契りきぬ 山本周五郎 ⑫
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問題文
(どうきがひどくたかく、ひざのあたりがふるえた。)
動悸がひどく高く、膝のあたりが震えた。
(かれはくらくしてあるあんどんの、ほのかなひかりのなかで、)
彼は暗くしてある行燈の、仄かな光のなかで、
(あらくこきゅうしながらぎょうがしていた。)
あらく呼吸しながら仰臥していた。
(「ごめんあそばせ、おひやをわすれまして」)
「ごめんあそばせ、おひやを忘れまして」
(こういいながら、おなつはまくらちかくへよって、)
こう云いながら、おなつは枕近くへ寄って、
(しずかにぼんをおいた。せいのすけはめをあいた。)
静かに盆を置いた。精之助は眼をあいた。
(そしていっしゅん、もえるようなまなざしでじっとこちらのかおをみた。)
そして一瞬、燃えるようなまなざしでじっとこちらの顔を見た。
(いまにもかれのてがのびてきそうだった。おなつはいきがつまった。)
今にも彼の手が延びて来そうだった。おなつは息が詰った。
(「ありがとう、おれもきがつかなかった」)
「有難う、おれも気がつかなかった」
(せいのすけはのどになにかつかえたようなこえでそういい、)
精之助は喉になにかつかえたような声でそう云い、
(そのままめをつむった。)
そのまま眼をつむった。
(おなつはきんちょうからとかれ、しつぼうとあんどとのいりまじった、)
おなつは緊張から解かれ、失望と安堵とのいりまじった、
(いたがゆいようなきもちでそっとひきさがった、)
痛痒いような気持でそっとひきさがった、
(そしてしょうじをしめようとしたとき、)
そして障子を閉めようとしたとき、
(「ーーなつ」)
「ーーなつ」
(というひくいこえをうしろにきいた。)
という低い声をうしろに聞いた。
(おなつはしめかけたしょうじのてをとめて、そっとふりかえった。)
おなつは閉めかけた障子の手を止めて、そっと振返った。
(「はい、およびでございますか」)
「はい、お呼びでございますか」
(かれはもとのしせいのままめをつむっていた。)
彼は元の姿勢のまま眼をつむっていた。
(なつとよんだせいのすけのこえには、あきらかにしょうどうのひがこもっていた。)
なつと呼んだ精之助の声には、明らかに衝動の火がこもっていた。
(おさえかねたじょうねつのひびきが、)
抑えかねた情熱のひびきが、
(じかにこちらへいとをひくようにかんじられた。)
じかにこちらへ糸を引くように感じられた。
(おなつはひざをついたままふりかえり、)
おなつは膝をついたまま振返り、
(それがよきしたしゅんかんであることをちょっかんして)
それが予期した瞬間であることを直感して
(ふあんとこびとのいりまじった、)
不安と媚びとのいりまじった、
(むいしきのしなをつくりながらめをあげた。)
無意識のしなをつくりながら眼をあげた。
(「およびでございますか」)
「お呼びでございますか」
(せいのすけはもとのしせいのままだった。)
精之助は元の姿勢のままだった。
(まくらのうえにあおむけにねて、じっとめをつむったまま、)
枕の上に仰向けに寝て、じっと眼をつむったまま、
(そうして、やがてしずかにいった。)
そうして、やがて静かに云った。
(「いや、なんでもない、もういい」)
「いや、なんでもない、もういい」
(ひややかな、そっけないこえであった。)
冷やかな、そっけない声であった。
(なつとよびかけたこえとおはまるでうらはらな、)
なつと呼びかけた声とはまるでうらはらな、
(とりつくしまのない、つきはなすようなちょうしである。)
とりつくしまのない、つき放すような調子である。
(おなつははずかしめられたもののようにあかくなり、)
おなつは辱しめられた者のように赤くなり、
(あいさつのことばもいうことができず、)
挨拶の言葉も云うことができず、
(にげるようにしょうじをしめてさった。)
逃げるように障子を閉めて去った。
