菊千代抄 山本周五郎 ㉓(終)

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プレイ回数1701難易度(4.3) 2973打 長文
武家の因習で男として育てられた娘の話。
自分は男であると疑わず育った菊千代。
物心がつきはじめ、女であることに気づくが受け入れられない。
葛藤を抱える日々、衝動的に凄惨な事件を起こしてしまう。
起承転結の「結」が非常に素晴らしい出来。
山本周五郎の隠れた傑作。

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問題文

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(はんざぶろうはためらいがちなくちょうで、ちゅういぶかくことばをえらびながらいった。)

半三郎はためらいがちな口調で、注意ぶかく言葉を選びながら云った。

(しだいにおんならしく、うつくしくそだってゆくきくちよをみて、)

しだいに女らしく、美しくそだってゆく菊千代を見て、

(かれはしょうねんらしいぎふんをかんじはじめた。)

彼は少年らしい義憤を感じはじめた。

(それまではひみつをしっているのはじぶんだけだというじかくから、)

それまでは秘密を知っているのは自分だけだという自覚から、

(つよいほごてきかんじょうでつかえていたのであるが、)

つよい保護的感情で仕えていたのであるが、

(それがぎふんにかわり、やがてあいじょうがうまれた。)

それが義憤に変り、やがて愛情がうまれた。

(「まことにむほうなしだいではございますが」)

「まことに無法なしだいではございますが」

(はんざぶろうはごくひかえめなひょうげんで、)

半三郎はごく控えめな表現で、

(きくちよにたいするどうじょうとあいれんのきもちをかたった。)

菊千代に対する同情と愛憐の気持を語った。

(なによりおそれたことはしんじつのわかるときである、)

なにより怖れたことは真実のわかる時である、

(きくちよのきしょうでもしじぶんがおんなだとしったら・・・)

菊千代の気性でもし自分が女だと知ったら・・・

(それはそうぞうするだけでいつもりつぜんとした。)

それは想像するだけでいつも慄然とした。

(かのじょがまだほんとうのことをしらないうちに、)

彼女がまだ本当のことを知らないうちに、

(つれだして、ふたりだけで、どこかのやまおくへでもかくれよう。)

伴れだして、二人だけで、どこかの山奥へでも隠れよう。

(そんなことをたびたびおもい、まじめにけいかくをたてたことさえあった。)

そんなことをたびたび思い、まじめに計画をたてたことさえあった。

(もちろんじっこうできることではなかったが、)

もちろん実行できることではなかったが、

(そのうちにあのとおのりのひがきた。)

そのうちにあの遠乗りの日が来た。

(きくちよのちゃくいのよごれをみて、かれはおもわずこえをあげた。)

菊千代の着衣の汚れを見て、彼は思わず声をあげた。

(じゅうななさいになっていたかれは、ほんのうてきなちょっかんで、)

十七歳になっていた彼は、本能的な直感で、

(それがなにをいみするかおぼろげにわかった。)

それがなにを意味するかおぼろげにわかった。

など

(とうとうそのときがきてしまった。)

とうとうその時が来てしまった。

(かれはこうおもって、ほとんどぜつぼうにうちのめされたのである。)

彼はこう思って、殆んど絶望にうちのめされたのである。

(しょいんへよばれてきくちよをみたとき、かれはすべてをりょうかいした。)

書院へ呼ばれて菊千代を見たとき、彼はすべてを了解した。

(じぶんがひみつをしっていたということをきづかれた、)

自分が秘密を知っていたということを気づかれた、

(それがきくちよをどのようにおこらせたか、かれにははっきりわかったのだ。)

それが菊千代をどのように怒らせたか、彼にははっきりわかったのだ。

(そしてむしろよろこんで、じぶんをきくちよのてにまかせたのであった。)

そしてむしろよろこんで、自分を菊千代の手に任せたのであった。

(「ふしぎにいちめいをとりとめましてから、わたしはじぶんのしょうがいをかけて、)

「ふしぎに一命をとりとめましてから、私は自分の生涯を賭けて、

(きみをかげながらおまもりもうしあげようとぞんじました。)

君を蔭ながらお護り申上げようと存じました。

(ろうがいをやみまして、ひところはいしゃにもみはなされましたけれども・・・)

労咳を病みまして、ひところは医者にもみはなされましたけれども・・・

(わかぎみのおしあわせをみとどけるまではと、きりょくをふるいおこし、)

