菊千代抄 山本周五郎 ⑳
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。
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問題文
(しょくじをしたあと、もういちどゆをあび、)
食事をしたあと、もういちど湯を浴び、
(しんじょへはいったのがくじころであろう、あついのでいちどめがさめ、)
寝所へはいったのが九時ころであろう、暑いのでいちど眼がさめ、
(かけやぐをかえさせようとおもったが、ひるのつかれであろう、)
掛け夜具を替えさせようと思ったが、昼の疲れであろう、
(ぜんしんがひどくだるく、そのうえねむくもあるので、)
全身がひどくだるく、そのうえ眠くもあるので、
(こえをだすのもおっくうになり、ついそのままねむってしまった。)
声をだすのも億劫になり、ついそのまま眠ってしまった。
(どのくらいねむったかわからない、)
どのくらい眠ったかわからない、
(だれかによびおこされているようなかんじで)
誰かに呼び起こされているような感じで
(うとうとしているといつかしらあのいまわしいゆめのなかへひきこまれた。)
うとうとしているといつかしらあの忌わしい夢のなかへひきこまれた。
(「ああいけない、いけない」)
「ああいけない、いけない」
(みをもだえながら、そのゆめからのがれようとして、おもわずさけんだ。)
身をもだえながら、その夢からのがれようとして、思わず叫んだ。
(そのこえでめはさめたが、どうじにじぶんがだれかにだかれているのをしった。)
その声で眼はさめたが、同時に自分が誰かに抱かれているのを知った。
(ゆめだ、まだゆめをみている。)
夢だ、まだ夢をみている。
(こうおもったがゆめではなかった、やわらかい、あついようなはだが、)
こう思ったが夢ではなかった、柔らかい、熱いような肌が、
(じぶんのはだをぴったりとおしつけている、そうしてすぐみみのそばで、)
自分の肌をぴったりと押しつけている、そうしてすぐ耳のそばで、
(あえぐような、かすれたささやきごえがした。)
あえぐような、かすれた囁き声がした。
(「そのまま、じっとしておいであそばせ、)
「そのまま、じっとしておいであそばせ、
(じっとして、なにもおかんがえなさらないで、)
じっとして、なにもお考えなさらないで、
(そのままじっと、・・・もうすこしおみあしを」)
そのままじっと、・・・もう少しおみ足を」
(あしやのこえであった。かのじょのからだとてあしのどうさで、)
葦屋の声であった。彼女のからだと手足の動作で、
(きくちよはじぶんがはずかしめられているということをかんじた。)
菊千代は自分が辱しめられているということを感じた。
(そのからだとてあしをふりはらわなくてはならない、)
そのからだと手足をふり払わなくてはならない、
(つきしりぞけなくてはならない。こうおもった。)
突き退けなくてはならない。こう思った。
(けれどもそれはまったくふかのうであった。)
けれどもそれはまったく不可能であった。
(あしやのどうさはきくちよのぜんしんをまひさせ、あたままでしびれさせた。)
葦屋の動作は菊千代の全身を麻痺させ、頭までしびれさせた。
(かたくつむっためのまえにこうさいのようなひかりがとびかい)
固くつむった眼のまえに虹彩のような光りが飛び交い
(いつかむちゅうでじぶんからあしやにだきついてさえいたようだ。)
いつか夢中で自分から葦屋に抱きついてさえいたようだ。
(「おひめさまとだけ、おひめさまとわたくしと、ふたりだけ」)
「お姫さまとだけ、お姫さまとわたくしと、二人だけ」
(あしやはうわずったこえできくちよのみみへくちをよせてささやき、)
葦屋はうわずった声で菊千代の耳へ口を寄せて囁き、
(そしてうめいた、「そのほかにはだれにも、だれにもけっして・・・)
そして呻いた、「そのほかには誰にも、誰にも決して・・・
(おひめさま、わたくしのおひめさまどうぞいつまでも」)
お姫さま、わたくしのお姫さまどうぞいつまでも」
(そのよるのけいけんのこまかいぶぶんはよくわからない、)
その夜の経験のこまかい部分はよくわからない、
(ただよびさまされたかんかくだけは、あしやのぶれいをしょうめいするかのように、)
