菊千代抄 山本周五郎 ⑱

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プレイ回数1227難易度(4.1) 3794打 長文
武家の因習で男として育てられた娘の話。
自分は男であると疑わず育った菊千代。
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。

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問題文

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(いつかふさいのいいあらそっていたたはもういねがかりとられたあとで、)

いつか夫妻の云い諍っていた田はもう稲が刈り取られたあとで、

(かりかぶがきれいにならびしきりにすずめがおちぼをついばんでいた。)

刈り株がきれいに並びしきりに雀が落ち穂をついばんでいた。

(きくちよがあのときみをかくしたかんぼくのしげみは、)

菊千代があのとき身を隠した灌木の茂みは、

(きょねんよりたけものびえだをひろげて、)

去年より丈も伸び枝をひろげて、

(そのえだにまじってのいばらのあかいみがうつくしくひかってみえた。)

その枝にまじって野茨の赤い実が美しく光ってみえた。

(かのじょはそこでたちどまって、しんとしたかりたをながめまわした。)

彼女はそこで立停って、しんとした刈田を眺めまわした。

(しっとりとやわらかくかわいたたのつち、きれいにそろったかりかぶ、)

しっとりと柔らかく乾いた田の土、きれいに揃った刈り株、

(そこにたけつぐやおいくやしょうたのすがたがみえるようである。)

そこに竹次やおいくや正太の姿が見えるようである。

(あたらしくこえたごたんぶのたをつくり、ふゆにはすみをやいて、)

新しく肥えた五段歩の田を作り、冬には炭を焼いて、

(たがいにいたわりささえあって、さんにんでしあわせにいきているであろう、)

互いにいたわり支えあって、三人で幸福に生きているであろう、

(いま、げんにかれらはさんにんで、いっしょにききとはたらいているにちがいない。)

今、現にかれらは三人で、いっしょに喜々と働いているに違いない。

(みもこころもぴったりとよりあったおやこさんにんのむつまじいたのしげなすがた、)

身も心もぴったりと倚り合った親子三人のむつまじい楽しげな姿、

(きくちよはふとなきたいようなかんじょうにさそわれ、むいしきにくちのなかでつぶやいた。)

菊千代はふと泣きたいような感情にさそわれ、無意識に口の中で呟いた。

(「ーーかわいそうなきくさん、かわいそうに」)

「ーー可哀そうな菊さん、可哀そうに」

(まったくいしきしないつぶやきであった。)

まったく意識しない呟きであった。

(こんどもじぶんでびっくりしたが、そのせつなにありありとおもいだした。)

こんども自分でびっくりしたが、その刹那にありありと思いだした。

(それはははのことばであった。)

それは母の言葉であった。

(ははがなくなるとき、きくちよのてをにぎって、)

母が亡くなるとき、菊千代の手を握って、

(なみだをこぼしながらいったことばである。)

涙をこぼしながらいった言葉である。

(ーーおかわいそうに、きくさん、おかわいそうに。)

ーーお可哀そうに、菊さん、お可哀そうに。

など

(きくちよはあやうくうめきそうになった。)

菊千代は危うく呻きそうになった。

(ははのかおはよくおもいだせないが、むくんだようなほおにこぼれおちたなみだや、)

母の顔はよく思いだせないが、むくんだような頬にこぼれ落ちた涙や、

(わびるようないのるようなそのこえは、)

詫びるような祈るようなその声は、

(まざまざときおくからよみがえってきた。)

まざまざと記憶からよみがえってきた。

(じぶんのてをにぎったいたいほどのちからも、)

自分の手を握った痛いほどの力も、

(そのままじぶんのてにのこっているようだ。)

そのまま自分の手に残っているようだ。

(ーーおかわいそうな、きくさん。)

ーーお可哀そうな、菊さん。

(ははのことばのいみがはじめてわかる。)

母の言葉の意味が初めてわかる。

(じぶんがかみやしきへたずねていっても、どこかよそよそしくて、)

自分が上屋敷へ訪ねていっても、どこかよそよそしくて、

(じぶんのすがたからめをそらすようにした。)

自分の姿から眼をそらすようにした。

(はははじぶんのおとこすがたをみるにたえなかったのだ、)

母は自分のおとこ姿を見るに耐えなかったのだ、

(いえのふるいでんしょうにはしたがわなければならない、)

家の古い伝承には従わなければならない、

(しかしはじめてうんだむすめがおとことしてそだてられるのを、)

しかし初めて産んだ娘が男としてそだてられるのを、

(はははへいきではみていられなかった。)

母は平気では見ていられなかった。

(いつもあわれがり、かわいそうだとおもっていたのだ。)

いつも哀れがり、可哀そうだと思っていたのだ。

(ーーおかあさま。)

ーーお母さま。

(きくちよはめをつぶって、こころのなかでそうよびかけた。)

菊千代は眼をつぶって、心のなかでそう呼びかけた。

(じぶんはなぜははのことばをおもいだしたか。)

自分はなぜ母の言葉を思いだしたか。

(じゅうよねんもまえの、しかもそのときはわけもわからず、)

十余年もまえの、しかもそのときはわけもわからず、

(ただきみがわるいとしかかんじなかったことを、)

ただきみが悪いとしか感じなかったことを、

(なぜとつぜんにおもいだしたか。いまきくちよにはりかいすることができる。)

