契りきぬ 山本周五郎 ⑧

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不遇を脱する一心で、ある侍を口説く賭けにのる花街の女の話。

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問題文

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(そこはじんべえというげぼくのこやで)

そこは仁兵衛という下僕の小屋で

(かねというろうさいとふたりですまっていた。)

かねという老妻とふたりで住まっていた。

(じんべえはごじゅうろくしち、さいじょもおつかっつであろう、)

仁兵衛は五十六七、妻女もおつかっつであろう、

(ふたりですぐにゆをわかし、ぎょうずいをつかわせ、)

二人ですぐに湯を沸し、行水をつかわせ、

(さいじょのわかいころつかったという、はだのものから、)

妻女の若いころ使ったという、肌のものから、

(かたびらのおびなどをだしてきせてくれた。)

帷子の帯などを出して着せて呉れた。

(「ああこれはくぎをふみぬいたのだ。さびていたんでなければいいが、)

「ああこれは釘を踏みぬいたのだ。錆びていたんでなければいいが、

(とにかく、かね、きてちょっとてをかさないか、)

とにかく、かね、来てちょっと手を貸さないか、

(すこしちをだしておくほうがいいかもしれぬ」)

少し血を出しておくほうがいいかもしれぬ」

(おなつはされるままになっていた。そしてこのあいだに、)

おなつはされるままになっていた。そしてこのあいだに、

(とわれたとき、こたえるはなしのすじみちを、)

問われたとき、答える話の筋みちを、

(ねんをいれてしっかりとあたまにたたみこんだ。)

念をいれてしっかりとあたまにたたみこんだ。

(すっかりおわると、さいじょのいれてくれたちゃをひとくちすすり、)

すっかり終ると、妻女の淹れて呉れた茶をひとくち啜り、

(りょうてをひざにおいて、ぽつりぽつりみのうえばなしをした。)

両手を膝に置いて、ぽつりぽつり身の上話をした。

(「いえはごくかるいさむらいでございました。はんのなはおゆるしくださいまし、)

「家はごく軽い侍でございました。藩の名はおゆるし下さいまし、

(かぞくはふぼとあに、わたくしのよにんでございました」)

家族は父母と兄、わたくしの四人でございました」

(こうずいをおもわぬやくさいというふうにぼかし、ちちとあにをいちどにとられたこと、)

洪水を思わぬ災厄というふうにぼかし、父と兄をいちどにとられたこと、

(はははじゅうびょうになって、そのりょうじのためにかねをかりたこと、)

母は重病になって、その療治のために金を借りたこと、

(ははがなくなったあと、かりたかねにしばられてこのとちへつれてこられたこと、)

母が亡くなったあと、借りた金に縛られてこの土地へ伴れて来られたこと、

(そうしてすじょうのいかがわしいおとことけっこんさせられることをしり、)

そうして素性のいかがわしい男と結婚させられることを知り、

など

(いっそしぬつもりでとびだしたこと、およそそういうぐあいに、)

いっそ死ぬつもりでとびだしたこと、およそそういうぐあいに、

(うそとじじつとをとりまぜてかたった。おなつがとぎれとぎれにはなすあいだ、)

嘘と事実とをとりまぜて語った。おなつがとぎれとぎれに話すあいだ、

(そとにはいぜんしずかなあめのおとがしていた。)

外には依然しずかな雨の音がしていた。

(じんべえがいってそのとおりじじょうをはなしたらしい、)

仁兵衛がいってそのとおり事情を話したらしい、

(はんときほどするとおもやのほうへうつされいよというろうじょにひきとられて、)

半刻ほどすると母屋のほうへ移され伊代という老女にひきとられて、

(そのよるはせんじぐすりなどのまされてねた。)

その夜は煎じ薬などのまされて寝た。

(いよというひとはせいのすけのうばだったが、そのままげんざいまですみつき、)

伊代という人は精之助の乳母だったが、そのまま現在まで住みつき、

(いまではかせいのたばねをしているということだった。)

今では家政のたばねをしているということだった。

(ごじゅうにさんになるこえたからだつきで、)

五十二三になる肥えた体つきで、

(おっとりしているがかんじやすいきしょうとみえ、)

おっとりしているが感じ易い気性とみえ、

(あくるひおなつからくわしくみのうえをききながら、しきりになみだをこぼした。)

明くる日おなつから詳しく身の上を聞きながら、しきりに涙をこぼした。

(「そんなふうではかえってゆくしんるいもないでしょうね、)

