菊千代抄 山本周五郎 ⑮
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(「あんたはびょうにんじゃないの、)
「あんたは病人じゃないの、
(びょうきのときくらいあたしがしたっていいじゃないの、)
病気のときくらいあたしがしたっていいじゃないの、
(あたしがいくらばかだってもういねかりぐらいできますよ」)
あたしがいくらばかだってもう稲刈りぐらいできますよ」
(「おまえをばかだって、おれはそんな、)
「おまえをばかだって、おれはそんな、
(そんなことをいってるんじゃないんだ」「いいえしってます。)
そんなことをいってるんじゃないんだ」 「いいえ知ってます。
(あんたはあたしをなんにもできないおんなだとおもってるんです、)
あんたはあたしをなんにも出来ない女だと思ってるんです、
(くわもかまももたせない、たきぎもせおわせないこやしもかつがせない、)
鍬も鎌も持たせない、焚木も背負わせないこやしも担がせない、
(いっしょにくろうをしようといってきて、)
いっしょに苦労をしようと云って来て、
(あたしはずっとそのつもりで、なんでもしようとおもうのに、)
あたしはずっとそのつもりで、なんでもしようと思うのに、
(あんたにはもう、・・・もうあたしがおもにになっているんだわ」)
あんたにはもう、・・・もうあたしが重荷になっているんだわ」
(「やめてくれ、たのむからやめてくれ」)
「やめて呉れ、頼むからやめて呉れ」
(なきだしたつまにむかって、たけつぐはあいがんするようにこういった。)
泣きだした妻に向って、竹次は哀願するようにこう云った。
(「おまえにのらのしごとをさせないのは、けっしてそんなつもりじゃない、)
「おまえに野良の仕事をさせないのは、決してそんなつもりじゃない、
(おまえにそんなことをさせるのがおれにはつらいんだ、)
おまえにそんな事をさせるのがおれには辛いんだ、
(こんなやまがへつれてきて、しなくてもいいくろうをさせて、)
こんなやまがへ伴れて来て、しなくてもいい苦労をさせて、
(まんぞくにきることもくうこともできない。)
満足に着ることも食うこともできない。
(みんなおれのかいしょうなしのためだ、)
みんなおれの甲斐性なしのためだ、
(それだけだっておれはすまないとおもってるんだ」)
それだけだっておれは済まないと思ってるんだ」
(「そんなことをいわれてあたしがうれしいとおもうの、)
「そんなことを云われてあたしが嬉しいと思うの、
(ひとつのものをわけてたべるのがふうふなら、)
一つの物を分けて喰べるのが夫婦なら、
(くろうだってふたりでわけあうのがあたりまえじゃないの」)
苦労だって二人で分けあうのがあたりまえじゃないの」
(「おまえはくろうしているじゃないか、おれはおまえのすがたをみるたびに」)
「おまえは苦労しているじゃないか、おれはおまえの姿を見るたびに」
(「やめてちょうだい、そんなこと、あんた」)
「やめて頂戴、そんなこと、あんた」
(いくはさけんでおっとにすがりつき、みをふるわせてなき、)
いくは叫んで良人にすがりつき、身を震わせて泣き、
(しどろもどろにかきくどいた。)
しどろもどろにかきくどいた。
(「すまないのはあたしよ、あたしさえいなければ、)
「済まないのはあたしよ、あたしさえいなければ、
(あんたはわたしまやのしゅじんになって、りっぱなだんなでくらせたんだわ、)
あんたは渡島屋の主人になって、りっぱな旦那でくらせたんだわ、
(それをあたしがいたばっかりにこんな、こんなみじめな」)
それをあたしがいたばっかりにこんな、こんなみじめな」
(「もうたくさんだ、おいく、やめてくれ、もうたくさんだ」)
「もうたくさんだ、おいく、やめて呉れ、もうたくさんだ」
(「あたしあんたにすまなくって、もうしわけなくって、)
「あたしあんたに済まなくって、申しわけなくって、
(これまでどんなにかげでおわびをいっていたか、しれないわ、)
これまでどんなに蔭でお詫びを云っていたか、しれないわ、
(かんにんして、あんた、かんにんして」)
堪忍して、あんた、堪忍して」
(おいくはおっとのむねにしがみついてないた。)
おいくは良人の胸にしがみついて泣いた。
(それからふたりがどんなふうにことばをとりかわしたか、)
それから二人がどんなふうに言葉をとり交わしたか、
(どのようにしていさかいがおさまったか、)
どのようにして諍いがおさまったか、