若君のおしあわせを見届けるまではと、気力をふるい起こし、

(そのいっしんをささえにここまでおともをしてまいったのです」)

その一心を支えに此処までお供をしてまいったのです」

(「いまでも、そうおもってくれるか」)

「今でも、そう思って呉れるか」

(きくちよはかわいたようなこえでいった。)

菊千代は乾いたような声で云った。

(「きくちよを、いまでも、あわれとおもってくれるか」)

「菊千代を、今でも、哀れと思って呉れるか」

(はんざぶろうのかたがかすかにふるえた。)

半三郎の肩がかすかに震えた。

(「きくちよがどんなにかわいそうなものであるか、はんざぶろうはしっているはずだ、)

「菊千代がどんなに可哀そうな者であるか、半三郎は知っている筈だ、

(はっせんごくのやかたのあるじで、きままかってにくらしていながら、)

八千石の屋形のあるじで、気儘勝手にくらしていながら、

(そのひにきゅうしているまずしいのうふがうらやましい、)

その日に窮している貧しい農夫が羨ましい、

(ふうふおやこのむつみあうすがたをみると、)

夫婦親子のむつみあう姿を見ると、

(うらやましいとおもいこのむねがしっとでさけるようだ、)

羨ましいと思いこの胸が嫉妬で裂けるようだ、

(はんざぶろう、おまえにはそれがわかるはずだ、)

半三郎、おまえにはそれがわかる筈だ、

(はんざぶろうだけはいまでもきくちよをあわれとおもってくれるはずだ」)

半三郎だけは今でも菊千代を哀れと思って呉れる筈だ」

(のどへこみあげていたものが、おさえきれなくなって、)

喉へこみあげていたものが、抑えきれなくなって、

(きくちよはりょうてでかおをおおい、たえかねておえつした。)

菊千代は両手で顔を掩い、耐えかねて嗚咽した。

(それからふいに、しょうどうてきにやぐをすべりでて、)

それからふいに、衝動的に夜具をすべり出て、

(はんざぶろうのひざへみをなげかけて、なきむせびながらうったえた。)

半三郎の膝へ身を投げかけて、泣き咽びながら訴えた。

(「きくちよをおんなにしておくれ、はんざぶろう、)

「菊千代を女にしてお呉れ、半三郎、

(そのほかにしあわせになるほうはない、)

そのほかにしあわせになる法はない、

(しょうがいをかけてといったではないか、)

生涯を賭けてと云ったではないか、

(それならきくちよをおんなにしておくれ、おまえのほかにはだれもいない、)

それなら菊千代を女にしてお呉れ、おまえのほかには誰もいない、

(はんざぶろうだけが、おまえだけがそうしてくれることができる・・・)

半三郎だけが、おまえだけがそうして呉れることができる・・・

(きくちよをあわれとおもうなら、おまえのてで、このてで・・・」)

菊千代を哀れと思うなら、おまえの手で、この手で・・・」

(みをふるわせて、きくちよはかれのてをつかみ、)

身をふるわせて、菊千代は彼の手を掴み、

(そのてへほおをはげしくすりつけた。)

その手へ頬を激しくすりつけた。

(それからあとはむちゅうのことのようにしかおもいだせない。)

それからあとは夢中のことのようにしか思いだせない。

(かたくこわばっていたはんざぶろうのしせいが、しぜんとやわらかくほぐれ、)

固く硬ばっていた半三郎の姿勢が、しぜんと柔らかくほぐれ、

(そのてがいつかきくちよのかたへまわって、)

その手がいつか菊千代の肩へまわって、

(しずかに、やさしく、いたわるようになでてくれた。)

静かに、やさしく、いたわるように撫でて呉れた。

(きくちよはあまやかなこうこつとしたかんかくのなかで)

菊千代はあまやかな恍惚とした感覚のなかで

(なおしばらくなきひたり、かきくどいていたようである。)

なお暫く泣きひたり、かきくどいていたようである。

(そうしてやがて、かれのてでだきおこされかおをそむけてなみだをふいたとき)

そうしてやがて、彼の手で抱き起こされ顔をそむけて涙を拭いたとき

(まどのあかりしょうじにほのかなばんしゅんのあけぼののひかりがさしていた。)

窓の明り障子にほのかな晩春の曙の光りがさしていた。

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