菊千代抄 山本周五郎 ⑪
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(ばくふのほうにはどういうけいしきをとったかはわからないが、)
幕府のほうにはどういう形式をとったかはわからないが、
(しがつからまきのけのせいしはかめちよにきまり、)
四月から巻野家の世子は亀千代にきまり、
(なかやしきでかなりせいだいなひろうのうたげがあった。)
中屋敷でかなり盛大な披露の宴があった。
(きくちよはそのときはじめておとうとをみた。)
菊千代はそのとき初めて弟を見た。
(まだひゃくにちにたらないあかごで、かみのけのこいのと、)
まだ百日に足らない赤児で、髪毛の濃いのと、
(よくこえていたということくらいしかおぼえがない。)
よく肥えていたということくらいしか覚えがない。
(それがおとうとをみたはじめであり、そしておわりであった。)
それが弟を見た初めであり、そして終りであった。
(それからきくちよはふたたびいぜんのせいかつにもどった。)
それから菊千代は再び以前の生活に戻った。
(がくもんもし、ゆみやなぎなたのけいこもし、うまにものった。)
学問もし、弓や薙刀の稽古もし、馬にも乗った。
(はんざぶろうがいなくなったほか、まわりはみなもとのものたちばかりで、)
半三郎がいなくなったほか、まわりはみな元の者たちばかりで、
(きくちよのひみつについてはだれもしらないらしかったが、)
菊千代の秘密については誰も知らないらしかったが、
(はんざぶろうがせいばいされたということで、いっしゅのけいかいとへだてができ、)
半三郎がせいばいされたということで、一種の警戒と隔てができ、
(まえのようにうちとけたかんじはなくなってしまった。)
まえのようにうちとけた感じはなくなってしまった。
(かれらはおそれているのだ、それだけなのだ、きにするひつようはない。)
かれらは怖れているのだ、それだけなのだ、気にする必要はない。
(こうおもったけれども、へだてのできたかれらのようすが、)
こう思ったけれども、隔てのできたかれらのようすが、
(ときにはげしくかんにさわり、ついするとどなりつけ、ののしり、)
ときに激しく癇に障り、ついするとどなりつけ、罵り、
(またしばしばむちをあげるようなことさえあった。)
またしばしば鞭をあげるようなことさえあった。
(わるかった、やりすぎた。あとではくやみながら、)
悪かった、やり過ぎた。あとでは悔みながら、
(やはりおなじことをくりかえしてしまう。)
やはり同じことを繰り返してしまう。
(そのばになるとじせいするちからがなくなって、)
その場になると自制するちからがなくなって、
(ほとんどむいしきにらんぼうなことをしてしまうのであった。)
殆んど無意識に乱暴なことをしてしまうのであった。
(きくちよはせめられなければならぬだろうか。)
菊千代は責められなければならぬだろうか。
(いや、かのじょはのちにおもいかえしてもいなということができる。)
いや、彼女はのちに思い返しても否ということができる。
(かのじょはだれよりもくるしんでいた。)
彼女は誰よりも苦しんでいた。
(じゅうごさいのあのときまでおとこであるとしんじ、おとことしてそだってきた。)
十五歳のあの時まで男であると信じ、男としてそだって来た。
(しぜんにふるまっていてもげんごどうさはそのままおとことみえるにそういない。)
しぜんにふるまっていても言語動作はそのまま男とみえるに相違ない。
(しかしきくちよはもうしぜんなきもちではいられなくなっていた。)
しかし菊千代はもうしぜんな気持ではいられなくなっていた。
(おとこであろうとするいしきがつねにあたまにあった。)
男であろうとする意識がつねに頭にあった。
(おんなだということがわかりはしないか。)
女だということがわかりはしないか。
(あのめはきづいためつきではないか。)
あの眼は気づいた眼つきではないか。
(このようにたえずしんけいがとがって、)
このように絶えず神経が尖って、
(おくにこもっているときいがいはこころのゆるむひまがなかった。)
奥にこもっているとき以外は心のゆるむ暇がなかった。
(それだけならじかんのもんだいかもしれない、)
それだけなら時間の問題かもしれない、
(なれるにしたがってきんちょうもにぶったであろう。)
馴れるにしたがって緊張も鈍ったであろう。
(だがかのじょのからだがそうさせなかった。)
だが彼女のからだがそうさせなかった。
(いちにちいちにちとみえるように、)
一日一日と見えるように、
(からだぜんたいがきくちよをうらぎりはじめたのである。)
からだ全体が菊千代を裏切りはじめたのである。
