菊千代抄 山本周五郎 ⑯
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(きくちよはあたまをふって、やぶのわきから)
菊千代は頭を振って、藪の脇から
(せきにそったみちへとまがっていった。)
堰に沿った道へと曲っていった。
(やかたのあるおかのすそへでると、おもてのくろもんへゆくとちゅうにのうかがさんけんある。)
屋形のある丘の裾へ出ると、表の黒門へゆく途中に農家が三軒ある。
(おかのしたの、たけやぶやぞうきばやしにかこまれた、)
丘の下の、竹藪や雑木林に囲まれた、
(じめじめしたいんきないっかくで、さんけんともすっかりすみふるし、)
じめじめした陰気な一画で、三軒ともすっかり住み古し、
(ほとんどくちかかったあばらやであるが、)
殆んど朽ちかかったあばら屋であるが、
(そのいちばんみちにちかいいえのものらしい、)
そのいちばん道に近い家のものらしい、
(ものおきごやのようなもののまえに、やかたのさむらいとげぼくとがし、ごにんいて、)
物置小屋のようなものの前に、屋形の侍と下僕とが四、五人いて、
(こわだかになにかいっているのがみえた。)
声高になにか云っているのが見えた。
(きくちよはだまってとおりすぎようとしたが、)
菊千代は黙って通り過ぎようとしたが、
(「いや、ならん、すぐにたちのけ」こういうのをきいてあしをとめた。)
「いや、ならん、すぐに立退け」こう云うのを聞いて足を停めた。
(たちのけというのはおだやかでないとおもった、)
立退けというのは穏やかでないと思った、
(それでついしらずそっちへちかづいていって、どうしたかとこえをかけた。)
それでつい知らずそっちへ近づいていって、どうしたかと声をかけた。
(さむらいやげぼくたちはおどろいてそこへひざをついた。)
侍や下僕たちは驚いてそこへ膝をついた。
(するとそのこやのなかに、ひどくやせたおとこがひとり、)
するとその小屋の中に、ひどく痩せた男が一人、
(じっとあたまをたれているのがみえた。)
じっと頭を垂れているのが見えた。
(「どうしたのだ、そのおとこがなにかしたのか」)
「どうしたのだ、その男がなにかしたのか」
(「いろいろうろんなことがございますので、)
「いろいろうろんなことがございますので、
(たちのくようにもうしわたしているところでございます」)
立退くように申し渡しているところでございます」
(「うろんなこととは、どんなことだ」)
「うろんなこととは、どんなことだ」
(「かれはみつきほどまえにここへすみついたものでございますが」)
「彼は三月ほどまえに此処へ住みついた者でございますが」
(さむらいのひとりがこうせつめいした。)
侍の一人がこう説明した。
(そこはげんたというのうふのものおきごやだったが、)
そこは源太という農夫の物置小屋だったが、
(しちがつしょじゅんにすこしていれをして、そのおとこがすむようになった。)
七月初旬に少し手入れをして、その男が住むようになった。
(げんたのとおえんのもので、みとのほうでしょうばいをしているが、)
源太の遠縁の者で、水戸のほうで商売をしているが、
(びょうじゃくのためみせをひとにたのみ、しばらくせいようするつもりできたのだという。)
病弱のため店を人に頼み、暫く静養するつもりで来たのだという。
(「わたしどももそうとばかりおもっておりましたところ、)
「私どももそうとばかり思っておりましたところ、
(それがみなうそで、げんたとはえんもゆかりもなく、)
それがみな嘘で、源太とは縁もゆかりもなく、
(みとのみせというのも、しょうにんともうすのもうそで、)
水戸の店というのも、商人と申すのも嘘で、
(まことはぶしらしく、そのうえびょうきはろうがいということでございます」)
まことは武士らしく、そのうえ病気は労咳ということでございます」
(げんたのつまからもれたのが、やかたのげぼくにつたわったので、)
源太の妻からもれたのが、屋形の下僕に伝わったので、
(きてといつめたところへんとうがはっきりしない。)
来て問い詰めたところ返答がはっきりしない。
(すじょうがそんなふうにあやしいし、)
素姓がそんなふうに怪しいし、
(ろうがいなどというびょうにんではやかたのちかくにはおけない。)
労咳などという病人では屋形の近くには置けない。
(それでたちのきをめいじているのだということだった。)
それで立退きを命じているのだということだった。
(はなしをききながら、きくちよはおとこのようすをながめていた。)
話を聞きながら、菊千代は男のようすを眺めていた。
