夕靄の中 山本周五郎 ⑤(終)

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プレイ回数1233難易度(4.3) 4417打 長文
人を刺しに江戸へ戻った男が、娘を亡くした老女と出会う。

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(つよいちからで、みぎのにのうでをぐっとつかまれ、)

強い力で、右の二の腕をぐっと掴まれ、

(ふりむくと、あのおとこがそこにたっていた。)

ふり向くと、あの男がそこに立っていた。

(「はしばみうちのはんしちだな、さわぐなよ」)

「橋場身内の半七だな、騒ぐなよ」

(おとこはこういいざま、こっちのふところへてをいれて、)

男はこう云いざま、こっちのふところへ手を入れて、

(たんとうをさっととりあげた。みごとなてなみである。)

短刀をさっと取りあげた。みごとな手並である。

(ろうじょはぼうぜんとめをみはっていた。)

老女は茫然と眼をみはっていた。

(ろうじょとのはなしにきをとられていた。)

老女との話に気をとられていた。

(あいてがそこへきたのもしらなかったし、)

相手がそこへ来たのも知らなかったし、

(たんとうをとられてはっとしたが、すぐにはくちがきけなかった。)

短刀を取られてはっとしたが、すぐには口がきけなかった。

(「な、なんですか、あなたはどなたですか」)

「な、なんですか、貴方はどなたですか」

(「とぼけちゃあいけない」)

「とぼけちゃあいけない」

(そのおとこはねむたそうなめで、そばであっけにとられているろうじょをちらとみ、)

その男は眠たそうな眼で、側であっけにとられている老女をちらと見、

(それからひにくなれいしょうをうかべながらいった。)

それから皮肉な冷笑をうかべながら云った。

(「おまえがきんじをやりにきたということは、)

「おまえが金次をやりに来たということは、

(ちゃんとしらせがとどいてるんだ、)

ちゃんと知らせが届いてるんだ、

(きりゅうのはたやのたなから、といえばわかるだろう」)

桐生の機屋の店から、といえばわかるだろう」

(「なにを、なにをおっしゃるんだか、わたしにはてんでわかりません」)

「なにを、なにを仰しゃるんだか、私にはてんでわかりません」

(「おれにもわからないことがある」おとこはいった、)

「おれにもわからないことがある」男は云った、

(「きんじがはしばいっかをおさえ、おつやというむすめのおしかけむこになったことは、)

「金次が橋場一家を押え、おつやという娘の押掛け婿になったことは、

(あくどいやりかただ、ふつうのせけんならまわりがゆるしてはおかないだろう、)

あくどいやり方だ、普通の世間ならまわりが許してはおかないだろう、

など

(しかし、やくざのせかいはべつだ、うでとどきょうがものをいう、)

しかし、やくざの世界はべつだ、腕と度胸がものを云う、

(やくざなかまでは、むりでもあくどくってもかつものがかつんだ、)

やくざ仲間では、無理でもあくどくっても勝つ者が勝つんだ、

(おまえはかたぎにもどった、そのことははたやのばんとうからよくきいている、)

おまえは堅気に戻った、そのことは機屋の番頭からよく聞いている、

(おもいあったおんなをよこどりされて、くやしいだろうが、)

想いあった女を横取りされて、口惜しいだろうが、

(おつやはもともとばくちうちのむすめだし、)

おつやはもともと博奕打の娘だし、

(そうなってしまえばそれで、しぜんとおさまってゆくものだ、)

そうなってしまえばそれで、しぜんとおさまってゆくものだ、

(おれもげんにみているが、どうやらなみかぜのたつようすもない、)

おれも現に見ているが、どうやら波風の立つようすもない、

(そこへいまおまえがのりこんで、きんじをさすことができたとしても、)

そこへ今おまえが乗込んで、金次を刺すことができたとしても、

(おつやのからだがむすめにかえるわけでもなし、)

おつやの躯が娘に返るわけでもなし、

(きんじにかわって、いきなりおまえがはしばをせおってたてもしない、)

金次に代って、いきなりおまえが橋場を背負って立てもしない、

(わるくこそあれ、よくなることはひとつもありゃあしない、)

悪くこそあれ、善くなることは一つもありゃあしない、

(どうしてそんなつまらないりょうけんをおこしたか、)

