菊千代抄 山本周五郎 ㉑

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プレイ回数1225難易度(4.2) 3317打 長文
武家の因習で男として育てられた娘の話。
自分は男であると疑わず育った菊千代。
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。

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問題文

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(するとふいに、よこからつぶてのようにはしってきて、)

するとふいに、横からつぶてのように走って来て、

(「おまちください、ごたんりょでございます」)

「お待ち下さい、御短慮でございます」

(こうさけびながらたちふさがるものがあった。)

こう叫びながら立ち塞がる者があった。

(きくちよはぎゃくじょうしたようにかたなをふり、)

菊千代は逆上したように刀を振り、

(「とめるな、きらねばならぬ、どけ」)

「止めるな、斬らねばならぬ、どけ」

(「おまちください、どうぞきをおしずめください」)

「お待ち下さい、どうぞ気をお鎮め下さい」

(「どかぬときるぞ」きくちよはかたなをふりあげた。)

「どかぬと斬るぞ」  菊千代は刀をふりあげた。

(するとたちふさがったおとこはりょうてをきもののえりにかけ、)

すると立ち塞がった男は両手を着物の衿にかけ、

(それをぐっとさゆうにひらいて、じぶんのはだかのむねをみせた。)

それをぐっと左右にひらいて、自分の裸の胸を見せた。

(「おきりあそばせ、いざ」そしてすぐにえりをあわせた。)

「お斬りあそばせ、いざ」 そしてすぐに衿を合わせた。

(「そのむねの、そのむねの・・・」)

「その胸の、その胸の・・・」

(きくちよはくらくらとめまいにおそわれた。)

菊千代はくらくらとめまいにおそわれた。

(「おまえはだれだ、おまえは」)

「おまえは誰だ、おまえは」

(そのいっしゅんにかこのあらゆるきおくが、)

その一瞬に過去のあらゆる記憶が、

(ないはつするげんぞうのようにあたまのなかでめいめつした。)

内発する幻像のように頭のなかで明滅した。

(だがそれがなんのいみであるかわからぬうちに、)

だがそれがなんの意味であるかわからぬうちに、

(からだをうずにまかれるようなかんじでこんとうした。)

からだを渦に巻かれるような感じで昏倒した。

(ねまへはこばれるとすぐきがついたようだ。)

寝間へ運ばれるとすぐ気がついたようだ。

(けれどもはげしいしんけいほっさをおこし、てんてんところげまわったり、)

けれども激しい神経発作を起こし、輾転ところげまわったり、

(きているものをひきさいたり、さけんだりなきわめいたりしたという。)

着ている物をひき裂いたり、叫んだり泣き喚いたりしたという。

など

(「あのおんなをいかしてはおけない、あしやをきれ、)

「あの女を生かしてはおけない、葦屋を斬れ、

(すぐにわへひきだしてきってしまえ」)

すぐ庭へひき出して斬ってしまえ」

(きょうきのようにさけびつづけたのを、じぶんでもおぼろげにおぼえている。)

狂気のように叫び続けたのを、自分でもおぼろげに覚えている。

(それとどうじに、そのようになきさけびながら、)

それと同時に、そのように泣き叫びながら、

(あたまのなかではきおくのげんえいをおっていた。)

頭のなかでは記憶の幻影を追っていた。

(いけがみえ、ひろいごてんがみえ、ふいにしかいがあかいいろでつぶされ、)

池が見え、広い御殿がみえ、ふいに視界が赤い色で潰され、

(ろうしのこうぎをするおとこがあらわれた。)

老子の講義をする男が現われた。

(きょうほんするうまのせにしがみついているじぶん。)

狂奔する馬の背にしがみついている自分。

(「かんぷり」とだれかのよぶこえがし、みずのなかをさかながすばしこくにげる。)

「かんぷり」と誰かの呼ぶ声がし、水の中を魚がすばしこく逃げる。

(そしてまたごてんのくらいへや、そのへやがかぶきしばいのぶたいになり、)

そしてまた御殿の暗い部屋、その部屋が歌舞伎芝居の舞台になり、

(そのぶたいのうえを、ねこのようなみしらぬどうぶつがよこにはしった・・・)

その舞台の上を、猫のような見知らぬ動物が横に走った・・・

(そしてこれらのへんてんするげんぞうのはいけいのように、)

そしてこれらの変転する幻像の背景のように、

(ふるいふたつのきずあとのあるおとこのきょうぶが)

古い二つの傷痕のある男の胸部が

(あかるくくらくとらえがたいもどかしさでたえずみえたりきえたりした。)

明るく暗く捉えがたいもどかしさで絶えず見えたり消えたりした。

(やせてあおじろい、おとこのあらわなむね、そこにあるふたつのふるいきずあと。)

痩せて蒼白い、男のあらわな胸、そこにある二つの古い傷痕。

(それがいつまでもしつように、)

