契りきぬ 山本周五郎 ⑭
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問題文
(きせつはとうにあきになっていたが、)
季節はとうに秋になっていたが、
(そのひははじめてあきらしいしずかなあめがふっていた。)
その日は初めて秋らしい静かな雨が降っていた。
(ごごになるときぬまきたちごにんがたずねてき、すぐにこざかもりがはじまった。)
午後になると衣巻たち五人が訪ねて来、すぐに小酒宴が始まった。
(かわのまたさぶろうは、「はなたか」というあだながあり、)
河野又三郎は、『鼻たか』というあだ名があり、
(それはじっさいにもはながたかいけれど、それよりもたげいたのうで、)
それはじっさいにも鼻が高いけれど、それよりも多芸多能で、
(ごしょうぎとかうたとかさかなつりとかうたやはいかいなどにまでてをだし、)
碁将棋とか謡とか魚釣りとか歌や俳諧などにまで手を出し、
(それをみないちおうしろうとばなれのするくらいこなすので、)
それをみないちおう素人ばなれのするくらいこなすので、
(ごとうにんはいつもはなたかだかだ、と、いういみのほうがつよいらしい。)
御当人はいつも鼻たかだかだ、と、いう意味のほうがつよいらしい。
(よってくるとそのじまんばなしで、たくみにわだいをさらうのであるが、)
酔ってくるとその自慢ばなしで、巧みに話題をさらうのであるが、
(じゃきがないのとはなしがおもしろいのとで、)
邪気がないのと話が面白いのとで、
(みんなはかえっていいさかなにしているようにみえた。)
みんなは却っていいさかなにしているようにみえた。
(けれどもそのひはなたかさんはいつものようではなかった。)
けれどもその日は鼻たかさんはいつものようではなかった。
(かわのばかりでなく、ほかのひとたちもつねとはちがって、)
河野ばかりではなく、ほかの人たちも常とは違って、
(なごやかにおちついてはなすというぐあいだった。)
なごやかにおちついて話すというぐあいだった。
(おなつにたいしてもいつもほどなれたふうはみせず、)
おなつに対してもいつもほどなれたふうは見せず、
(きぬまきなどでさえみょうにへだてのあるくちをきいた。)
衣巻などでさえ妙に隔てのある口をきいた。
(このかたたちとももうおわかれなんだ。)
この方たちとももうお別れなんだ。
(おなつはこうおもって、なつかしいようななごりおしいようなきで、)
おなつはこう思って、なつかしいような名残り惜しいような気で、
(できるだけぜんのうえをゆたかにし、こまめにしゃくをしてまわった。)
できるだけ膳の上を豊かにし、こまめに酌をしてまわった。
(「さあ、そろそろせきをかえるかな」)
「さあ、そろそろ席を替えるかな」
(くれがたになるときぬまきがそういった。)
昏れがたになると衣巻がそう云った。
(おなつはひきとめたかった。)
おなつはひきとめたかった。
(あしたになればこのいえをでなければならない、)
明日になればこの家を出なければならない、
(このいえをでれば「みよし」にもいられなくなる。)
この家を出れば『みよし』にもいられなくなる。
(このひとたちにみしられてしまったのだから、)
この人たちに見知られてしまったのだから、
(どこかよそのとちへすみかえをしなければならない。)
どこかよその土地へ住み替えをしなければならない。
(きょうがさいごなのだ、もっともっとせったいをしたいし、)
今日が最後なのだ、もっともっと接待をしたいし、
(みんなのなごやかなはなしをゆっくりきいていたかった。)
みんなのなごやかな話をゆっくり聞いていたかった。
(どうぞもうしばらく。そうくちまででたけれども、)
どうぞもう暫く。そう口まで出たけれども、
(このいえにおけるかのじょのたちばとしては、)
この家における彼女の立場としては、
(そんなにくどくどひきとめるわけにもゆかず、)
そんなにくどくひきとめるわけにもゆかず、
(こころのなかでそっと、ひとりひとりにわかれをつげながらおくりだした。)
心のなかでそっと、一人一人に別れを告げながら送りだした。
(「たぶんかえりはおそくなるだろう、)
「たぶん帰りはおそくなるだろう、
(まっているにはおよばないから、さきにねているがいい」)
待っているには及ばないから、さきに寝ているがいい」
(でてゆくときせいのすけはこういった。)
出てゆくとき精之助はこう云った。
(いよとしょくじをして、あとかたづけがすむと)
伊代と食事をして、あと片づけが済むと
(おなつはじぶんのへやへはいって、もちもののしまつをした。)
おなつは自分の部屋へはいって、持ち物の始末をした。