どうしてそんなつまらない量見を起こしたか、

(おれにはそれがわからないんだ」)

おれにはそれがわからないんだ」

(「あのしつれいでございますが」わきからろうじょがおそるおそるいった、)

「あの失礼でございますが」脇から老女がおそるおそる云った、

(「あなたはまちかたのおやぶんさまでございますか、)

「貴方は町方の親分さまでございますか、

(もしもそうなら、これはとんでもないおまちがいでございます」)

もしもそうなら、これはとんでもないお間違いでございます」

(おとこはゆっくりとふりかえった。)

男はゆっくりと振返った。

(ろうじょはびしょうして、きのどくそうにうなずきながらいった。)

老女は微笑して、気の毒そうに頷きながら云った。

(「こちらはするがちょうのえちごやのおてだいで、しげじろうとおっしゃるかたです、)

「こちらは駿河町の越後屋のお手代で、繁二郎と仰しゃる方です、

(わたくしはやまざきちょうのふじべえだなにいる、おかねというものですが、)

わたくしは山崎町の藤兵衛店にいる、おかねという者ですが、

(このかたは、しんだわたくしのむすめのはかまいりにきてくだすったところなんです」)

この方は、死んだわたくしの娘の墓まいりに来て下すったところなんです」

(「するとおまえさんは、このおとこをしっているのかえ」)

「するとおまえさんは、この男を知っているのかえ」

(「ぞんじておりますとも、よけいなことをもうしあげるようですが、)

「存じておりますとも、よけいなことを申上げるようですが、

(このかたとしんだむすめのおいねとはふうふやくそくができていたのですから」)

この方と死んだ娘のおいねとは夫婦約束ができていたのですから」

(「だが、はかまいりにたんとうはおかしかあないか」)

「だが、墓まいりに短刀はおかしかあないか」

(「それは」とろうじょがくちごもった、)

「それは」と老女が口ごもった、

(「このかたのようすでおさっしもうすのですけれど、)

「この方のようすでお察し申すのですけれど、

(おいねにしなれて、おもいつめたあまり、・・・」)

おいねに死なれて、思いつめたあまり、・・・」

(そのおとこはかれのほうをみた。かれはめをふせたまま、そっとうなずいた。)

その男は彼のほうを見た。彼は眼を伏せたまま、そっと頷いた。

(おとこはそれをほそいめでながめながら、おだやかなくちぶりでいった。)

男はそれを細い眼で眺めながら、穏やかな口ぶりで云った。

(「このひとのいうことにそういないか、おまえほんとうにかたぎの、えちごやのてだいか」)

「この人の云うことに相違ないか、おまえ本当に堅気の、越後屋の手代か」

(かれはまたうなずいた。「そうか、おれのめちがいか」)

彼はまた頷いた。「そうか、おれの眼ちがいか」

(そのおとこははじめて、つかんでいたうでをはなした。)

その男は初めて、掴んでいた腕を放した。

(それからとりあげたたんとうを、ゆらゆらとゆりながら、)

それから取りあげた短刀を、ゆらゆらと揺りながら、

(「そいつはとんだめいわくをかけた」とひくいこえでいった、)

「そいつはとんだ迷惑をかけた」と低い声で云った、

(「きりゅうのはたやにいるのが、おれのともだちで、)

「桐生の機屋にいるのが、おれの友達で、

(そいつがまたはんしちというおとこをすきなんだ、まちがいのないようにたのむと、)

そいつがまた半七という男を好きなんだ、まちがいのないように頼むと、

(きゅうびきゃくをよこしたので、せんじゅでみはっていたところおまえをみかけ、)

急飛脚をよこしたので、千住で見張っていたところおまえを見かけ、

(てっきりこいつとおもいこんだわけさ、)

てっきりこいつと思いこんだわけさ、

(はんしちというおとこはなかまをきってにげたんで、つかまればおなわになる、)

半七という男は仲間を斬って逃げたんで、捉まればお繩になる、

(もちろん、こんなはなしはおまえさんにはかんけいのないことだろう」)

もちろん、こんな話はおまえさんには関係のないことだろう」

(そして、もっているたんとうをみせ、「だがひとつおせっかいをさせてもらおう、)