「そんなふうでは帰ってゆく親類もないでしょうね、

(そんなかねをおかりなさるようではねえ、ほんとうになんということでしょう」)

そんな金をお借りなさるようではねえ、本当になんということでしょう」

(そしてなみだをふいてはうなずいた。)

そして涙を拭いては頷いた。

(「ようございます、こうなるのもなにかのごえんでしょう、)

「ようございます、こうなるのもなにかの御縁でしょう、

(あたしからだんなさまにおねがいして、)

あたしから旦那さまにお願いして、

(どうにかみのふりかたをかんがえていただきましょう、)

どうにか身のふりかたを考えていただきましょう、

(なにかごしあんがあるでしょうから」)

なにか御思案があるでしょうから」

(しかしそのときもういよのきもちはきまっていたらしい、)

しかしそのときもう伊代の気持はきまっていたらしい、

(せいのすけのいけんで、しばらくこのいえでめんどうをみる、そのあいだ)

精之助の意見で、暫くこの家で面倒をみる、そのあいだ

(いよのてつだいのつもりではたらいてもらいたい、そういうことだった。)

伊代のてつだいのつもりで働いて貰いたい、そういうことだった。

(そしていよのいまのとなりにへやをきめ、にあわせだといって、)

そして伊代の居間の隣りに部屋をきめ、にあわせだといって、

(きものやおびやかみどうぐなどまで、ひとそろえだしてくれた。)

着物や帯や髪道具などまで、ひと揃え出して呉れた。

(「だれかわかいひとがほしいとおもっていたのだけれど、)

「誰か若いひとが欲しいと思っていたのだけれど、

(だんなさまが、まだごけっこんまえだからでしょうか、)

旦那さまが、まだ御結婚まえだからでしょうか、

(それはこまるとおっしゃるので、これまでふじゆうをがまんしてきたんですよ。)

それは困ると仰しゃるので、これまで不自由をがまんしてきたんですよ。

(おかげであたしもすこしきがらくになれます」いよはこういったが、)

おかげであたしも少し気が楽になれます」 伊代はこう云ったが、

(しかしそれとなくおなつのたちいふるまいにめをくばっているようすだった。)

しかしそれとなくおなつの起居動作に眼をくばっているようすだった。

(せいのすけはそのときにじゅうろくであった。)

精之助はそのとき二十六であった。

(せいぼはからだのよわかったひとで、かれをうむとすぐにねつき、)

生母は体の弱かったひとで、彼を産むとすぐに寝つき、

(ようやくなおっておきたとおもうと、すぐにまたやむというぐあいで、)

ようやく治って起きたと思うと、すぐにまた病むというぐあいで、

(かれがななつのとしにとうとうなくなってしまった。)

彼が七つの年にとうとう亡くなってしまった。

(ちちはしょうざえもんといって、みぶんはおおよりあい、まつくらというものとこうたいで)

父は庄左衛門といって、身分は大寄合、松倉という者と交代で

(なんどぶぎょうをつとめるのがせしゅうのやくになっていた。)

納戸奉行を勤めるのが世襲の役になっていた。

(つまをひじょうにあいしていて、びょうちゅうのかんごぶりは)

妻をひじょうに愛していて、病中の看護ぶりは

(ひとにまねのできないものであった。)

ひとに真似のできないものであった。

(ひまさえあればびょうまへいって、はなをかざりこうをたき、)

ひまさえあれば病間へいって、花を飾り香をたき、

(なにかかるぐちをいってはつまをわらわせ、またしばしばおんぎょくのこうしゃをまねいて、)

なにか軽口を云っては妻を笑わせ、またしばしば音曲の巧者を招いて、

(ふすまをはらったこちらのざしきでえんそうさせ、)

襖をはらったこちらの座敷で演奏させ、

(じぶんはつまのまくらもとで、さもたのしそうにさけをのんだ。)

自分は妻の枕許で、さも楽しそうに酒を飲んだ。

(つまのしがどんなにこたえたか、はたのものにはわからなかった。)

妻の死がどんなにこたえたか、はたの者にはわからなかった。

(しょうざえもんはいってきのなみだもみせなかったが、)

庄左衛門は一滴の涙もみせなかったが、

(しかしそれいらいずっとどくしんでとおし、ごねんまえ、よんじゅうななさいでしんだ。)

しかしそれ以来ずっと独身でとおし、五年まえ、四十七歳で死んだ。

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