竹柏記 山本周五郎 ⑩
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問題文
(しろむくのねまきに、しごきをまえでむすんで、すぎのはこうのすけとむきあってすわった。)
白無垢の寝衣に、扱帯を前で結んで、杉乃は孝之助と向き合って坐った。
(ややほそおもてのへいぼんなかおだちであるが、しもぶくれのふっくらとしたあごと、)
ややほそ面の平凡な顔だちであるが、しもぶくれのふっくらとした顎と、
(うけくちの、ひきしまったくちつきと、そしてみぎのめじりにある、)
受け口の、ひき緊った唇つきと、そして右の眼尻にある、
(かなりおおきなほくろとが、りんとしたひょうじょうに、やわらかな、)
かなり大きな黒子とが、凛とした表情に、柔らかな、
(いくらかなまめいたいんしょうをあたえていた。)
幾らか嬌めいた印象を与えていた。
(けしょうはしなおしたらしいが、ひたいからほおのあたり、なめらかなひふが、)
化粧はしなおしたらしいが、額から頬のあたり、なめらかな皮膚が、
(あおざめてこわばり、せいざしたしせいにも、ゆったままとかないかみ)
蒼ざめて硬ばり、正座した姿勢にも、結ったまま解かない髪
((つうじょうはねやへはいるときにしきのかみはとく)にも、)
(通常は寝屋へ入るときに式の髪は解く)にも、
(あるはげしいいしが、しめされているようであった。)
或る激しい意志が、示されているようであった。
(「わたくしもうしあげたいことがございます」すぎのはさかずきをうけようとして、)
「わたくし申上げたいことがございます」杉乃は盃を受けようとして、
(ふとてをひざにもどし、こういいながらめをあげた。しずかではあるが、)
ふと手を膝に戻し、こう云いながら眼をあげた。静かではあるが、
(なにものもおそれない、といったようなまなざしであった。)
なにものも怖れない、といったようなまなざしであった。
(「きかなければならないことですか」)
「聞かなければならないことですか」
(「ねんのためにぜひもうしあげたいのです」こうのすけはうなずいた。)
「念のためにぜひ申上げたいのです」 孝之助は頷いた。
(「わたくしこよいから、たかやすけのよめとなり、あなたのつまとなります、)
「わたくし今宵から、高安家の嫁となり、貴方の妻となります、
(けれど、それはこのからだでございます」)
けれど、それはこの躯でございます」
(すぎののくちびるが、わずかにふるえた、)
杉乃の唇が、僅かにふるえた、
(「わたくしは、このごえんぐみはのぞみませんでした、こちらへまいるきもちは、)
「わたくしは、この御縁組は望みませんでした、こちらへまいる気持は、
(すこしもなかったのです、あなたはそれをごしょうちのうえ、)
少しもなかったのです、貴方はそれを御承知のうえ、
(たってわたくしをごしょもうなさいました」)
たってわたくしを御所望なさいました」
(「そのとおりです」「そのために、あなたがなにをなすったか、)
「そのとおりです」 「そのために、貴方がなにをなすったか、
(わたくしよくぞんじております、どのようなしゅだんをおとりになったか、)
わたくしよく存じております、どのような手段をおとりになったか、
(ということを」「すこしもうたがわずにですか」)
ということを」 「少しも疑わずにですか」
(「わたくしあなたをおあいしもうすことはできません」かのじょはつづけた、)
「わたくし貴方をお愛し申すことはできません」彼女は続けた、
(「まいったいじょう、つまとしてはおつかえいたしますけれど、)
「まいった以上、妻としてはお仕え致しますけれど、
(こころからおあいしもうすことはできません、)
心からお愛し申すことはできません、
(きいていただきたいのは、それだけでございます」)
聞いて頂きたいのは、それだけでございます」
(こえはあわれにふるえた。なくかとおもわれたが、なみだぐみもせず、)
声は哀れに震えた。泣くかと思われたが、涙ぐみもせず、
(かわいたようなめで、まともにこうのすけのかおをみまもった。)
乾いたような眼で、まともに孝之助の顔を見まもった。
(「わたしもひとこといっておきます」)
「私もひとこと云っておきます」
(かれはおだやかな、しかしこころのこもったちょうしでいった。)
彼は穏やかな、しかし心のこもった調子で云った。
(「ひとのいっしょうはながく、つねにへいおんぶじではない、しずかなはるもあれば、)
「人の一生はながく、つねに平穏無事ではない、静かな春もあれば、
(なつのねっしょもある、みちはけわしく、ふうせつはあらいとおもわなければならない、)
夏の熱暑もある、道は嶮しく、風雪は荒いと思わなければならない、
(このよははなぞのではないのです」すぎのはまゆもうごかさなかった。)
この世は花園ではないのです」 杉乃は眉も動かさなかった。
(「しょうじきにいうが、わたしはあなたをあいしている」とかれはつづけた、)
「正直に云うが、私は貴女を愛している」と彼は続けた、
(「まだあなたがかたあげのあるきものをきているころから、)
「まだ貴女が肩揚げのある着物を着ているころから、
(ずっとあなたをあいしていたし、いまでもあいしている、)
ずっと貴女を愛していたし、今でも愛している、
(そして、いつもこうおもっていた、あなたがいつまでもしあわせであるように、)
そして、いつもこう思っていた、貴女がいつまでも仕合せであるように、
(かなしんだりくるしんだり、つらいおもいをしないように、)
悲しんだり苦しんだり、辛いおもいをしないように、
(いっしょう、あんのんに、こうふくにくらすことができるように」)
一生、安穏に、幸福にくらすことができるように」
(すぎののくちびるがうごいた。なにかいおうとしたらしい、しかしこうのすけはつづけた。)
杉乃の唇が動いた。なにか云おうとしたらしい、しかし孝之助は続けた。
(「わたしはさいぶんもつたない、ふゆうでもない、あなたにとってはふそくであろうし、)
「私は才分も拙ない、富裕でもない、貴女にとっては不足であろうし、
(あいしてもらうしかくはないかもしれない、)
愛して貰う資格はないかもしれない、
(けれどもわたしはあなたをよのふうせつからまもる、)
けれども私は貴女を世の風雪から護る、
(できるかぎり、へいあんないっしょうがおくれるようにつとめるつもりだ」)
できる限り、平安な一生がおくれるように努めるつもりだ」
(「あなたには、あんのんなせいかつというものが、それほどたいせつなのですか」)
「貴方には、安穏な生活というものが、それほど大切なのですか」
(「わたしにではなく、あなたのためにです」)
「私にではなく、貴女のためにです」
(「わたくしがのぞまなくともですか」)
「わたくしが望まなくともですか」
(こうのすけのひたいに、くつうをしのぶような、ふかいしわがきざまれた。)
孝之助の額に、苦痛を忍ぶような、深い皺が刻まれた。
(「いまわたしには、こうこたえることしか、できない、)
「いま私には、こう答えることしか、できない、
(わたしはあなたをあいしている、このいっしょうがおわるまであいしてゆく、)
私は貴女を愛している、この一生が終るまで愛してゆく、
(どんなことがあってもふこうやかなしみから、あなたをまもる」)
どんなことがあっても不幸や悲しみから、貴女を護る」
(すぎのはそっとめをそむけた。ねどこはしばらくべつにする、といって、)
杉乃はそっと眼をそむけた。寝床はしばらく別にする、と云って、
(こうのすけはまもなくすぎのをのこしてそこをさった。)
孝之助はまもなく杉乃を残してそこを去った。
(ふたりはついにねやのさかずきをかわさずにしまった。)
二人はついに寝屋の盃を交わさずにしまった。