菊千代抄 山本周五郎 ⑧

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武家の因習で男として育てられた娘の話。
自分は男であると疑わず育った菊千代。
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。

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問題文

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(まきのけにはふるくから、はじめにじょしがうまれたら)

巻野家には古くから、初めに女子が生れたら

(それをおとことしてそだてるというかくんのようなものがあった。)

それを男としてそだてるという家訓のようなものがあった。

(そうすればかならずあとにだんしがうまれるというので、)

そうすれば必ずあとに男子が生れるというので、

(これまでにもそうしたれいがじっさいにあり、)

これまでにもそうした例が実際にあり、

(そのままずっとでんしょうされてきた。)

そのままずっと伝承されてきた。

(とうじきぞく、だいみょうのなかには)

当時貴族、大名のなかには

(こういうたぐいのかふうがまれではなかったらしい。)

こういう類の家風が稀ではなかったらしい。

(じょしがしちにんうまれればそのひとりをぶつもんにいれるとか、)

女子が七人生れればその一人を仏門に入れるとか、

(とうしゅはけっしてせいしつをむかえてはならないとか、)

当主は決して正室を迎えてはならないとか、

(ようしをするばあいはかならずたつみのほうがくからえらべとか、)

養子をするばあいは必ず巽の方角から選べとか、

(かなりゆうめいなものでもしごのれいはすぐにあげることができる。)

かなり有名なものでも四五の例はすぐに挙げることができる。

(「わかのおおおばさまにあたるかたなどは、)

「若の大伯母さまにあたる方などは、

(はたちまでおとこでおいでなされた、それからおじいさまがうまれて、)

二十歳まで男でおいでなされた、それからお祖父さまが生れて、

(まつだいらえんしゅうけへおとつぎしなされたくらいだ、)

松平遠州家へお嫁しなされたくらいだ、

(これがまきののでんとうなのだが」さだながはこういってきくちよをみた、)

これが巻野の伝統なのだが」貞良はこう云って菊千代を見た、

(「もしわかにそのきがあれば、おんなにならず、おとこでいっしょうとおすこともできる、)

「もし若にその気があれば、女にならず、男で一生とおすこともできる、

(これはずっとまえからかんがえていたのだが、)

これはずっとまえから考えていたのだが、

(だいみょうのいえでもおんなというものはいろいろそくばくがおおい、)

大名の家でも女というものはいろいろ束縛が多い、

(ばかなようなものでもおっととしてつかえ、)

ばかなような者でも良人として仕え、

(きゅうくつなおもいをしていっしょうをおくらなければならない、)

窮屈なおもいをして一生をおくらなければならない、

など

(おとこだからといって、こういうみぶんであれば)

男だからといって、こういう身分であれば

(さしてのほうずなことができるわけでもないが、)

さして野放図なことができるわけでもないが、

(なんといってもおんなよりはじゆうだし、)

なんといっても女よりは自由だし、

(あるていどまではすきなようにいきてゆける、)

或る程度までは好きなように生きてゆける、

(どちらでもよい、そのうちにふんべつがついたらまたそうだんしよう」)

どちらでもよい、そのうちに分別がついたらまた相談しよう」

(「ほんとうに、おとこのままでいられるのですか」)

「本当に、男のままでいられるのですか」

(「わかがのぞみさえすればぞうさもないことだ」)

「若が望みさえすればぞうさもないことだ」

(「でも、あとにおとうとがうまれましたら」)

「でも、あとに弟が生れましたら」

(「まきのをつぐのではないぶんぽうするのだ」)

「巻野を継ぐのではない分封するのだ」

(よつぎはかならずうまれる、あんがいはやくうまれるかもしれない、)

世継ぎは必ず生れる、案外はやく生れるかもしれない、

(さだながはかくしんありげにそういった。)

貞良は確信ありげにそういった。

(またぶんぽうとはしょりょうのうちからてきとうなだかをわけて、)

また分封とは所領の内から適当な高を分けて、

(それにそうとうしたけらいをもって、)

それに相当した家来を持って、

(しょうがいどくりつのたてぬしとなることだとせつめいした。)

生涯独立の館主となることだと説明した。

(きくちよはちちにはなんともへんじをしなかった。)

菊千代は父にはなんとも返辞をしなかった。

(こころのなかではおとことしていきようとおもったが、)

心のなかでは男として生きようと思ったが、

(からだがあきらかにおんなであるといういしき、)

からだが明らかに女であるという意識、

(それもまったくとうとつにわりこんできたいしきのために、)

それもまったく唐突に割込んできた意識のために、

(しょうらいはとにかくげんざいのことすら、)