それがいつまでも執拗に、

(へんげするげんぞうのむこうにみえるのであった。)

変化する幻像の向うに見えるのであった。

(「それをどけろ、どけてくれ、きってしまえ、にわへひきだして・・・ああ」)

「それをどけろ、どけて呉れ、斬ってしまえ、庭へひき出して・・・ああ」

(きくちよはりょうてでかおをおおいおさえようとする)

菊千代は両手で顔をおおい押えようとする

(まつおのてのしたでみもだえをした。)

松尾の手の下で身もだえをした。

(ほっさがまったくしずまったのはみっかめのやはんすぎであった。)

発作がまったく鎮まったのは三日めの夜半過ぎであった。

(しんしんしょうもうというかんじでそれからはよくねむったらしい、)

心身消耗という感じでそれからはよく眠ったらしい、

(めがさめるとまくらもとにまつおがすわっていた。)

眼がさめると枕もとに松尾が坐っていた。

(くらくしたあかりがよこからさして、)

暗くした燈火が横からさして、

(まつおのふとったほおのかためんをしずかないろにそめていた。)

松尾の肥った頬の片面を静かな色に染めていた。

(かみにしらががでたのだろう、びんのところにいくすじか)

髪に白髪が出たのだろう、鬢のところに幾筋か

(きらきらとひかっているのがみえる。)

きらきらと光っているのが見える。

(きくちよはじぶんのあたまがきれいにさえて、つきものでもおちたように、)

菊千代は自分の頭がきれいに冴えて、憑きものでもおちたように、

(からだぜんたいがさわやかになっているのをかんじた。)

からだ全体が爽やかになっているのを感じた。

(ながいあいだせわをかけた。きもちのいいあまいようなためいきがでる。)

ながいあいだせわをかけた。気持のいい甘いような溜息が出る。

(まつおだけではない、おさないころからずいぶんおおくのものに)

松尾だけではない、幼いころからずいぶん多くの者に

(めんどうをかけせわになった。)

面倒をかけせわになった。

(しょうごまんのすけ、すぎむらはんざぶろう、べっけのちからにも。)

庄吾満之助、椙村半三郎、別家の主税にも。

(かんがたってなぎなたであいてのうでをおったことがある。)

癇が立って薙刀で相手の腕を折ったことがある。

(あのしょうねんはなんというなであったか。)

あの少年はなんという名であったか。

(あか、かんぷりなどというあだなのこもいた。)

赤、かんぷりなどというあだ名の子もいた。

(けれどもだれよりすきなのははんざぶろうであった。)

けれども誰より好きなのは半三郎であった。

(すぎむらはんざぶろう、たしかそばようにんのじなんであったが、びしょうねんで、)

椙村半三郎、たしか側用人の二男であったが、美少年で、

(しずかなしょうぶんで、おもいやりがあって、)

静かな性分で、思いやりがあって、

(・・・そこまでかいそうしてきたとき、きくちよはぎゅっとめをつむった。)

・・・そこまで回想してきたとき、菊千代はぎゅっと眼をつむった。

(いやそんなことはない。かのじょはむねのうえでりょうてをつよくにぎった。)

いやそんなことはない。彼女は胸の上で両手を強く握った。

(ずっとむかし、じぶんははんざぶろうをてにかけた。)

ずっと昔、自分は半三郎を手にかけた。

(そのてでおさえつけて、たんとうでにど、かれのむねをさした。)

その手で押えつけて、短刀で二度、彼の胸を刺した。

(みにやったまつおは「おみごとにあそばした」といったのをおぼえている。)

みにやった松尾は「おみごとにあそばした」と云ったのを覚えている。

(あしやをきろうとしたとき、まえにたちふさがったのはたておかさんざえもんであった。)

葦屋を斬ろうとしたとき、前に立ち塞がったのは楯岡三左衛門であった。

(かれはえりをさゆうにひらいて「きれ」といった。)

彼は衿を左右にひらいて「斬れ」と云った。

(そのやせてほねだった、あおじろいむねに、)

その痩せて骨立った、蒼白い胸に、

(ふるいつききずのあとがふたつ、たしかにみえた。)

古い突き傷の痕が二つ、たしかに見えた。

(「だがそんなことはあるはずがない」きくちよはくちのなかでそっとつぶやいた。)

「だがそんなことはある筈がない」菊千代は口の中でそっと呟いた。

(それとどうじにめのまえのきりがきえるようにおもい、)

それと同時に眼の前の霧が消えるように思い、

(すぎむらはんざぶろうのすがたがありありとみえてきた。)

椙村半三郎の姿がありありと見えてきた。

(きくちよはまつおにこえをかけて、しずかにいった。)

菊千代は松尾に声をかけて、静かに云った。

(「さむらいながやの、たておかをよんでくれ」)

「侍長屋の、楯岡を呼んで呉れ」

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