(なめらかにつやをましてゆくひふ、りょうのおおいかみのけ、)
なめらかに艶を増してゆく皮膚、量の多い髪毛、
(こしまわりからふとももへかけてのにくづき、ふくらんでくるむなぢ。)
腰まわりから太腿へかけての肉付、ふくらんでくる胸乳。
(きくちよはどんなにそのひとつひとつをのろったことだろう。)
菊千代はどんなにその一つ一つを呪ったことだろう。
(さかやきにしても、きくちよのはそりあとのあおさがちがう、)
月代にしても、菊千代のは剃りあとの青さが違う、
(なめらかにしろくてぶよぶよしたかんじである。)
なめらかに白くてぶよぶよした感じである。
(まゆげもほそく、くちひげもはえない、)
眉毛も細く、口髭も生えない、
(どんなにあらあらしくてもてづまさきはすんなりとうつくしくなるばかりだった。)
どんなに荒々しくしても手爪先はすんなりと美しくなるばかりだった。
(そしてこえがいつまでもかれらのようにふとくならず、)
そして声がいつまでもかれらのように太くならず、
(さけんだりするときんきんかんだかにひびいた。)
叫んだりするときんきん甲高に響いた。
(まだかたいしこりのあるちぶさはてでおしてもいたむ、)
まだ固いしこりのある乳房は手で押しても痛む、
(それをきくちよはさらしもめんできりきりとまきしめた。)
それを菊千代は晒し木綿できりきりと巻き緊めた。
(かみそりをあてればこくなるというので、)
剃刀を当てれば濃くなるというので、
(くちのまわりをまいにちのようにそらせた。)
口のまわりを毎日のように剃らせた。
(ゆみ、なぎなた、じょうばのほかにまたけんじゅつをはじめ、)
弓、薙刀、乗馬のほかにまた剣術を始め、
(なおおくにわのさいえんでつちいじりもした。)
なお奥庭の菜園で土いじりもした。
(こうしてからだをこくしし、)
こうしてからだを酷使し、
(しょくじもできるだけそまつなものをできるかぎりしょうりょうとった。)
食事もできるだけ粗末な物をできる限り少量摂った。
(しかしそういうどりょくをちょうろうするかのように、)
しかしそういう努力を嘲弄するかのように、
(からだじたいはおんなとしてのはったつをすこしもやめなかった。)
からだ自体は女としての発達を少しもやめなかった。
(ふるくからのがくゆうをやめさせ、)
古くからの学友をやめさせ、
(まったくきくちよをしらないしょうねんをさんにん、かみやしきからもらった。)
まったく菊千代を知らない少年を三人、上屋敷から貰った。
(かわいかずま、すえつぐいのすけ、さのもりえ、みなどうねんのじゅうよんさいであった。)
河井数馬、末次猪之助、佐野守衛、みな同年の十四歳であった。
(このあいだにがくもんやぶげいのしもこうたいさせ、)
このあいだに学問や武芸の師も交代させ、
(あらたにきたしにもほとんどきょうじゅをうけなかった。)
新たに来た師にもほとんど教授を受けなかった。
(さんにんのしょうねんたちとだけゆみやなぎなたのけいこをしたり、)
三人の少年たちとだけ弓や薙刀の稽古をしたり、
(うまにのったりするほか、しだいにへやへこもるようになった。)
馬に乗ったりするほか、しだいに部屋へこもるようになった。
(ちちのたずねてくるかいすうはずっとへった。)
父の訪ねて来る回数はずっと減った。
(つきににどはたいていくるがこないときもあった。)
月に二度はたいてい来るが来ないときもあった。
(そのころちちはわかどしよりからろうじゅうになっていた。)
そのころ父は若年寄から老中になっていた。
(「じじょをつかったらどうだ。これではあまりさっぷうけいではないか」)
「侍女を使ったらどうだ。これではあまり殺風景ではないか」
(「いいえじじょはいりません、まつおでようがたりますから」)
「いいえ侍女はいりません、松尾で用が足りますから」
(「しかしすこしはうるおいがないといけない、)
「しかし少しはうるおいがないといけない、
(ここはまるでそうぼうのようにみえる」)
ここはまるで僧坊のようにみえる」
(じゅうぜんどおりくるとさけをだし、きくちよとぜんをならべてのみながらはなすが、)
従前どおり来ると酒を出し、菊千代と膳を並べて飲みながら話すが、
(ちちはむかしのようにたのしそうではなく、)
父は昔のように楽しそうではなく、
(ふとするときくちよのすがたからめをそらすようにした。)
ふとすると菊千代の姿から眼をそらすようにした。
(じぶんのおとこすがたがおきにめさないのだ。)
自分のおとこ姿がお気に召さないのだ。
(それはうたがうよちがないとおもった。するとつよいはんこうしんがおこった。)
それは疑う余地がないと思った。すると強い反抗心が起こった。