契りきぬ 山本周五郎 ④
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問題文
(だがもちろん、ばんたびそうかんたんにゆくとはきまらなかった。)
だがもちろん、番たびそう簡単にゆくとはきまらなかった。
(しょうわるとか、おんなたらしなどといわれるきゃくは、)
性わるとか、おんな蕩しなどと云われる客は、
(かえってあつかいよかったが、わかいしょくにんとかおたなものなどで、)
却って扱いよかったが、若い職人とかお店者などで、
(ほんきになってかよってくるものにはこまった。)
本気になってかよって来る者には困った。
(そういうひとたちにはかねはつかわせられないので、)
そういう人たちには金は遣わせられないので、
(こっちでかねをだしてさけをとり、あいてをもよいつぶし、)
こっちで金を出して酒を取り、相手をも酔いつぶし、
(じぶんもべろべろになってあばれる。)
自分もべろべろになって暴れる。
(みよしのおこうさんをじぶんのものにしようというのなら)
みよしのお幸さんを自分のものにしようというのなら
(こばんのごじゅうまいもそこへならべてごらん。)
小判の五十枚もそこへ並べてごらん。
(まだくちばしのきいろいおまえさんたちの)
まだくちばしの黄色いおまえさんたちの
(あいてになるおねえさんじゃないよ、かおをあらってでなおしておいで。)
相手になるお姐さんじゃないよ、顔を洗って出なおしておいで。
(そしてものをなげ、きもののどこかをひきさき、)
そして物を投げ、着物のどこかをひき裂き、
(だいのじにぶったおれるのである。)
大の字にぶっ倒れるのである。
(それでもとびかかってきはしないかと、はらはらしながら、)
それでもとびかかって来はしないかと、はらはらしながら、
(いっぽうではあまりのあさましさになみだがこぼれ、)
一方ではあまりのあさましさに涙がこぼれ、
(くちのなかでははをよぶのであった。)
口のなかで母を呼ぶのであった。
(いまにおきゃくがだまっちゃいないよ。)
いまにお客が黙っちゃいないよ。
(よいつぶれているとききいたおてつのことばは、)
酔いつぶれているとき聞いたおてつの言葉は、
(おなつのこころをつきとおした。)
おなつの心を突きとおした。
(これからがじぶんのたたかいだ、いざとなればしねばいいんだ。)
これからが自分のたたかいだ、いざとなれば死ねばいいんだ。
(こうおもってやってきた。)
こう思ってやって来た。
(そうしてひゃくにちあまりはともかくきりぬけてきたのであるが、)
そうして百日あまりはともかくきりぬけて来たのであるが、
(そのたたかいはつねにいっぽうてきであった。)
そのたたかいは常に一方的であった。
(いちやいちやをしのぐのに、)
一夜一夜を凌ぐのに、
(おなつはみもこころもくたくたにしなければならない、)
おなつは身も心もくたくたにしなければならない、
(しかもおなじよるがおなじようなよるにつづくのである。)
しかも同じ夜が同じような夜に続くのである。
(「そうだ、このままではすまないだろう」)
「そうだ、このままでは済まないだろう」
(おなつはくちのなかでつぶやいた。)
おなつは口の中で呟いた。
(「いまにこのままではすまないときがくるだろう」)
「いまにこのままでは済まないときが来るだろう」
(そとにはつゆのようなあめがふっていた。)
外には梅雨のような雨が降っていた。
(ひるさがりのひっそりとしたじこくで、)
午さがりのひっそりとした時刻で、
(ゆからかえったおきくとおそのというふたりが、)
湯から帰ったお菊とおそのという二人が、
(なにかたべながらむだばなしをしていた。)
なにか食べながらむだ話をしていた。
(おなつはあめにけぶるそらをながめた。)
おなつは雨にけぶる空を眺めた。
(まどさきのつりしのぶがぬれてあざやかにはをのばしている。)
窓さきの吊り忍草が濡れてあざやかに葉を伸ばしている。
(「ななりょうにぶだってさ、ほんとだよ」)
「七両二分だってさ、ほんとだよ」
(「あらいやだ、ななりょうにぶてえばひとのにょうぼうとなにしたとき)
「あらいやだ、七両二分てえば人の女房となにしたとき
(まあいやだ、かあさんたら、ははははは」)
まあいやだ、かあさんたら、ははははは」
(「なにがいやさ、しゃれてるじゃないか」)
「なにがいやさ、洒落てるじゃないか」
