菊千代抄 山本周五郎 ⑤

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プレイ回数1495難易度(3.9) 2593打 長文
武家の因習で男として育てられた娘の話。
自分は男であると疑わず育った菊千代。
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。

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問題文

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(いつかごてんのひろえんでくれがたのつきをみていた。)

いつか御殿の広縁で昏れがたの月を観ていた。

(なのかかようかくらいのかけたつきであったが、)

七日か八日くらいの欠けた月であったが、

(ふとまじめなかおをし、きくちよのほうをみあげていった。)

ふとまじめな顔をし、菊千代のほうを見あげて云った。

(「たべかけでおやめにするの、いけないのね、)

「喰べかけでおやめにするの、いけないのね、

(たあたまおこごりになるのね」)

たあたまおこごりになるのね」

(おこごりはおおこりのことである。)

おこごりはお怒りのことである。

(「そうそう、たべかけはおぎょうぎがわるいね」)

「そうそう、喰べかけはお行儀が悪いね」

(きくちよはこういってあたまをなでてやった。)

菊千代はこう云って頭を撫でてやった。

(かくこはまたしばらくつきをながめていたが、)

佳玖子はまた暫く月を眺めていたが、

(またこちらをみあげ、つきをさしていった。)

またこちらを見あげ、月を指して云った。

(「あのおつきたまだれがたべかけたの」)

「あのお月たま誰がたべかけたの」

(そのときのこちらをふりあおいだかお、)

そのときのこちらをふり仰いだ顔、

(ほおがあかくよくこえた、おちょぼぐちをひきしめた、)

頬が赤くよく肥えた、おちょぼ口をひき緊めた、

(しかつべらしいかおはわすれることができない。)

しかつべらしい顔は忘れることができない。

(そのごもかけたつきをみるたびに、)

その後も欠けた月を見るたびに、

(きくちよはよくそのときのことをおもいだすのであった。)

菊千代はよくそのときのことを思いだすのであった。

(なかやしきへかえるとしばらくして、)

中屋敷へ帰ると暫くして、

(けんじゅつとじゅうじゅつはやめることになりかわってなぎなたのけいこをはじめた。)

剣術と柔術はやめることになり代って薙刀の稽古を始めた。

(がくもんもわがくにかわった。)

学問も和学に変った。

(ちちのめいれいだということであるが、ほかのものはとにかく、)

父の命令だということであるが、ほかのものはとにかく、

など

(じゅうじゅつだけはつづけてやりたかった。)

柔術だけは続けてやりたかった。

(それですきをみてははんざぶろうをさそってもみあった。)

それで隙をみては半三郎を誘って揉みあった。

(「やわらはきんじられたのですから、みつかるとおとがめをうけますから」)

「やわらは禁じられたのですから、みつかるとお咎めをうけますから」

(はんざぶろうはそんなふうにいって、なるべくさけようとしたし、)

半三郎はそんなふうにいって、なるべく避けようとしたし、

(けいこぶりもごくかるくなった。)

稽古ぶりもごく軽くなった。

(きくちよとしてはかれのきびしいきめてがすきで)

菊千代としては彼のきびしい極め手が好きで

(なげられたりおさえこまれたりすると、)

投げられたり押えこまれたりすると、

(すもうのときとはだんちがいなこころよさをかんじる。)

相撲のときとは段違いな快さを感じる。

(ことにそのじぶんはんざぶろうのからだに、)

ことにそのじぶん半三郎のからだに、

(いっしゅのかぐわしいにおいがではじめて、)

一種のかぐわしい匂いがで始めて、

(もみあってあせをかくと、それがいっそうつよくなる。)

揉みあって汗をかくと、それがいっそう強くなる。

(はげしくからだをぶっつけたりおさえこまれるときなどは、)

激しくからだをぶっつけたり押えこまれるときなどは、

(そのにおいでむせるようなかんじになった。)

その匂いで咽るような感じになった。

(「どうしてこんなにわかのからだはふにゃふにゃしているんだろう、)

「どうしてこんなに若のからだはふにゃふにゃしているんだろう、

(おまえはせもずんずんのびるしてあしもこんなにかたくなる」)

おまえは背もずんずん伸びるし手足もこんなに固くなる」

(きくちよはじぶんのうでやあしをつかんでみながら、)

菊千代は自分の腕や足を掴んでみながら、

(たびたびはんざぶろうのそれとくらべてみた。)

たびたび半三郎のそれと比べてみた。

(「それは、たいしつというものがありますから」)

「それは、躰質というものがありますから」

(はんざぶろうはそんなときことばをにごした、)

半三郎はそんなとき言葉を濁した、

(「たいしつもあるし、としもちがいますし、)

「躰質もあるし、年も違いますし、

(それにやはり、なんといってもごみぶんが」)

それにやはり、なんといっても御身分が」

(「もういい、わかったよ、なにかいうとすぐごみぶんだ、たくさんだよ」)

「もういい、わかったよ、なにか云うとすぐ御身分だ、たくさんだよ」

(こんなもんどうになるとはんざぶろうはいかにもこまったようなかおをする。)

こんな問答になると半三郎はいかにも困ったような顔をする。

(かれはもうじゅうごさいくらいになっていたが、)

彼はもう十五歳くらいになっていたが、

(せたけもたかく、たくましいからだつきで、)

背丈も高く、逞しいからだつきで、

(けのおおいたちとみえ、すねにもけがはえていたし、)

毛の多いたちとみえ、脛にも毛が生えていたし、

(はなのしたにもまばらにうぶげがでた。)

鼻の下にも疎らに生毛が出た。

(からだにくらべてかおはちいさく、おもながでせんがきりっとしまって、)

からだに比べて顔は小さく、おもながで線がきりっと緊って、

(よくすんだかんがえぶかそうなめと)

よく澄んだ考えぶかそうな眼と

(いつもぬれたようにあかいくちびるとにとくちょうがあった。)

いつも濡れたように赤い唇とに特徴があった。

(それがこまったようなひょうじょうになるのをみると、)

それが困ったような表情になるのをみると、

(きくちよはいいようのないはげしいかんじょうをそそられる。)

菊千代は云いようのない激しい感情を唆られる。

(いきなりだきついてなくか、もっといじわるくやりこめるか、)

いきなり抱きついて泣くか、もっといじ悪くやりこめるか、

(どっちにしてもかれのほんしんとじかにふれたいという)

どっちにしても彼の本心とじかに触れたいという

(じりじりしたきもちになるのであった。)

じりじりした気持になるのであった。

(それからおよそにねんくらいのあいだ、)

それからおよそ二年くらいのあいだ、

(きくちよのはんざぶろうにたいするかんじょうはたえずどうようし、)

菊千代の半三郎に対する感情は絶えず動揺し、

(いちにちじゅうそばにひきつけておくかとおもうと、)

一日じゅう側にひきつけて置くかと思うと、

(みっかもよっかもかおをみたくない、こえもききたくない、)

三日も四日も顔を見たくない、声も聞きたくない、

(わざとかれのみているまえでほかのものと)

わざと彼の見ている前でほかの者と

(したしくしてみせたりしかりつけたりする。)

親しくしてみせたり叱りつけたりする。

(じぶんでもりゆうはわからないのだが)

自分でも理由はわからないのだが

(そんなふうなきぶんのむらがつねにきふくをつづけた。)

そんなふうな気分のむらが常に起伏を続けた。

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