(ひとつきのあいだに、もらったりかりたりして、)
ひと月のあいだに、貰ったり借りたりして、
(ひととおりふじゆうをしないくらいのものがそろっていた。)
ひととおり不自由をしないくらいの物が揃っていた。
(しかしおなつはすべてをおいてゆくつもりだった、)
しかしおなつはすべてを置いてゆくつもりだった、
(これはやるとはっきりいわれたものも、)
これは遣るとはっきり云われた物も、
(もってゆくきもちにはなれなかった。)
持ってゆく気持にはなれなかった。
(なにもかもおいて、はじめてこのいえへきたときのすがたで、)
なにもかも置いて、初めてこの家へ来たときの姿で、
(だれにもしれないようにでてゆこうとおもった。)
誰にも知れないように出てゆこうと思った。
(いよさんにだけでもてがみをかいておこうか、)
伊代さんにだけでも手紙を書いておこうか、
(あんなにおせわになったのだから。)
あんなにお世話になったのだから。
(こうかんがえてつくえにむかったが、じじつをかくにはしのびないし、)
こう考えて机に向ったが、事実を書くには忍びないし、
(これいじょうひとをいつわるのもいやだし、けっきょくはふでをなげてしまった。)
これ以上ひとを偽るのもいやだし、結局は筆を投げてしまった。
(じゅうじのかねをきいてまもなく、おなつはねた。)
十時の鐘を聞いてまもなく、おなつは寝た。
(こんやきりだからおきていてせわをしたいが、)
今夜きりだから起きていて世話をしたいが、
(そうするとかえってみれんがでそうにおもえた。)
そうすると却ってみれんが出そうに思えた。
(このままがいい。このままあわないほうがいい。)
このままがいい。このまま会わないほうがいい。
(あかりをくらくしてめをつむった。あめはまだふっていた。)
灯を暗くして眼をつむった。雨はまだ降っていた。
(ややはだざむいくらいのよるで、しみいるようなあめのおとのなかに、)
やや肌寒いくらいの夜で、しみいるような雨の音のなかに、
(たえだえの、かぼそいあわれなこえで、)
絶え絶えの、かぼそい哀れなこえで、
(こおろぎのないているのがきこえた。)
こおろぎの鳴いているのが聞えた。
(きゃくのせったいでつかれたのだろうか、なにもおもうまいとこころをおちつけ、)
客の接待で疲れたのだろうか、なにも思うまいと心をおちつけ、
(かたくめをつむっているうちにあんがいはやくねむったらしい、)
かたく眼をつむっているうちに案外はやく眠ったらしい、
(なにかゆめをみていて、だれかによばれているのだが、)
なにか夢をみていて、誰かに呼ばれているのだが、
(なかなかめがさめなかった。)
なかなか眼がさめなかった。
(「なつ、・・・なつ」)
「なつ、・・・なつ」
(こうはっきりとこえがきこえ、びっくりしてめをあいた。)
こうはっきりと声が聞え、びっくりして眼をあいた。
(するとついそこにせいのすけがたってこちらをみていた。)
するとついそこに精之助が立ってこちらを見ていた。
(おなつはほんのうてきにやぐでむねをおさえながら、)
おなつは本能的に夜具で胸を押えながら、
(それでもすばやくおきなおった。)
それでもすばやく起きなおった。
(「すまないがさけのしたくをしてきてくれ」)
「済まないが酒のしたくをして来て呉れ」
(せいのすけはそういってすぐにさった。)
精之助はそう云ってすぐに去った。
(おなつのこころのなかをせんこうのようになにかがはしった。)
おなつの心のなかを閃光のようになにかがはしった。
(なんであるかはもちろんわからない。)
なんであるかはもちろんわからない。
(いっしゅんのひかりににたものがさっとこころをかすめ、)
一瞬の光に似たものがさっと心をかすめ、
(われしらずみがふるえた。)
われ知らず身がふるえた。
(たってきものをきるあいだも、どうきがはげしくうち、)
立って着物を着るあいだも、動悸が激しくうち、
(てあしがじゆうにならないようなかんじだった。)
手足が自由にならないような感じだった。
(まるでなにかにおびえているようだ、)
まるでなにかに怯えているようだ、
(どうしてこんなにみのすくむようなきもちがするのだろうか。)
どうしてこんなに身の竦むような気持がするのだろうか。
(そんなふうにじぶんでふしんなほどおろおろしていた。)
そんなふうに自分で不審なほどおろおろしていた。
(むろんひもいけてあるし、てつびんのゆもまだあつかった。)
むろん火もいけてあるし、鉄瓶の湯もまだ熱かった。
(てばやくかんをし、さらこばちをそろえて、)
手早く燗をし、皿小鉢をそろえて、
(いよをおこさないように、そっとろうかへでていった。)
伊代を起さないように、そっと廊下へ出ていった。