なぜとつぜんに思いだしたか。いま菊千代には理解することができる。

(それはたけつぐふさいのいたわりあいしあうすがたをみたからなのだ、)

それは竹次夫妻のいたわり愛しあう姿を見たからなのだ、

(そのようにふかくおっとにあいされているおいくのすがたをみたからである。)

そのように深く良人に愛されているおいくの姿を見たからである。

(じぶんはかつてそのようにあいされたことがない、)

自分はかつてそのように愛されたことがない、

(しゅじゅうのかんけいはあるけれども、)

主従の関係はあるけれども、

(おんなとしてはいちども、だれからもあいされなかった。)

女としては一度も、誰からも愛されなかった。

(おそらくはこれからもあいされることはないだろう。)

おそらくはこれからも愛されることはないだろう。

(じぶんではいしきせずにそうおもい、)

自分では意識せずにそう思い、

(そしてきおくのそこにかくれていたははのことばを、)

そして記憶の底に隠れていた母の言葉を、

(われしらずつぶやいたにちがいない。)

われ知らず呟いたに違いない。

(ーーそうだ、かわいそうなきくちよ。)

ーーそうだ、可哀そうな菊千代。

(そのとしのふゆをこすあいだ、きくちよはうっとうしいような、)

その年の冬を越すあいだ、菊千代は欝陶しいような、

(げんきのないひびをおくった。)

元気のない日々を送った。

(なかやまへきてからのしずかなおちついたせいかつがおわった。)

中山へ来てからの静かなおちついた生活が終った。

(としがあけてはるのちかづくころから、きくちよはまたきもちがいらいらし、)

年が明けて春の近づくころから、菊千代はまた気持が苛々し、

(かんがたかぶって、れいげつのさわりのぜんごには、)

癇が昂ぶって、例月のさわりの前後には、

(ふたたびあのいまわしいゆめをみるようになった。)

再びあの忌わしい夢を見るようになった。

(なんのりゆうもなくせいきゅうにみょうだいなぬしをよんで、)

なんの理由もなく性急に名代名主を呼んで、

(「たけつぐへのえんじょはやめる、もうかまうな」などとおこりごえでいったり、)

「竹次への援助はやめる、もう構うな」などと怒り声で云ったり、

(またじぶんひとりでいきなりたておかさんざえもんのこやへゆき、)

また自分ひとりでいきなり楯岡三左衛門の小屋へゆき、

(「こんなところではふじゆうであろう、やしきへきてようじょうするがよい、)

「こんな処では不自由であろう、屋敷へ来て養生するがよい、

(もうしつけておくから」そんなことをいいだしたりした。)

申しつけて置くから」 そんなことを云いだしたりした。

(おもいつくことがしょうどうてきで、しかもそれがよくせいできない。)

思いつくことが衝動的で、しかもそれが抑制できない。

(なんでもそくざにおもうようにやってしまう。)

なんでも即座に思うようにやってしまう。

(どっきではんにちもとおのりをして、)

独騎で半日も遠乗りをして、

(そこがもうりんぱんであることをしらずにとがめられたり、)

そこがもう隣藩であることを知らずに咎められたり、

(むほうにかけさせてのりうまのあしをくじかせたりした。)

無法に駆けさせて乗馬の脚を挫かせたりした。

(なぎなたのけいこをはじめて、やいちのほかにあいてがなく、)

薙刀の稽古を始めて、弥市のほかに相手がなく、

(やいちはまたあいてにはふそくなので、にわきのえだをたたきおってまわり、)

弥市はまた相手には不足なので、庭樹の枝を叩き折ってまわり、

(うでのすじをちがえるようなこともあった。)

腕の筋をちがえるようなこともあった。

(たけつぐのことはあとからつかいでとりけしし、)

竹次のことはあとから使いで取消し、

(えんじょをつづけるようにといってやったが、)

援助を続けるようにと云ってやったが、

(たておかのほうはめいじてしまったので、)

楯岡のほうは命じてしまったので、

(さむらいたちがいってかれをやかたへひきとった。)

侍たちがいって彼を屋形へひき取った。

(これはきくちよはしらなかったが、)

これは菊千代は知らなかったが、

(あるひ、もりのさくのところでふいにかれとであい、)

ある日、森の柵のところでふいに彼と出会い、

(びっくりしてかおをながめた。)

びっくりして顔を眺めた。

(「おおこれは・・・」たておかもひどくろうばいしたようすで、)

「おおこれは・・・」楯岡もひどく狼狽したようすで、

(うしろへさがりながらていとうした、)

うしろへさがりながら低頭した、

(「おなさけをもちまして、おやしきないにすまわせていただいております・・・)

「お情けをもちまして、御邸内に住まわせて頂いております・・・

(とつぜんおめをけがしまして、まことに・・・」)

とつぜんお眼をけがしまして、まことに・・・」

(そしてていとうしたまま、にげるようにさむらいながやのほうへさっていった。)

そして低頭したまま、逃げるように侍長屋のほうへ去っていった。

(そのせたけのたかい、かたのかがんだようなうしろすがたをみやりながら、)

その背丈の高い、肩のかがんだようなうしろ姿を見やりながら、

(きくちよはよびとめてはなしかけたいというつよいゆうわくにそそられた。)

菊千代は呼びとめて話しかけたいという強い誘惑にそそられた。

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