そして、持っている短刀を見せ、「だがひとつお節介をさせて貰おう、

(おもうむすめにしなれたからって、おもいつめてしぬなんざあみれんすぎる、)

想う娘に死なれたからって、思いつめて死ぬなんざあ未練すぎる、

(そのくらいなら、こうしてあとにのこったおふくろさんのめんどうを)

そのくらいなら、こうしてあとに残ったおふくろさんの面倒を

(みてあげたらどうだ、そのほうが、しんだむすめのためにもくどくになるぜ」)

みてあげたらどうだ、そのほうが、死んだ娘のためにも功徳になるぜ」

(「まあとんでもない、どうかそんな、わたしのようなもののことなんぞ」)

「まあとんでもない、どうかそんな、わたしのような者のことなんぞ」

(「なあにこいつはただいってみただけのことさ、)

「なあにこいつはただ云ってみただけのことさ、

(めいわくをかけてすまなかった、このあぶないものはおれがあずかってゆくぜ」)

迷惑をかけて済まなかった、この危ないものはおれが預かってゆくぜ」

(そのおとこはたんとうをふところへいれた。)

その男は短刀をふところへ入れた。

(かちりとおとがしたのは、じってがあったからだろう。)

かちりと音がしたのは、十手があったからだろう。

(じっとほそいめでこちらをみつめて、それからゆっくりとさっていった。)

じっと細い眼でこちらを見つめて、それからゆっくりと去っていった。

(ゆうもやがこくなって、ぼちのむこうはおぼろにかすんでいる。)

夕靄が濃くなって、墓地の向うはおぼろにかすんでいる。

(おとこのすがたはそのもやのなかへと、しずかにきえていった。)

男の姿はその靄の中へと、静かに消えていった。

(「あのひとはまあなにをかんちがいしたんでしょう」)

「あの人はまあなにを勘違いしたんでしょう」

(ろうじょはこういってふといきをついた。)

老女はこう云って太息をついた。

(「にていたわたしがわるいんですよ」かれはなだめるようにいった、)

「似ていた私が悪いんですよ」彼はなだめるように云った、

(「あなたがいてくれたので、はやくうたがいがとけてたすかりました、)

「貴女がいて呉れたので、早く疑いが解けて助かりました、

(しかしああいうしょくのにんげんにしては、おもいやりのありそうなひとでしたね」)

しかしああいう職の人間にしては、思い遣りのありそうな人でしたね」

(かいほうされたように、きがらくになった。)

解放されたように、気が楽になった。

(きりゅうからここへくるまでの、どすぐろい、ゆがんだかんじょう。)

桐生から此処へ来るまでの、どす黒い、歪んだ感情。

(どろまみれによごれたみちの、すぐわきに、)

泥まみれに汚れた途の、すぐ脇に、

(こういうしずかな、ぶじなせかいがあった。)

こういう静かな、無事な世界があった。

(そのつもりなら、いまいわれたように、このろうじょをつれて)

そのつもりなら、いま云われたように、この老女を伴れて

(きりゅうへかえることもできる。そいつはあんまりきざだ。)

桐生へ帰ることもできる。そいつはあんまりきざだ。

(そして、いくらかふしぜんでもあるがそうすることができれば、)

そして、幾らか不自然でもあるがそうすることができれば、

(じぶんもしたてしょくとしておちつくことができるかもしれない。)

自分も仕立職としておちつくことができるかもしれない。

(「くれてきましたね」かれはあかおけをもちながらいった、)

「暮れてきましたね」彼は阿迦桶を持ちながら云った、

(「かえるとしましょうか」「あら、それはわたくしが」)

「帰るとしましょうか」 「あら、それはわたくしが」

(「いいえわたしがもちます、ついでにおたくまでおくってゆきますよ」)

「いいえ私が持ちます、ついでにお宅まで送ってゆきますよ」

(なにかいいたそうなろうじょのせへ、かれはそっとてをかけ、)

なにか云いたそうな老女の背へ、彼はそっと手をかけ、

(いたわるようにならんで、あるきだした。)

いたわるように並んで、歩きだした。

(ゆうもやをゆすって、かねがなりはじめた。)

夕靄をゆすって、鐘が鳴り始めた。

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