(あのかたはじぶんにひかれているのだろうか、)
あの方は自分にひかれているのだろうか、
(それともまるでかんしんをもっていないのだろうか。)
それともまるで関心をもっていないのだろうか。
(おなつにはどうしても、そのはんだんがつかないうちに、)
おなつにはどうしても、その判断がつかないうちに、
(ひがたっていった。)
日が経っていった。
(せいのすけのはなしたおじにあたるひととそのさいじょがたずねてきたのは、)
精之助の話した叔父に当る人とその妻女が訪ねて来たのは、
(そんなことがあってからみっかばかりのちのことである。)
そんなことがあってから三日ばかりのちのことである。
(さえぐさないきというひとはしじゅうごろく、)
三枝内記という人は四十五六、
(さいじょはひとつふたつしたであろう、どちらもこえているし、)
妻女は一つ二つ下であろう、どちらも肥えているし、
(どちらもかいほうてきなしょうぶんらしく、)
どちらも解放的な性分らしく、
(くるとすぐからおなつにしたしくよびかけ、)
来るとすぐからおなつに親しく呼びかけ、
(もうながいしりあいかなんぞのようにはなしたりわらったりした。)
もうながい知り合いかなんぞのように話したり笑ったりした。
(「わたくしたいへんなあせかきなんですよ、)
「わたくしたいへんな汗かきなんですよ、
(それだもんでいつもごちそうになったあとでおふろをいただくの、)
それだもんでいつも御馳走になったあとでお風呂を頂くの、
(おかしいでしょ、なつさんでもほかのおよばれはできないわね」)
可笑しいでしょ、なつさんでもほかのおよばれはできないわね」
(さいじょはこういって、)
妻女はこう云って、
(あせになったえりもとなどをみせるようなじかなしたしさをしめした。)
汗になった衿元などを見せるようなじかな親しさを示した。
(「わたくしあとでおながしもうします」)
「わたくしあとでおながし申します」
(「それよりいっしょにはいりましょう、)
「それよりいっしょにはいりましょう、
(いいでしょうせいのすけさん、あとでなつさんをおかりしてよ」)
いいでしょう精之助さん、あとでなつさんをお借りしてよ」
(「わかくなるつもりでいるんだ」)
「若くなるつもりでいるんだ」
(ないきがよってあかくなったかおでこうわらった。)
内記が酔って赤くなった顔でこう笑った。
(「わかいものといっしょにふろへはいるとはだがわかくなるんだそうだ、)
「若い者といっしょに風呂へはいると肌が若くなるんだそうだ、
(だれかにきいたもんだから、さっそくためすつもりさ、)
誰かに聞いたもんだから、早速ためすつもりさ、
(あのとしになってまだそんなもうしゅうがあるんだから」)
あの年になってまだそんな妄執があるんだから」
(「おんななんておろかなものだ、でしょう」)
「女なんておろかな者だ、でしょう」
(さいじょはたくみにおっとのことばのさきをとった)
妻女は巧みに良人の言葉の先をとった
(「はいわかりました、そこでつかぬことをおうかがいもうしますけれど、)
「はいわかりました、そこでつかぬことをお伺い申しますけれど、
(ごじぶんがこのあいだかくれてしらがをぬいていらしったのは)
御自分がこのあいだ隠れて白髪を抜いていらしったのは
(どういうもうしゅうでございますか」)
どういう妄執でございますか」
(「はあ、おじさんもうしらががあるんですか」)
「はあ、叔父さんもう白髪があるんですか」
(「ばかをいえ、なにをつまらんことを、)
「ばかを云え、なにをつまらんことを、
(しらがなどというものはみたこともない」)
白髪などというものは見たこともない」
(「ええ、はげるたちでございますの」)
「ええ、禿げるたちでございますの」
(ばかばかしいかいわであるが、あけっぱなしでいきのあった、)
ばかばかしい会話であるが、あけっ放しで意気の合った、
(なごやかなふうふのじょうがよくうかがわれ、)
なごやかな夫婦の情がよくうかがわれ、
(いよまでがこえをあげてわらった。)
伊代までが声をあげて笑った。