契りきぬ 山本周五郎 ⑥

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プレイ回数1331難易度(4.1) 2952打 長文
不遇を脱する一心で、ある侍を口説く賭けにのる花街の女の話。

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問題文

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(おなつのうまれてそだったくみながやは、)

おなつの生れて育った組長屋は、

(がんしょうじというてらのあるおかのがけしたにあり、)

願成寺という寺のある丘の崖下にあり、

(かたほうがかなりひろいそうげんになっていた。)

片方がかなり広い草原になっていた。

(むかしはばばだったそうであるが、そのそうげんのむこうにやだけぐらとならんで、)

昔は馬場だったそうであるが、その草原の向うに矢竹倉と並んで、

(むれというめずらしいせいの、じゅうしんのおおきなやしきがあった。)

牟礼という珍しい姓の、重臣の大きな屋敷があった。

(どういうやくのひとかはしらなかったが、)

どういう役のひとかは知らなかったが、

(しょうじろうというひとりむすこがいて、)

正二郎というひとり息子がいて、

(たかべいのうらのきどからでてきておなつとあそんだ。)

高塀の裏の木戸から出て来ておなつと遊んだ。

(としはひとつくらいうえだったらしい、)

年は一つくらい上だったらしい、

(いろじろのまるがおで、いいきものをきてじょうひんなくちをきいた。)

色白のまる顔で、いい着物を着て上品な口をきいた。

(かれはこちらを「おなつ」とよび、)

彼はこちらを『おなつ』と呼び、

(おなつはかれを「しょうじろうさま」とよんだ。)

おなつは彼を『正二郎さま』と呼んだ。

(かれにはいもうとがひとりあり、それはおさないうちなくなったそうで、)

彼には妹が一人あり、それは幼いうち亡くなったそうで、

(そのいもうとのつかったおもちゃをよくもってきてくれた。)

その妹の使った玩具をよく持って来て呉れた。

(たいていにんぎょうあそびのどうぐなどであるが、)

たいてい人形遊びの道具などであるが、

(おなつのよろこぶのをみるのがうれしいらしい。)

おなつのよろこぶのを見るのが嬉しいらしい。

(いまにしょうじろうがね、おおきくなったらね、)

いまに正二郎がね、大きくなったらね、

(おなつにいえをつくってあげるよ、おにわのあるひろいおおきないえをね。)

おなつに家を造ってあげるよ、お庭のある広い大きな家をね。

(とうていじつげんできそうもないことを、)

とうてい実現できそうもないことを、

(しかつめらしくいくたびかやくそくしたりした。)

しかつめらしく幾たびか約束したりした。

など

(だんだんにうとくはなったけれども、)

だんだんに疎くはなったけれども、

(おたがいがとおかじゅういちくらいになるまでは、)

お互いが十か十一くらいになるまでは、

(こうしてはなしたりあそんだりしたものである。)

こうして話したり遊んだりしたものである。

(それいごはしぜんととおざかり、)

それ以後はしぜんと遠ざかり、

(ごくたまにみちであうようなことがあっても、)

ごくたまに道で会うようなことがあっても、

(こちらではずかしくなり、かおをそむけてとおるようにした。)

こちらで恥かしくなり、顔をそむけて通るようにした。

(そして、おなつのちちとあにをいちどにうばったあのこうずいのひ、)

そして、おなつの父と兄をいちどに奪ったあの洪水の日、

(かれもまたうまでみずみまわりにでていて、ごちょうなわてというつつみがきれたとき、)

彼もまた馬で水見廻りに出ていて、五町畷という堤が切れたとき、

(そのだくりゅうにのまれてしんだということである。)

その濁流に呑まれて死んだということである。

(ゆめのことなどをそんなふうにおもうのはばかげているかもしれない。)

夢のことなどをそんなふうに思うのはばかげているかもしれない。

(そしてははのいやくやくうものにもこまっていたときのいしき、)

そして母の医薬や食う物にも困っていたときの意識、

(つまりおなつじしんにかくれていたいしきが、)

つまりおなつ自身に隠れていた意識が、

(そんなゆめとなってあらわれたものであろう。)

そんな夢となってあらわれたものであろう。

(だがそれでもいい、かのじょにはそのゆめがかなしいほどうれしかった、)

