菊千代抄 山本周五郎 ⑮

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プレイ回数1488難易度(4.1) 3111打 長文
武家の因習で男として育てられた娘の話。
自分は男であると疑わず育った菊千代。
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。

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問題文

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(「あんたはびょうにんじゃないの、)

「あんたは病人じゃないの、

(びょうきのときくらいあたしがしたっていいじゃないの、)

病気のときくらいあたしがしたっていいじゃないの、

(あたしがいくらばかだってもういねかりぐらいできますよ」)

あたしがいくらばかだってもう稲刈りぐらいできますよ」

(「おまえをばかだって、おれはそんな、)

「おまえをばかだって、おれはそんな、

(そんなことをいってるんじゃないんだ」「いいえしってます。)

そんなことをいってるんじゃないんだ」 「いいえ知ってます。

(あんたはあたしをなんにもできないおんなだとおもってるんです、)

あんたはあたしをなんにも出来ない女だと思ってるんです、

(くわもかまももたせない、たきぎもせおわせないこやしもかつがせない、)

鍬も鎌も持たせない、焚木も背負わせないこやしも担がせない、

(いっしょにくろうをしようといってきて、)

いっしょに苦労をしようと云って来て、

(あたしはずっとそのつもりで、なんでもしようとおもうのに、)

あたしはずっとそのつもりで、なんでもしようと思うのに、

(あんたにはもう、・・・もうあたしがおもにになっているんだわ」)

あんたにはもう、・・・もうあたしが重荷になっているんだわ」

(「やめてくれ、たのむからやめてくれ」)

「やめて呉れ、頼むからやめて呉れ」

(なきだしたつまにむかって、たけつぐはあいがんするようにこういった。)

泣きだした妻に向って、竹次は哀願するようにこう云った。

(「おまえにのらのしごとをさせないのは、けっしてそんなつもりじゃない、)

「おまえに野良の仕事をさせないのは、決してそんなつもりじゃない、

(おまえにそんなことをさせるのがおれにはつらいんだ、)

おまえにそんな事をさせるのがおれには辛いんだ、

(こんなやまがへつれてきて、しなくてもいいくろうをさせて、)

こんなやまがへ伴れて来て、しなくてもいい苦労をさせて、

(まんぞくにきることもくうこともできない。)

満足に着ることも食うこともできない。

(みんなおれのかいしょうなしのためだ、)

みんなおれの甲斐性なしのためだ、

(それだけだっておれはすまないとおもってるんだ」)

それだけだっておれは済まないと思ってるんだ」

(「そんなことをいわれてあたしがうれしいとおもうの、)

「そんなことを云われてあたしが嬉しいと思うの、

(ひとつのものをわけてたべるのがふうふなら、)

一つの物を分けて喰べるのが夫婦なら、

など

(くろうだってふたりでわけあうのがあたりまえじゃないの」)

苦労だって二人で分けあうのがあたりまえじゃないの」

(「おまえはくろうしているじゃないか、おれはおまえのすがたをみるたびに」)

「おまえは苦労しているじゃないか、おれはおまえの姿を見るたびに」

(「やめてちょうだい、そんなこと、あんた」)

「やめて頂戴、そんなこと、あんた」

(いくはさけんでおっとにすがりつき、みをふるわせてなき、)

いくは叫んで良人にすがりつき、身を震わせて泣き、

(しどろもどろにかきくどいた。)

しどろもどろにかきくどいた。

(「すまないのはあたしよ、あたしさえいなければ、)

「済まないのはあたしよ、あたしさえいなければ、

(あんたはわたしまやのしゅじんになって、りっぱなだんなでくらせたんだわ、)

あんたは渡島屋の主人になって、りっぱな旦那でくらせたんだわ、

(それをあたしがいたばっかりにこんな、こんなみじめな」)

それをあたしがいたばっかりにこんな、こんなみじめな」

(「もうたくさんだ、おいく、やめてくれ、もうたくさんだ」)

「もうたくさんだ、おいく、やめて呉れ、もうたくさんだ」

(「あたしあんたにすまなくって、もうしわけなくって、)

「あたしあんたに済まなくって、申しわけなくって、

(これまでどんなにかげでおわびをいっていたか、しれないわ、)

これまでどんなに蔭でお詫びを云っていたか、しれないわ、

(かんにんして、あんた、かんにんして」)

堪忍して、あんた、堪忍して」

(おいくはおっとのむねにしがみついてないた。)

おいくは良人の胸にしがみついて泣いた。

(それからふたりがどんなふうにことばをとりかわしたか、)

それから二人がどんなふうに言葉をとり交わしたか、

(どのようにしていさかいがおさまったか、)