将来はとにかく現在のことすら、

(どうみをしょしていいかはんだんがつかなかったのである。)

どう身を処していいか判断がつかなかったのである。

(きもちがおちついて、へいじょうどおりねおきをするようになっても、)

気持がおちついて、平常どおり寝起きをするようになっても、

(きうつといっておくからはでなかった。)

気鬱といって奥からは出なかった。

(みのまわりのことはまつおにさせ、あうのはひぐちじろうべえひとりである。)

身のまわりのことは松尾にさせ、会うのは樋口次郎兵衛ひとりである。

(にわもおりどをしめて、さむらいたちのおくにわへはいることはもちろん、)

庭も折戸を閉めて、待たちの奥庭へ入ることはもちろん、

(なかにわからのぞくことさえきんじた。)

中庭から覗くことさえ禁じた。

(「じいとおまえのほかに、わかがおんなだということをしっているのはだれとだれだ」)

「じいとおまえのほかに、若が女だということを知っているのは誰と誰だ」

(あるよる、きくちよはこうまつおにきいた、)

ある夜、菊千代はこう松尾にきいた、

(まつおはかんがえるまでもなくなをあげた。)

松尾は考えるまでもなく名を挙げた。

(ちちと、なくなったははと、じいと、)

父と、亡くなった母と、侍医と、

(とりあげたろうじょ、えどくにもとのりょうかろう、)

取上げた老女、江戸国許の両家老、

(そのほかにけっしてしっているものはないということであった。)

そのほかに決して知っている者はないということであった。

(「なによりこうぎへもおとどけいたしますので、)

「なにより公儀へもお届け致しますので、

(かようなことがもれましてはおいえのだいじにもなりかねませんのですから」)

かようなことが漏れましては御家の大事にもなりかねませんのですから」

(「ではわかのあいてにあがっていたものたちもしってはいないのだね」)

「では若の相手にあがっていた者たちも知ってはいないのだね」

(「それはもうすまでもございません」)

「それは申すまでもございません」

(まつおはそこでおもいだしたようにいった。)

松尾はそこで思いだしたように云った。

(「おわすれでございましょうか、いつぞやごべっけのちからさまと、)

「お忘れでございましょうか、いつぞや御別家の主税さまと、

(おやしきをぬけておよぎにおいであそばしたことがございました」)

お屋敷をぬけて泳ぎにおいであそばしたことがございました」

(「うん、そんなことがあったね」)

「うん、そんなことがあったね」

(「ちからさまがおさそいあそばしたそうですが、)

「主税さまがお誘いあそばしたそうですが、

(もしわかさまがおんなであらっしゃるとごぞんじならば、)

もし若さまが女であらっしゃるとご存じならば、

(よもやちからさまもおさそいはなさらなかったでございましょう」)

よもや主税さまもお誘いはなさらなかったでございましょう」

(そのときのことをきくちよはありありとおもいだした。)

そのときのことを菊千代はありありと思いだした。

(そうだ、ちからはじぶんにはやくはだかになれといったが、)

そうだ、主税は自分に早く裸になれと云ったが、

(そのたいどにはごくしぜんで、こうきしんめいたものはなにもなかった。)

その態度にはごくしぜんで、好奇心めいたものはなにもなかった。

(そうけべっけのかんけいにあるちからでさえしってはいなかったのだ。)

宗家別家の関係にある主税でさえ知ってはいなかったのだ。

(かれらがじぶんをおとこだとしんじていたことはまちがいがないだろう、)

かれらが自分を男だと信じていたことはまちがいがないだろう、

(ただしれいがいはある。)

但し例外はある。

(ろくさいのとしのなつ、いけへはいってさかなをおいまわしていたとき、)

六歳の年の夏、池へはいって魚を追いまわしていたとき、

(ーーわかさまの・・・はこわれている。こうさけんだこがいた。)

ーー若さまの・・・はこわれている。こう叫んだ子がいた。

(そのひのうちにやしきからおわれたが、)

その日のうちに屋敷から逐われたが、

(あのこはしっているかもしれない。)

あの子は知っているかもしれない。

(それともうひとり、すぎむらはんざぶろう。)

それともう一人、椙村半三郎。

(「どうあそばしました」まつおがびっくりしたようにこちらをみた。)

「どうあそばしました」松尾がびっくりしたようにこちらを見た。

(はんざぶろうをおもいうかべたとき、われしらずこえをあげたらしい。)

半三郎を思いうかべたとき、われ知らず声をあげたらしい。

(きくちよはかぶりをふってだまって、たってにわへでていった。)

菊千代はかぶりを振って黙って、立って庭へ出ていった。

(かれはいかしてはおけない。)

彼は生かしてはおけない。

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