ただ呼びさまされた感覚だけは、葦屋の無礼を証明するかのように、
(あさまではんぷくしてきくちよをおそった。)
朝まで反復して菊千代をおそった。
(まつおがおきるじこくをしらせにきたとき、)
松尾が起きる時刻を知らせに来たとき、
(きくちよはかおをそむけたままきぶんがわるいといった。)
菊千代は顔をそむけたまま気分が悪いといった。
(からだぜんたいがだるく、あたまにどろでもつまったようなかんじだった。)
からだ全体がだるく、頭に泥でも詰ったような感じだった。
(おそらくみにくいかおをしているであろう、だれにもあいたくないし、)
おそらく醜い顔をしているであろう、誰にも会いたくないし、
(このままどこかへいってしまいたいようなきもちだった。)
このままどこかへいってしまいたいような気持だった。
(そうしてまたねむったらしい、こんどははっきりめがさめ、)
そうしてまた眠ったらしい、こんどははっきり眼がさめ、
(やはんのけいけんがゆめでなく、げんじつにあしやのはずかしめをうけたのだということ、)
夜半の経験が夢でなく、現実に葦屋の辱しめを受けたのだということ、
(それがいじょうなかんかくとして、げんにじぶんのからだにのこっていることをみとめた。)
それが異常な感覚として、現に自分のからだに残っていることを認めた。
(「あしや、・・・あのおんなめ」きくちよはさっとあおくなった。)
「葦屋、・・・あの女め」菊千代はさっと蒼くなった。
(あしやはじぶんがおんなであることもしった、いかしてはおけない、)
葦屋は自分が女であることも知った、生かしてはおけない、
(どうしてもいかしておいては。)
どうしても生かしておいては。
(きくちよはすずをふってまつおをよび、きがえをしてから、)
菊千代は鈴を振って松尾を呼び、着替えをしてから、
(「あしやにまいれといえ」こういってかたなをとった。)
「葦屋にまいれと云え」こう云って刀を取った。
(あしやはすぐにきて、こびたわらいがおでこちらをみあげた。)
葦屋はすぐに来て、媚びた笑い顔でこちらを見あげた。
(ふすまぎわにてをついている。)
襖際に手をついている。
(「おめしでございますか」「はいれ」)
「お召しでございますか」 「はいれ」
(きくちよがそういったとき、あしやはとっさにきけんをかんじたらしい、)
菊千代がそう云ったとき、葦屋はとっさに危険を感じたらしい、
(はいろうとしたしせいがそのままにげごしになった。)
はいろうとした姿勢がそのまま逃げ腰になった。
(「おのれ、にげるか」)
「おのれ、逃げるか」
(きくちよはこうさけんでかたなをぬいた、あしやはみをひるがえし、)
菊千代はこう叫んで刀を抜いた、葦屋は身をひるがえし、
(つぎのまからろうか、そしてにわへとはしりでた。)
次の間から廊下、そして庭へと走り出た。
(きくちよはかたなをみぎてにおってきた。)
菊千代は刀を右手に追って来た。
(うしろでまつおがなにかさけび、わらわらひとのさわぎたつのがきこえた。)
うしろで松尾がなにか叫び、わらわら人の騒ぎたつのが聞えた。
(「まて、にげようとて、にがしはせぬぞ」)
「待て、逃げようとて、逃がしはせぬぞ」
(きくちよはぜっきょうした。あしやはすそをみだし、きょうきのようにひめいをあげた。)
菊千代は絶叫した。葦屋は裾を乱し、狂気のように悲鳴をあげた。
(かみもほどけた、いちどにわをながれているみずへおちこみ、)
髪もほどけた、いちど庭を流れている水へ落ちこみ、
(すそがぬれたので、くりばやしのところではげしくたおれた。)
裾が濡れたので、栗林のところで激しく倒れた。
(きょりはじゅっぽほどである、あしやはふえのようなこえをあげ、)
距離は十歩ほどである、葦屋は笛のような声をあげ、
(はねおきてすわって、たえだえにあえぎながら、)
はね起きて坐って、絶え絶えにあえぎながら、
(おおきくめをみはって、そうしんしたようにこちらをみた。)
大きく眼をみはって、喪心したようにこちらを見た。
(そのかお、そのてで・・・。)
その顔、その手で・・・。
(きくちよははをくいしばりながら、かたなをふりかざしてまっすぐにいった。)
菊千代は歯をくいしばりながら、刀をふりかざしてまっすぐにいった。