菊千代抄 山本周五郎 ⑦
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(「おやしきはちこうございます、およろしければおかごをめいじましょう、)
「お屋敷は近うございます、およろしければ御かごを命じましょう、
(おかおいろがわるうございますから、そういたすほうが」)
お顔色が悪うございますから、そう致すほうが」
(「いやだいじょうぶだ、もうすぐなおる」)
「いや大丈夫だ、もうすぐ治る」
(きくちよはこういってめをつむった。)
菊千代はこう云って眼をつむった。
(どうやらはきけはおさまったが、こしからだいたいぶへかけて、)
どうやらはきけはおさまったが、腰から大腿部へかけて、
(ほねがだるいようないたいような、おもくるしいいやなきもちである。)
骨がだるいような痛いような、重苦しいいやな気持である。
(うまがしっそうしたとき、どこかいためたのではないか。)
馬が疾走したとき、どこか痛めたのではないか。
(ふとそんなうたがいがおこった。)
ふとそんな疑いが起こった。
(きがついてみるとはらのあたりもいたいようだ、)
気がついてみると腹のあたりも痛いようだ、
(そのうえぜんしんがわけもなくだるい。)
そのうえ全身がわけもなくだるい。
(きくちよはきゅうにふあんになり、いらいらしたこえで)
菊千代は急に不安になり、苛々した声で
(「かえるーー」というと、たっておおまたにうまのほうへいった。)
「帰るーー」と云うと、立って大股に馬のほうへいった。
(うしろではんざぶろうがあっといった。)
うしろで半三郎があっといった。
(ごくひくい、ほとんどいきのおとだけであったが、)
ごく低い、殆んど息の音だけであったが、
(しんけいがかびんになっているので、きくちよはそれをききのがさなかった。)
神経が過敏になっているので、菊千代はそれを聞きのがさなかった。
(おそらくしっきんのよごれをみつけたのであろう、)
おそらく失禁の汚れをみつけたのであろう、
(だがきくちよはもうそれにはかまわず、おこったようなあるきぶりでいって、)
だが菊千代はもうそれには構わず、怒ったような歩きぶりでいって、
(しはんのかいぞえするうまへのり、わじまのせんとうでしもやしきへむかった。)
師範の介添する馬へ乗り、和島の先登で下屋敷へ向った。
(それからまるとおかのあいだ、)
それからまる十日のあいだ、
(きくちよはねまにこもりきりでだれにもあわなかった。)
菊千代は寝間にこもりきりで誰にも会わなかった。
(ちちがみまいにきたときも、ちちをさえねまへいれなかった。)
父がみまいに来たときも、父をさえ寝間へ入れなかった。
(ーーじぶんはおんなであった。)
ーー自分は女であった。
(ーーおとこではなかった。)
ーー男ではなかった。
(ーーじぶんはおんなであった。)
ーー自分は女であった。
(おなじことをくりかえしながら、やぐのなかでてんてんとみもだえをし、)
同じことを繰り返しながら、夜具の中でてんてんと身もだえをし、
(とつぜんおきてないた。)
とつぜん起きて泣いた。
(にさんにちはしょくじもせず、みずばかりのんでいた。)
二三日は食事もせず、水ばかり飲んでいた。
(きがたかぶってくるとじぶんでじぶんをせいすることができない。)
気が昂ってくると自分で自分を制することができない。
(ものをこわしたり、ねまきをひきさいたり、)
物をこわしたり、寝まきをひき裂いたり、
(そうしてちちやははやまわりのものみんなにたいしてのろいのさけびをあげた。)
そうして父や母やまわりの者みんなに対して呪いの叫びをあげた。
(「みんなおいえのためでございますから、ふるくからのいいつたえで、)
「みんな御家のためでございますから、古くからのいいつたえで、
(そうしなければならなかったのでございますから」)
そうしなければならなかったのでございますから」
(まつおはいっしょになきながら、)
松尾はいっしょに泣きながら、
