契りきぬ 山本周五郎 ⑱
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問題文
(それからすうじつして、いねのふるいちきだというさんばがきた。)
それから数日して、いねの古い知己だという産婆が来た。
(まだしじゅうそこそこの、ひどくてきぱきしたおんなだったが、)
まだ四十そこそこの、ひどくてきぱきした女だったが、
(ひととおりみたのちたしかにみごもっているといった。)
ひととおりみたのちたしかに身ごもっていると云った。
(「いいえよくあることですよ、ひとばんきりだからって)
「いいえよくあることですよ、ひと晩きりだからって
(ちっともめずらしいことじゃありませんよ」)
ちっとも珍しいことじゃありませんよ」
(そうしていねにふくめられていたのだろう、)
そうしていねに含められていたのだろう、
(そのつもりならいまのうちのほうがらくだからと、)
そのつもりなら今のうちのほうが楽だからと、
(すぐにもそのてはずをつけようとするようすだったが、)
すぐにもその手筈をつけようとするようすだったが、
(おなつはきっぱりとことわった。いねはそばにいてはげまし、)
おなつはきっぱりと断わった。いねは側にいて励まし、
(ゆうきをだすようにといった。「だってあんたそんなこをかかえて、)
勇気を出すようにと云った。「だってあんたそんな子を抱えて、
(ゆくさきくろうするばかりじゃないの、あきらめなさい」)
ゆくさき苦労するばかりじゃないの、諦めなさい」
(「あたしうみたいんです」「そこをかんがえなくちゃだめよ、あんたなら)
「あたし産みたいんです」「そこを考えなくちゃだめよ、あんたなら
(これからだってきっとよいえんがあるわ、どんなにだって)
これからだってきっと良い縁があるわ、どんなにだって
(しあわせになれるんだし、それに、うまれてくるもののためにだって、)
仕合せになれるんだし、それに、生れてくる者のためにだって、
(そうするのがじひというものだわ」しかしおなつはめをきらきらさせ、)
そうするのが慈悲というものだわ」しかしおなつは眼をきらきらさせ、
(はんこうするようなしせいで「どうしてもうむ」といいはった。)
反抗するような姿勢で「どうしても産む」と云い張った。
(いねはじぶんがこをうんだけいけんがないので、おなつのかんじょうを)
いねは自分が子を産んだ経験がないので、おなつの感情を
(りかいすることができなかったのだろう、あきらかにいやなかおをし、)
理解することができなかったのだろう、明らかにいやな顔をし、
(またしごにちはきげんがわるかった。)
また四五日はきげんが悪かった。
(だがやがておもいあたることがあったらしい、あるよるさしむかいになったとき、)
だがやがて思い当ることがあったらしい、ある夜さし向いになったとき、
(おなつのめをみてうなずき、しみじみとしたくちぶりでいった。)
おなつの眼を見て頷き、しみじみとした口ぶりで云った。
(「しんぱいしなくてもいいのよ。からだにきをつけてね。)
「心配しなくてもいいのよ。体に気をつけてね。
(じょうぶないいあかちゃんをうみなさいね、あたしついどわすれしていたのよ、)
丈夫ないい赤ちゃんを産みなさいね、あたしついど忘れしていたのよ、
(あんたがそのひとのいえをでたときのきもち、いつかきいたわね、)
あんたがそのひとの家を出たときの気持、いつか聞いたわね、
(あんたはそんなにもほんきだったんだものね」)
あんたはそんなにも本気だったんだものね」
(あくるとしのろくがつげじゅんにこがうまれた。)
明くる年の六月下旬に子が生れた。
(よくこえたおとこのこで、あるじのもへいがなづけおやになり、)
よく肥えた男の子で、主人の茂平が名づけ親になり、
(おしちやにたかじろうとなをつけていわってくれた。)
お七夜に鷹二郎と名をつけて祝ってくれた。
(おなつははじめからもへいのみよりのものということで、)
おなつは初めから茂平の身よりの者ということで、
(ひとりべっかくにあつかわれていたから、ほかのじょちゅうたちははんかんもあったらしく、)
独り別格に扱われていたから、ほかの女中たちは反感もあったらしく、
(それまであまりよりつかなかったが、こどもがうまれてからは)
それまであまり寄りつかなかったが、子供が生れてからは
(よくくるようになった。「まあかわいいわねえ、きりょうよしだわ、)
よく来るようになった。「まあ可愛いわねえ、きりょうよしだわ、
(ねえちょっとだかせて」「あたしにだかせて、ねえいいわねなつさん、)
ねえちょっと抱かせて」「あたしに抱かせて、ねえいいわねなつさん、
(あたしあかちゃんのおちちくさいのだいすき、ね、だいじにするから)
あたし赤ちゃんのお乳臭いの大好き、ね、大事にするから
(ちょっとだけだかせてね」かわるがわるきてはそんなふうにいい、)
ちょっとだけ抱かせてね」代る代る来てはそんなふうに云い、
(あやしたり、ほおずりをしたり、だきたがったりした。)
あやしたり、頬ずりをしたり、抱きたがったりした。
(ちちはあまるほどでた。おなつはひだちがよく、はつかめにはおきて)
乳は余るほど出た。おなつは肥立ちがよく、二十日めには起きて
(せんたくもし、ちょうつけやだいどころのてつだいなども、いぜんよりげんきに)
洗濯もし、帳つけや台所の手伝いなども、以前より元気に
(てきぱきやりはじめた。いねはこもりをやとってくれたが、)
てきぱきやり始めた。いねは子守りを雇ってくれたが、
(おかしなことにはすこしもそのこにもりをさせない、)
可笑しなことには少しもその子に守りをさせない、
(そばへねかしておくかだくか、いつもじぶんがあかごにつきっきりである。)
側へ寝かして置くか抱くか、いつも自分が赤児に附きっきりである。
(「まるでおかみさん、まごができたみたいね」)
「まるでおかみさん、孫ができたみたいね」
(じょちゅうたちがそういうばかりでなく、なじみのきゃくからも)
女中たちがそう云うばかりでなく、馴染の客からも
(「いつそんなまごができたのか」と、まじめにきかれることがよくあった。)
「いつそんな孫ができたのか」と、まじめに聞かれることがよくあった。
(こうようのきせつがめぐってきて、きゃくのこんざつでめのまわるような)
紅葉の季節がめぐって来て、客の混雑で眼のまわるような
(いそがしいひがつづいた。そのさいちゅうにおもいがけなく、)
忙しい日が続いた。そのさいちゅうに思いがけなく、
(えちぜんのきぬものしょうがたずねてきて、みっかばかりとまっていった。)
越前の絹物商が訪ねて来て、三日ばかり泊っていった。
(きょねんのあのときかりたきものは「むろい」へすみつくとすぐ)
去年のあのとき借りた着物は『むろい』へ住みつくとすぐ
(こころばかりのれいをそえてふくいへおくったが、そのときのたよりを)
心ばかりの礼を添えて福井へ送ったが、そのときの便りを
(わすれずによったのである。ともはべつのわかものであった。)
忘れずに寄ったのである。供はべつの若者であった。
(おなつはもちろん、いねもじじょうをしっているので、)
おなつはもちろん、いねも事情を知っているので、
(ひとばんだけというのをひきとめてかんたいした。)
ひと晩だけというのをひきとめて歓待した。