契りきぬ 山本周五郎 ⑨

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プレイ回数1262難易度(4.1) 2979打 長文
不遇を脱する一心で、ある侍を口説く賭けにのる花街の女の話。

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問題文

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(せいのすけはすぐかとくをついだが、)

精之助はすぐ家督を継いだが、

(そのとしからなんどぶぎょうはまつくらにこうたいしたので、)

その年から納戸奉行は松倉に交代したので、

(げんざいではむえきのままのんきにくらしている。)

現在では無役のまま暢気に暮している。

(ひろいやしきにはいまかれといよ、ちちのだいからいるときやまちゅうやというろうぶし、)

広い屋敷にはいま彼と伊代、父の代からいる時山中弥という老武士、

(わかいげぼくふたりにじんべえふさいだけしかいなかった。)

若い下僕二人に仁兵衛夫妻だけしかいなかった。

(いよのめがいつもじぶんのようすをみていることは、)

伊代の眼がいつも自分のようすを見ていることは、

(おなつはよくしっていた。しかしそれはかんしするというのではなく、)

おなつはよく知っていた。しかしそれは監視するというのではなく、

(つかってゆけるかどうかをためすいみのようだった。)

使ってゆけるかどうかをためす意味のようだった。

(ちゃをたてさせてみたり、だいどころでにものをさせたり、)

茶をたてさせてみたり、台所で煮物をさせたり、

(ちいさなかいもののちょうめんをつけさせたり、)

小さな買物の帳面をつけさせたり、

(さりげなくふるいふみほごをよませたりした。)

さりげなく古い文反故を読ませたりした。

(「よほどおしつけがきびしかったとみえるのね。)

「よほどお躾が厳しかったとみえるのね。

(おとしのわりにしてはすこしできすぎるくらいなさるわ」)

お年のわりにしては少しできすぎるくらいなさるわ」

(いよはそんなふうにいい、)

伊代はそんなふうに云い、

(またきんざいにあるじぶんのじっかのおとうとにやるのだといって、)

また近在にある自分の実家の弟にやるのだといって、

(てがみのだいひつなどもかかせたりした。)

手紙の代筆なども書かせたりした。

(せいのすけはおおよりあいというせきだけで、)

精之助は大寄合という席だけで、

(りんじのかいごうでもないかぎりつきにいちどとじょうすればよかった。)

臨時の会合でもない限り月にいちど登城すればよかった。

(たいていいえにいるが、いつもともだちがたずねてくるし、)

たいてい家にいるが、いつも友達が訪ねてくるし、

(みっかめくらいにはさそわれてがいしゅつし、)

三日めくらいには誘われて外出し、

など

(よるおそくかえることもめずらしくなかった。)

夜おそく帰ることも珍しくなかった。

(ともだちにはごしょうぎとかうたなどにこっているものがあって、)

友達には碁将棋とか謡などに凝っている者があって、

(かれもすすめられていちおうはやってみたという。)

彼もすすめられていちおうはやってみたという。

(だがどれひとつとしてものにならなかった。)

だがどれひとつとしてものにならなかった。

(「ごはめのかずがおおすぎて、あたまがちらくらするっておっしゃるんですよ」)

「碁は目の数が多すぎて、頭がちらくらするっておっしゃるんですよ」

(いよがわらいながらそんなはなしをした。)

伊代が笑いながらそんな話をした。

(「しょうぎではもっとおもしろいことがありました。)

「将棋ではもっと面白いことがありました。

(きぬまきさんというおともだちが、このかたもぶきようぐみだそうですけれどね、)

衣巻さんというお友達が、この方もぶきよう組だそうですけれどね、

(おふたりでおなじじぶんしょうぎをおはじめなすったんでしょう、)

お二人で同じじぶん将棋をお始めなすったんでしょう、

(いつかさるやまというとうじばへいらしって、)

いつか猿山という湯治場へいらしって、

(たいくつだからしょうぎをしようということになったのですって」)

退屈だから将棋をしようということになったのですって」

(さるやまというのはこのじょうかからきたにあたる。)

猿山というのはこの城下から北に当る。

(おおたがわのしりゅうのあさいがわというのをさんりばかりさかのぼった、)