だがそれでもいい、彼女にはその夢が哀しいほど嬉しかった、

(あんなにたくさんおかねのあるばしょをみつけてくれたことが、)

あんなにたくさんお金のある場所をみつけてくれたことが、

(しんでからもじぶんのことをしんぱいし、まもっていてくれるようで、)

死んでからも自分のことを心配し、護っていて呉れるようで、

(いっしゅのこころのささえになるようにおもえた。)

一種の心の支えになるように思えた。

(きたはらせいのすけがそのひとににている。じゅういちかじゅうにのときのかおだちが、)

北原精之助がそのひとに似ている。十一か十二のときの顔だちが、

(おとなになったらこうなるだろうとおもわれるほど、よくにていた。)

おとなになったらこうなるだろうと思われるほど、よく似ていた。

(「いけない、あのひとだけはいけない、あのひとをだましてはいけない」)

「いけない、あの人だけはいけない、あの人を騙してはいけない」

(かべをみまもったままこうつぶやいた。)

壁を見まもったままこう呟いた。

(どのくらいのじかんがたってからだろう、)

どのくらいの時間が経ってからだろう、

(おきくのわめくようなこえでふとわれにかえった。)

お菊の喚くような声でふとわれにかえった。

(おないしょといわれるしゅじんのへやで、)

お内所といわれる主人の部屋で、

(てつにむかっていっているらしい。)

てつに向って云っているらしい。

(よってたかいだみごえでやけにどなるようなちょうしだった。)

酔って高いだみごえでやけにどなるような調子だった。

(「ぼくねんじんだよ、いしのじぞうかかなぶつだよ、)

「朴念仁だよ、石の地蔵か金仏だよ、

(なんだいあのわかぞう、ふざけちゃいけないよ」)

なんだいあのわかぞう、ふざけちゃいけないよ」

(「ここでいばったってしようがないじゃないか、ばかだね、)

「ここでいばったってしようがないじゃないか、ばかだね、

(それでまだおざしきにいるのかい」)

それでまだお座敷にいるのかい」

(「おれはひとあしさきにかえる、うっ、てえおおせさ、もうかえっちまったよ)

「おれはひと足さきに帰る、うっ、てえ仰せさ、もう帰っちまったよ

(きっと、にやにやっとわらって、おれはひとあしさきに・・・」)

きっと、にやにやっと笑って、おれはひと足さきに・・・」

(おなつはたった。ほとんどむいしきにたち、)

おなつは立った。殆んど無意識に立ち、

(おないしょへはいってゆくと、よいつぶれているおきくにはかまわず、)

お内所へはいってゆくと、酔いつぶれているお菊には構わず、

(おてつのまえへいって、「かあさん、あたしにさんじゅうにちひまをください」)

おてつの前へいって、「かあさん、あたしに三十日ひまを下さい」

(こういっておてつのめをみた。「きたはらさんかえ」)

こう云っておてつの眼を見た。 「北原さんかえ」

(「あたしはおちぶれてもさむらいのむすめです。)

「あたしはおちぶれても侍の娘です。

(さんじゅうにちだけでいいんです。しんようしてください」)

三十日だけでいいんです。信用して下さい」

(おてつもじっとこちらのめをみた。それからうなずいてびしょうした。)

おてつもじっとこちらの眼を見た。それから頷いて微笑した。

(「ほかにいるものがあるかえ」)

「ほかに要る物があるかえ」

(「いいえなんにも、おねがいします」)

「いいえなんにも、お願いします」

(いいながらおなつはおびをとき、はだぎぬとふたのだけになった。)

云いながらおなつは帯を解き、肌衣と二布だけになった。

(そうしてわきにあるきょうだいからはさみをとると、)

そうして脇にある鏡台から鋏を取ると、

(てばやくふつふつともとゆいをきり、ばらばらかみをふりさばいてたちあがった。)

手早くふつふつと元結を切り、ばらばら髪をふりさばいて立上った。

(「おやおや、たちばなひめというこしらえだね」おてつがふしんそうにこういったが、)

「おやおや、橘姫という拵えだね」おてつが不審そうにこう云ったが、

(おなつはひきつったようなかおでえしゃくをし、)

おなつはひきつったような顔で会釈をし、

(だまってうらぐちからそとへ、はだしのままこばしりにでていった。)

黙って裏口から外へ、はだしのまま小走りに出ていった。

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