(こういっているのはおきくであった。)
こう云っているのはお菊であった。
(「つまりこうなの、きたはらさんくらいかたいひとをくどきおとすとすればよ、)
「つまりこうなの、北原さんくらい堅いひとをくどきおとすとすればよ、
(そのひとをねとるのとおなじねうちがあるっていうのよ」)
そのひとをねとるのと同じ値打があるっていうのよ」
(「そいでそれ、みんなかあさんひとりでだしてくれるの」)
「そいでそれ、みんなかあさん独りで出して呉れるの」
(「ただしきげんつきよ、これからさんじゅうにちいないになにしたらっていうの、)
「但し期限つきよ、これから三十日以内になにしたらっていうの、
(さんじゅうにちまでにみごとくどきおとしたら、)
三十日までにみごとくどきおとしたら、
(みみをそろえてななりょうにぶおまけにしょうもんをまいてやるってさ」)
耳を揃えて七両二分おまけに証文を巻いてやるってさ」
(「まあおどろいた、しょうもんまでまくなんて、かあさんどうかしたのね」)
「まあ驚いた、証文まで巻くなんて、かあさんどうかしたのね」
(「あのひとだけはだめだっていうのよ。)
「あのひとだけはだめだって云うのよ。
(できっこないって、ずいぶんきゃくをみてきてしっているけれど、)
出来っこないって、ずいぶん客を見てきて知っているけれど、
(おんなぎらいなんていうんじゃないしょうぶんなんだって、)
女嫌いなんていうんじゃない性分なんだって、
(ああいうひとはすっぱだかのおんなのにじゅうにんのなかへねかしたって)
ああいうひとはすっ裸の女の二十人の中へ寝かしたって
(まちがいをおこすきづかいはないんだって、くやしいじゃないの、)
間違いを起すきづかいはないんだって、くやしいじゃないの、
(こうなったらいじずくだってなんとかしなくちゃならないわよ」)
こうなったら意地ずくだってなんとかしなくちゃならないわよ」
(「ほんとよ、そうなればあたしだって」)
「ほんとよ、そうなればあたしだって」
(おなつはめをつむった。)
おなつは眼をつむった。
(からだのなかにぼうでもはいっているような、)
体の中に棒でも入っているような、
(かたいつかれのこりがかんじられる。)
かたい疲れの凝りが感じられる。
(よいのさめきらないあたまはにごって、)
酔いのさめきらない頭は濁って、
(ふいとしんでしまいたいようにおもったり、)
ふいと死んでしまいたいように思ったり、
(しぬくらいならたのしめとおもったり、)
死ぬくらいなら楽しめと思ったり、
(このごろのくせで、ともするとかんがえることがきょくたんからきょくたんへとんだ。)
このごろの癖で、ともすると考えることが極端から極端へとんだ。
(しぬって、・・・いったいだれのためにしぬのさ、)
死ぬって、・・・いったい誰のために死ぬのさ、
(このいのちはあたしのものじゃないか、このからだもあたしのからだじゃないか、)
この命はあたしのものじゃないか、この体もあたしの体じゃないか、
(なんでしななきゃならないのさ。)
なんで死ななきゃならないのさ。
(おなつはぼんやりめをあけた。)
おなつはぼんやり眼をあけた。
(ひさしからおちるあまだれがしきりにつりしのぶのはをたたき、)
庇からおちる雨滴がしきりに吊り忍草の葉を叩き、
(きらっとひかってはしたへおちる。)
きらっと光っては下へ落ちる。
(このままではすまない、いつかは、どうにもならないときがくる。)
このままでは済まない、いつかは、どうにもならないときが来る。
(あたしはもうつかれた、もうこれいじょうこんなことをつづけてゆくじしんがない)
あたしはもう疲れた、もうこれ以上こんなことを続けてゆく自信がない
(とすれば、しぬか・・・それともいっそこっちから。)
とすれば、死ぬか・・・それともいっそこっちから。
(おなつはそうおもうとたん、われしらずことばがくちをついてでた。)
おなつはそう思うとたん、われ知らず言葉が口をついて出た。
(「そのはなし、あたしでもいいの、おきくねえさん」)
「その話、あたしでもいいの、お菊姐さん」
(ふたりはおなつがねむっているものとしんじていたのだろう、)
二人はおなつが眠っているものと信じていたのだろう、
(とつぜんそうよびかけられたのでびっくりして、)
突然そう呼びかけられたのでびっくりして、
(おそのなどはうへえとさけんでとびあがった。)
おそのなどはうへえと叫んでとびあがった。