(きくちよにはよくおもいだすことができない。)
菊千代にはよく思いだすことができない。
(きくちよはせつめいしがたいかんどうにうたれ、いつかじぶんもないていた。)
菊千代は説明しがたい感動にうたれ、いつか自分も泣いていた。
(それがいさかいではなく、いたわりあいであることがすぐにわかった。)
それが諍いではなく、いたわりあいであることがすぐにわかった。
(たけつぐがびょうきでねているので、おいくがそっとぬけだしていねかりをはじめた。)
竹次が病気で寝ているので、おいくがそっとぬけだして稲刈りを始めた。
(それとしってたけつぐがおってきて、そんないさかいあいになったものらしい。)
それと知って竹次が追って来て、そんな諍いあいになったものらしい。
(ごくありふれたことなのだろうが、ふだんどちらもむくちで、)
ごくありふれたことなのだろうが、ふだんどちらも無口で、
(こころにおもいながらくちにだしてはなにもいえない、)
心に思いながら口にだしてはなにも云えない、
(おたがいがこころのなかで、おたがいにくろうをかける、すまないとおもっていた。)
お互いが心のなかで、お互いに苦労をかける、済まないと思っていた。
(それがいま、かざらないことばでたがいのくちをついてでたのだ。)
それが今、飾らない言葉で互いの口をついて出たのだ。
(もっとあたしにくろうをわけてくれ。)
もっとあたしに苦労を分けて呉れ。
(これいじょうおまえにくろうはさせられない。)
これ以上おまえに苦労はさせられない。
(このやりとりがしょうげきのようにつよく、いつまでもきくちよのあたまにのこった。)
このやりとりが衝撃のように強く、いつまでも菊千代の頭に残った。
(あいじょうでむすばれたふたりの、かばいあいいたわりささえあおうとするきもちが、)
愛情でむすばれた二人の、かばいあいいたわり支えあおうとする気持が、
(すこしのたくらみもなくあらわれている。)
少しの巧みもなくあらわれている。
(ひんきゅうしたみじめなせいかつは、かれらの「こい」をうちくだいたであろう、)
貧窮したみじめな生活は、かれらの「恋」をうち砕いたであろう、
(しかしそれにかわってもっとふかく、)
しかしそれに代ってもっと深く、
(もっとねづよいあいがふたりをつないでいるのだ。)
もっと根づよい愛が二人をつないでいるのだ。
(「さあもういい、かえろう」たけつぐがそういった、)
「さあもういい、帰ろう」竹次がそう云った、
(「しょうたもなくんじゃない、もうにさんにちすればおとっつぁんもおきるからな、)
「正太も泣くんじゃない、もう二三日すればお父つぁんも起きるからな、
(そうしたらさんにんでいっしょにいねかりにこよう、)
そうしたら三人でいっしょに稲刈りに来よう、
(まだいつかやなのかおくれたってだいじょうぶだ、しょうたはかまをもちな」)
まだ五日や七日おくれたって大丈夫だ、正太は鎌を持ちな」
(さんにんがさってからややしばらくして、)
三人が去ってからやや暫くして、
(きくちよはやまみちをかれらのいえとははんたいのほうへ)
菊千代は山道をかれらの家とは反対のほうへ
(きのぬけたようなあしどりでおりていった。)
気のぬけたような足どりで下りていった。
(あたまがぼんやりして、むねのおくがあついようで、)
頭がぼんやりして、胸の奥が熱いようで、
(あしがじめんからうくようなかんじだった。)
足が地面から浮くような感じだった。
(「かわいそうなきくさん、かわいそうに・・・」きくちよはふとこうつぶやいた。)
「可哀そうな菊さん、可哀そうに・・・」菊千代はふとこう呟いた。
(じぶんでそうつぶやいて、そのこえにびっくりして、)
自分でそう呟いて、その声にびっくりして、
(たちどまってしゅういをみまわした。)
立停って周囲を見まわした。
(ちかくにひとのすがたはみえなかった。)
近くに人の姿は見えなかった。
(もちろんじぶんがつぶやいたのである。)
もちろん自分が呟いたのである。
(「なんだろう、かわいそうなきくさん、)
「なんだろう、可哀そうな菊さん、
(・・・どうしてこんなことばがいまとつぜんでたのだろう」)
・・・どうしてこんな言葉が今とつぜん出たのだろう」
(なにかとおいきおくにありそうだった。)
なにか遠い記憶にありそうだった。
(けれどもそれがなんであるか、どうしてもおもいだせそうにない。)
けれどもそれがなんであるか、どうしても思いだせそうにない。