(そしてふじょうのしまつにたえずきをくばりながら、)
そして不浄の始末に絶えず気をくばりながら、
(よるもほとんどねむらずについていた。)
夜も殆んど眠らずに付いていた。
(「けっしてそんなにごしんぱいあそばすことはございません。)
「決してそんなに御心配あそばすことはございません。
(およつぎさえごしゅっしょうになれば、)
お世継ぎさえ御出生になれば、
(それですぐにおひめさまにおなりあそばすのですもの、)
それですぐにお姫さまにおなりあそばすのですもの、
(おなげきあそばすことはすこしもございませんですよ」)
お嘆きあそばすことは少しもございませんですよ」
(「ききたくない、うるさい、だまってくれ」)
「聞きたくない、うるさい、黙って呉れ」
(きくちよはこうさけんで、まつおにものをなげつけたことさえあった。)
菊千代はこう叫んで、松尾に物を投げつけたことさえあった。
(じぶんのいまわしくのろわしいたちばはだれにもわかってもらえない、)
自分の忌わしく呪わしい立場は誰にもわかって貰えない、
(まつおにもりかいできないようだ。)
松尾にも理解できないようだ。
(それがすくいがたいほどきくちよをこどくかんにつきおとし、ぜつぼうてきにさせた。)
それが救いがたいほど菊千代を孤独感につきおとし、絶望的にさせた。
(じぶんはおんなであるのに、おんなとしてうまれてきたのに、)
自分は女であるのに、女として生れてきたのに、
(それをおとこといつわってそだてられた、いまでもじぶんはおとこのきもちでいる、)
それを男と偽ってそだてられた、今でも自分は男の気持でいる、
(だが、からだはおんなとしてせいちょうしているのだ、)
だが、からだは女として成長しているのだ、
(いったいじぶんはおんななのか、それともおとこなのか。)
いったい自分は女なのか、それとも男なのか。
(こうしてやがてきくちよはつかれた。)
こうしてやがて菊千代は疲れた。
(あばれることにもなくことにもつかれ、おもいなやむことにもつかれて、)
暴れることにも泣くことにも疲れ、思い悩むことにも疲れて、
(きょだつしたようにおとなしくなった。)
虚脱したようにおとなしくなった。
(しょくじもすこしずつとるようになり、)
食事も少しずつ摂るようになり、
(こばんでいたいしゃのしんさつもゆるした。)
拒んでいた医者の診察も許した。
(うまのしっそうというできごとのために、しょちょうとしてはたりょうであったが、)
馬の疾走という出来事のために、初潮としては多量であったが、
(からだにはいじょうのないこと、)
からだには異状のないこと、
(こんごもあんずるようなことはないだろうというしんだんであった。)
今後も案ずるようなことはないだろうという診断であった。
(そのほうこくをきいたからであろう。)
その報告を聞いたからであろう。
(しんさつのあったよくじつにちちがきた。)
診察のあった翌日に父が来た。
(「このあいだはたいそうげきりんだったな」)
「このあいだはたいそう逆鱗だったな」
(さだながは、こういってわらいながら、)
貞良は、こう云って笑いながら、
(じぶんからきくちよのいまへはいってきた。)
自分から菊千代の居間へはいって来た。
(きくちよはかおがあかくなるのがわかった、)
菊千代は顔が赤くなるのがわかった、
(はらだたしいほどはずかしくて、どうしてもめをあげることができず、)
肚立たしいほど恥ずかしくて、どうしても眼をあげることができず、
(なきだしそうでくちもきけなかった。)
泣きだしそうで口もきけなかった。
(「はなすおりがなかったので、さぞおどろいたろうとおもうが、)
「話すおりがなかったので、さぞ驚いたろうと思うが、
(これにはわけがあるし、もともとそんなに)
これにはわけがあるし、もともとそんなに
(うろたえさわぐほどのことではないのだ」)
うろたえ騒ぐほどのことではないのだ」
(さだながはきがるなくちぶりでそのりゆうというのをかたった。)
貞良は気軽な口ぶりでその理由というのを語った。