(やせたほねだったからだで、いたいたしくかたがとがっている。)
痩せた骨立ったからだで、いたいたしく肩が尖っている。
(りょうてをひざにおいて、ふかくあたまをたれたしせいには、)
両手を膝に置いて、ふかく頭を垂れた姿勢には、
(どこやらりんとしたせんがあって、)
どこやら凛とした線があって、
(なにかよしありげな、というかんじがつよくきた。)
なにか由ありげな、という感じが強くきた。
(よほどやむをえないじじょうがあって、やむからだで、)
よほどやむを得ない事情があって、病むからだで、
(こんなところへみをかくしているのだろう。)
こんな処へ身を隠しているのだろう。
(きくちよはこうそうぞうしたので、「いやたちのくにはおよばない、)
菊千代はこう想像したので、「いや立退くには及ばない、
(ゆるすからここにおいて、びょうきをいたわってやるがよい、)
許すから此処に置いて、病気をいたわってやるがよい、
(よわいにんげんにむじひなことはしないものだ」)
弱い人間に無慈悲なことはしないものだ」
(さむらいやげぼくたちにそういいつけて、おとこのほうはみずにそこをさった。)
侍や下僕たちにそういいつけて、男のほうは見ずにそこを去った。
(びょうきをいたわってやれといったとき、)
病気をいたわってやれといったとき、
(きくちよはふとたけつぐふさいにもえんじょをあたえようとおもいついた。)
菊千代はふと竹次夫妻にも援助を与えようと思いついた。
(そしてみょうだいなぬしのかずえもんをよんで、)
そして名代名主の数右衛門を呼んで、
(えんじょはどのようにしたらいいかをそうだんした。)
援助はどのようにしたらいいかを相談した。
(かずえもんはそれにははんたいであった、)
数右衛門はそれには反対であった、
(かれらがほんとうにひゃくしょうになるつもりなら、)
かれらが本当に百姓になるつもりなら、
(やはりまごのだいまでしんぼうしなければいけない、)
やはり孫の代まで辛抱しなければいけない、
(ここでわきからたすけてやれば、とうざはせいかつがらくになるであろう、)
ここで脇から助けてやれば、当座は生活が楽になるであろう、
(しかしえんじょがきれたときはもとのもくあみで、)
しかし援助が切れたときは元の杢阿弥で、
(そうしたれいはいくらもある。そんなふうにしゅちょうした。)
そうした例は幾らもある。そんなふうに主張した。
(「それはそうでもあろうが、)
「それはそうでもあろうが、
(しんぼうしてゆけるだけのしんぱいはしてやってもよくはないか」)
辛抱してゆけるだけの心配はしてやってもよくはないか」
(きくちよはさからわずに、たけつぐがびょうにんであることをはなし、)
菊千代はさからわずに、竹次が病人であることを話し、
(とにかくあだにならないほうほうでかれらをえんじょするようにといった。)
とにかく仇にならない方法でかれらを援助するようにと云った。
(それからやくいちねんあまり。きくちよはおちついたしずかなひをおくった。)
それから約一年あまり。菊千代はおちついた静かな日を送った。
(たけつぐにはこえたたをごたんぶと、すみをやくためのやまがあたえられた。)
竹次には肥えた田を五段歩と、炭を焼くための山が与えられた。
(とちがたにかいなので、よいでんじはあまりおおくはない、)
土地が谷峡なので、良い田地はあまり多くは無い、
(そのごだんぶはかずえもんのもちちで、)
その五段歩は数右衛門の持ち地で、
(たけつぐにつくらせるにはかなりむりをしたようであった。)
竹次に作らせるにはかなり無理をしたようであった。
(げんたのものおきにいるおとこも、びょうきはさしてわるくないとみえ、)
源太の物置にいる男も、病気はさして悪くないとみえ、
(ときにあるきまわっているすがたをみかけるし、)
ときに歩きまわっている姿をみかけるし、
(こやのまえをとおりかかるとよくまきをわっていたりした。)
小屋の前を通りかかるとよく薪を割っていたりした。
(あのときのことをわすれないのだろう、あるいていてみかけると、)
あのときのことを忘れないのだろう、歩いていてみかけると、
(たをへだてたむこうのみちからでもていちょうにあいさつするし、)
田を隔てた向うの道からでも鄭重に挨拶するし、
(こやのまわりでなにかしているようなときにも、)
小屋のまわりでなにかしているようなときにも、
(きくちよがとおりかかるとかならず、)
菊千代が通りかかると必ず、
(びんかんにきづいて、あたまをひくくさげてもくれいした。)
敏感に気づいて、頭を低く下げて黙礼した。