太田川の支流の浅井川というのを三里ばかり遡った、

(たにあいにあるおんせんばで、いちょうによくきくといわれ、)

谷あいにある温泉場で、胃腸によく効くといわれ、

(まわりがこうようのめいしょであるのもくわえて、)

まわりが紅葉の名所であるのも加えて、

(かなりとおくからもとうじきゃくがたえず、)

かなり遠くからも湯治客が絶えず、

(やどもさんじゅっけんばかりあってはんじょうしていた。)

宿も三十軒ばかりあって繁昌していた。

(「みよし」のおんなあるじの、たしかおばかなにかにあたるひとが、)

『みよし』の女あるじの、たしか叔母かなにかに当るひとが、

(そのさるやまのかなりおおきなおんせんやどののちぞえにいっていて、)

その猿山のかなり大きな温泉宿ののちぞえにいっていて、

(あきになるとあそびにゆくのだということをおてつがいっていた。)

秋になると遊びにゆくのだということをおてつが云っていた。

(じゅうがつになるとやまどりだのつぐみだのがうんとこさとれるんだよ、)

十月になると山鳥だの鶫だのがうんとこさ獲れるんだよ、

(そのまたうまいったら、さんどさんど、あたしゃいくにちたべてもあきないね。)

そのまた美味いったら、三度三度、あたしゃ幾日食べても飽きないね。

(そんなはなしもたびたびきかされたものだ。)

そんな話もたびたび聞かされたものだ。

(「するとそのやどのあるじが」いよはおかしそうにつづけた、)

「するとその宿の主人が」伊代はおかしそうに続けた、

(「だいじなきゃくだとおもっていたのでしょうね、)

「大事な客だと思っていたのでしょうね、

(じぶんでばんだのこまだのなんぞはこんできて、)

自分で盤だの駒だのなんぞ運んで来て、

(ひとつはいけんを、・・・ってそばへすわったのですと」)

ひとつ拝見を、・・・って側へ坐ったのですと」

(ふたりはまだおぼえたばかりで、ひとにみられるのはめいわくだった。)

二人はまだ覚えたばかりで、ひとに見られるのは迷惑だった。

(しかしあるじはうごくようすがないので、)

しかし主人は動くようすがないので、

(しかたなしにともかくもこまをならべた。)

しかたなしにともかくも駒を並べた。

(さてならべおわってみると、たがいのひしゃとかくがどういつのすじにある。)

さて並べ終ってみると、互いの飛車と角が同一の筋にある。

(おいきたはら、おまえひしゃとかくがあべこべじゃないか、かくがこっちだろう。)

おい北原、おまえ飛車と角があべこべじゃないか、角がこっちだろう。

(きぬまきがかくしんのないくちぶりでこういった。)

衣巻が確信のない口ぶりでこう云った。

(せいのすけもそういわれるとこまった、じぶんはただしくならべたつもりである、)

精之助もそう云われると困った、自分は正しく並べたつもりである、

(が、そういえばそうのようにもおもえた。)

が、そう云えばそうのようにも思えた。

(いやかくはたしか、・・・こっちだろう。)

いや角はたしか、・・・こっちだろう。

(そうかな、おれはそうはおもえないがね。)

そうかな、おれはそうは思えないがね。

(なんともしゅうたいである。なんともひっこみのつかないかんじで、)

なんとも醜態である。なんともひっこみのつかない感じで、

(きぬまきが、そばにいるやどのあるじにきいてみた。)

衣巻が、側にいる宿の主人にきいてみた。

(かくとひしゃはどうならべるべきか、)

角と飛車はどう並べるべきか、

(ふたりのどちらがただしいか、こうきいてみた。)

二人のどちらが正しいか、こうきいてみた。

(するとあるじはうなって、くびをかしげて、もういちどうなって、)

すると主人は唸って、首をかしげて、もういちど唸って、

(さて、わたくしもそこまではぞんじません。こういったということである。)

さて、私もそこまでは存じません。こう云ったということである。

(「そこまではしらないといって、)

「そこまでは知らないといって、

(なつさんこまのならべかたにそこもなにもないじゃありませんか、)

なつさん駒の並べかたにそこもなにもないじゃありませんか、

(あたしおかしくっておかしくって・・・」)

あたし可笑しくって可笑しくって……」

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