
「二十六というと、おれとは三つ違いだったんだな、おいねちゃん」
(くちのなかでそっとこうささやいた、)
口の中でそっとこう囁いた、
(「むすめのままだったのか、それともおよめにいったのか、)
「娘のままだったのか、それともお嫁にいったのか、
(このはかのようすじゃあ、あんまりらくなくらしでもなかったらしいが、)
この墓のようすじゃあ、あんまり楽な暮しでもなかったらしいが、
(しんでほっとしているか、それともやっぱりみれんののこることがあるか」)
死んでほっとしているか、それともやっぱりみれんの残ることがあるか」
(しょうしんをよそおうために、そうよびかけたのであるが、)
傷心を装うために、そう呼びかけたのであるが、
(つむっているめのうらへ、ふっとおつやのすがたがうかんできた)
つむっている眼の裏へ、ふっとおつやの姿がうかんできた。
(「ーーおつや」)
「ーーおつや」
(ふしぎにめはなだちははっきりしない。いろのあさぐろい、ひきしまったかおも、)
ふしぎに目鼻だちははっきりしない。色の浅黒い、ひき緊った顔も、
(かたのほそいしなやかなからだつきも、すべてがこづくりで、)
肩の細いしなやかな躯つきも、すべてが小づくりで、
(ふんわりとかるく、やわらかそうであった。)
ふんわりと軽く、柔らかそうであった。
(あたしをつれてにげておくれ、おとうさんはきんじをむこにするきよ、)
あたしを伴れて逃げてお呉れ、お父さんは金次を婿にする気よ、
(もうにげるほかにどうしようもないわ。)
もう逃げるほかにどうしようもないわ。
(りょうてでかたをだきしめ、ほおへほおをつけて、みもだえするようにいった。)
両手で肩を抱きしめ、頬へ頬をつけて、身もだえするように云った。
(あついこきゅうとだいたてのはげしいちからが、まざまざと、)
熱い呼吸と抱いた手の烈しい力が、まざまざと、
(げんじつのようによみがえってくる。)
現実のように甦ってくる。
(おつやのちちおやは「はしばのしちべえ」という、)
おつやの父親は「橋場の七兵衛」という、
(かなりなをうったばくちうちである。)
かなり名を売った博奕打である。
(こっちはしたてしょくからぐれて、じぶんではいっぱしのやくざきどりでいた。)
こっちは仕立職からぐれて、自分ではいっぱしのやくざ気取りでいた。
(おつやはひとりむすめ、おもいあって、ゆくすえのやくそくまでしたが、)
おつやは一人娘、想いあって、ゆくすえの約束までしたが、
(はしばいっかにとっては、かれなどはざこのいちびにすぎなかった。)
橋場一家にとっては、彼などは雑魚の一尾にすぎなかった。
(にげるのはいいがくろうするぜ。いっしょなら、どんなくろうだって、)
逃げるのはいいが苦労するぜ。いっしょなら、どんな苦労だって。
(そしてしめしあわせたがぬけだすところをみつかって、とりまかれた。)
そしてしめし合せたがぬけ出すところをみつかって、取巻かれた。
(はんさん、しなないでおくれ。)
半さん、死なないでお呉くれ。
(つかまったおつやのさけびがきこえた。)
捉まったおつやの叫びが聞えた。
(めのくらむようなきもちだった。)
眼のくらむような気持だった。
(むちゅうでたんとうをぬき、とびかかってきたきんじを、さした。)
夢中で短刀を抜き、とびかかって来た金次を、刺した。
(ひだりのわきばらだった。そのぶきみなてごたえに、きもがきえた。)
左の脇腹だった。そのぶきみな手ごたえに、胆が消えた。
(いきててくれ、おつや。わめきながらにげた。)
生きてて呉れ、おつや。喚きながら逃げた。
(きりゅうというところでいちねんはんしたてしょくをしながら、)
桐生という処で一年半仕立職をしながら、
(おつやをよびよせるおりをまった。)
おつやを呼びよせる折を待った。
(しなないでおくれ。のどをしぼるようなおんなのぜっきょうが、いつもみみのおくにあった。)
死なないでお呉れ。喉を絞るような女の絶叫が、いつも耳の奥にあった。
(しなないでおくれ、はんさん、しなないで。)
死なないでお呉れ、半さん、死なないで。