どのようにして諍いがおさまったか、

(きくちよにはよくおもいだすことができない。)

菊千代にはよく思いだすことができない。

(きくちよはせつめいしがたいかんどうにうたれ、いつかじぶんもないていた。)

菊千代は説明しがたい感動にうたれ、いつか自分も泣いていた。

(それがいさかいではなく、いたわりあいであることがすぐにわかった。)

それが諍いではなく、いたわりあいであることがすぐにわかった。

(たけつぐがびょうきでねているので、おいくがそっとぬけだしていねかりをはじめた。)

竹次が病気で寝ているので、おいくがそっとぬけだして稲刈りを始めた。

(それとしってたけつぐがおってきて、そんないさかいあいになったものらしい。)

それと知って竹次が追って来て、そんな諍いあいになったものらしい。

(ごくありふれたことなのだろうが、ふだんどちらもむくちで、)

ごくありふれたことなのだろうが、ふだんどちらも無口で、

(こころにおもいながらくちにだしてはなにもいえない、)

心に思いながら口にだしてはなにも云えない、

(おたがいがこころのなかで、おたがいにくろうをかける、すまないとおもっていた。)

お互いが心のなかで、お互いに苦労をかける、済まないと思っていた。

(それがいま、かざらないことばでたがいのくちをついてでたのだ。)

それが今、飾らない言葉で互いの口をついて出たのだ。

(もっとあたしにくろうをわけてくれ。)

もっとあたしに苦労を分けて呉れ。

(これいじょうおまえにくろうはさせられない。)

これ以上おまえに苦労はさせられない。

(このやりとりがしょうげきのようにつよく、いつまでもきくちよのあたまにのこった。)

このやりとりが衝撃のように強く、いつまでも菊千代の頭に残った。

(あいじょうでむすばれたふたりの、かばいあいいたわりささえあおうとするきもちが、)

愛情でむすばれた二人の、かばいあいいたわり支えあおうとする気持が、

(すこしのたくらみもなくあらわれている。)

少しの巧みもなくあらわれている。

(ひんきゅうしたみじめなせいかつは、かれらの「こい」をうちくだいたであろう、)

貧窮したみじめな生活は、かれらの「恋」をうち砕いたであろう、

(しかしそれにかわってもっとふかく、)

しかしそれに代ってもっと深く、

(もっとねづよいあいがふたりをつないでいるのだ。)

もっと根づよい愛が二人をつないでいるのだ。

(「さあもういい、かえろう」たけつぐがそういった、)

「さあもういい、帰ろう」竹次がそう云った、

(「しょうたもなくんじゃない、もうにさんにちすればおとっつぁんもおきるからな、)

「正太も泣くんじゃない、もう二三日すればお父つぁんも起きるからな、

(そうしたらさんにんでいっしょにいねかりにこよう、)

そうしたら三人でいっしょに稲刈りに来よう、

(まだいつかやなのかおくれたってだいじょうぶだ、しょうたはかまをもちな」)

まだ五日や七日おくれたって大丈夫だ、正太は鎌を持ちな」

(さんにんがさってからややしばらくして、)

三人が去ってからやや暫くして、

(きくちよはやまみちをかれらのいえとははんたいのほうへ)

菊千代は山道をかれらの家とは反対のほうへ

(きのぬけたようなあしどりでおりていった。)

気のぬけたような足どりで下りていった。

(あたまがぼんやりして、むねのおくがあついようで、)

頭がぼんやりして、胸の奥が熱いようで、

(あしがじめんからうくようなかんじだった。)

足が地面から浮くような感じだった。

(「かわいそうなきくさん、かわいそうに・・・」きくちよはふとこうつぶやいた。)

「可哀そうな菊さん、可哀そうに・・・」菊千代はふとこう呟いた。

(じぶんでそうつぶやいて、そのこえにびっくりして、)

自分でそう呟いて、その声にびっくりして、

(たちどまってしゅういをみまわした。)

立停って周囲を見まわした。

(ちかくにひとのすがたはみえなかった。)

近くに人の姿は見えなかった。

(もちろんじぶんがつぶやいたのである。)

もちろん自分が呟いたのである。

(「なんだろう、かわいそうなきくさん、)

「なんだろう、可哀そうな菊さん、

(・・・どうしてこんなことばがいまとつぜんでたのだろう」)

・・・どうしてこんな言葉が今とつぜん出たのだろう」

(なにかとおいきおくにありそうだった。)

なにか遠い記憶にありそうだった。

(けれどもそれがなんであるか、どうしてもおもいだせそうにない。)

けれどもそれがなんであるか、どうしても思いだせそうにない。

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