竹柏記 山本周五郎 ㉗
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問題文
(めざましいしゅっせをし、なおかがやかしいしょうらいをやくそくされているやつかのまえへ、)
めざましい出世をし、なお輝かしい将来を約束されている八束の前へ、
(かつてやつかとあいしあい、まだわすれかねているらしいすぎのを、)
かつて八束と愛しあい、まだ忘れかねているらしい杉乃を、
(このようなおっとがいっしょにつれてでる。)
このような良人がいっしょに伴れて出る。
(ほかのばあいならできないことだ、それはこうのすけじしんよりも、)
他のばあいならできないことだ、それは孝之助自身よりも、
(すぎのにとってくつじょくである、すぎのをにじゅうにぶじょくすることであった。)
杉乃にとって屈辱である、杉乃を二重に侮辱することであった。
(ろうかをこたろうとふみがかけてきた。「おとうさま、つりにゆきましょう」)
廊下を小太郎とふみが駆けて来た。「お父さま、釣りにゆきましょう」
(こたろうがいきをはずませていった。やすみにはゆこうと、)
小太郎が息をはずませて云った。休みにはゆこうと、
(やくそくがしてあったのだ。「おとうたまついにいちまちょ」)
約束がしてあったのだ。「お父たまついにいちまちょ」
(ふみがまけずにりきんでいい、すばやくはいってきて、)
ふみが負けずに力んで云い、すばやく入って来て、
(うしろからちちおやのくびにからみついた。)
うしろから父親の首に絡みついた。
(「ふうちゃんはだめ」こたろうがいばる、)
「ふうちゃんはだめ」小太郎がいばる、
(「おんなはつりなんかできません、ねえおとうさま、おんなはだめですねえ」)
「女は釣りなんかできません、ねえお父さま、女はだめですねえ」
(「ふうたんこんなだあいまちぇんよ、)
「ふうたんこんなだあいまちぇんよ、
(ふうたんはただふうたんでちからね」)
ふうたんはただふうたんでちからね」
(「こんなだって、おんなのことこんなだってさ」)
「こんなだって、女のことこんなだってさ」
(「ええそうでちよ、はばかいちゃま」こうのすけはかなしげなびしょうをうかべ、)
「ええそうでちよ、はばかいちゃま」孝之助は悲しげな微笑をうかべ、
(ふみのてをとって、わきへまわらせながらいった。)
ふみの手を取って、脇へまわらせながら云った。
(「はばかりさまなんていけませんね、そんなことをいうと)
「憚りさまなんていけませんね、そんなことを云うと
(おかあさまにしかられるでしょう、さあおとうさまはいまごようだから、)
お母さまに叱られるでしょう、さあお父さまはいま御用だから、
(もうすこしむこうであそんでいらっしゃい」)
もう少し向うで遊んでいらっしゃい」
(「つりにはゆかないんですか」「そう、あとで、もしかしたらね」)
「釣りにはゆかないんですか」 「そう、あとで、もしかしたらね」
(かれはことばをにごして、ふみをおしやった。)
彼は言葉を濁して、ふみを押しやった。
(そのようすでなにかさっしたのだろう、こたろうはいもうとのてをひいて)
そのようすでなにか察したのだろう、小太郎は妹の手をひいて
(さっていった。おかむらのいえはもとのところではなく、)
去っていった。岡村の家は元の処ではなく、
(まつまるというところにあたらしくたてられた。)
松丸という処に新しく建てられた。
(そこはざいからきたはたへゆくみちにあたるので、とちゅうまでくると、)
そこは在から北畠へゆく道に当るので、途中まで来ると、
(「おばさまへうかがうのですか」とすぎのがきいた。)
「叔母さまへ伺うのですか」と杉乃が訊いた。
(いつになく、というよりもかれにははじめての、あかるいひょうじょうであり、)
いつになく、というよりも彼には初めての、明るい表情であり、
(やわらかいちょうしのこえであった。かれは「いや」とくびをふったまま、)
やわらかい調子の声であった。彼は「いや」と首を振ったまま、
(みちをまがった。さるひとにふたりでしょうたいされた、)
道を曲った。さる人に二人で招待された、
(いっしょにでかけるから、もんぷくにきがえるように。)
いっしょにでかけるから、紋服に着替えるように。
(こうのすけはそういって、ゆきさきはつげずに、でてきたのである。)
孝之助はそう云って、ゆき先は告げずに、出て来たのである。
(すぎのはなにもきかず、おとなしくいわれるとおりにしたが、)
杉乃はなにも訊かず、おとなしく云われるとおりにしたが、
(ずいぶんひさかたぶりにはれぎをき、けしょうをしてでるためか、)
ずいぶん久方ぶりに晴着を着、化粧をして出るためか、
(うつくしくなったばかりでなく、すこしばかりうきうきしているようにみえた。)
美しくなったばかりでなく、少しばかり浮き浮きしているようにみえた。
(みちをまがると、いまひがしずんだところらしく、)
道を曲ると、いま日が沈んだところらしく、
(はるかにたいうんじのもりのうえが、しゅときんのいろにそまっていた。)
遙かに大雲寺の森の上が、朱と金の色に染まっていた。
(いちめんにゆうばえてはいるが、そこだけはまぶしいほどつよく、)
いちめんに夕映えてはいるが、そこだけは眩しいほど強く、
(きんぷんをまじえたはなやかなしゅいろにかがやいている。)
金粉を混えた華やかな朱色に輝いている。
(それはめのさめるほどはなやかであるが、しかもなにやらはかなく、)
それは眼のさめるほど華やかであるが、しかもなにやらはかなく、
(うらがれたようなかんじがあって、ふゆちかいばんしゅうの、)
うら枯れたような感じがあって、冬ちかい晩秋の、
(ものういわびしさをうったえるかのようにおもえた。)
もの憂い佗しさを訴えるかのように思えた。
(すぎのはめをほそめて、うつくしいゆうぞらをみやりながら、)
杉乃は眼を細めて、美しい夕空を見やりながら、
(おっとのわきについてあるいていたが、あたらしいおかむらけのもんのまえへくると、)
良人の脇について歩いていたが、新しい岡村家の門の前へ来ると、
(はじめてそれとちょっかんしたのだろう、きゅうにあしをとめて、)
初めてそれと直感したのだろう、急に足を停めて、
(おっとのほうへふりむいた。それまでのあかるいかおが、するどくひきしまって、)
良人のほうへふり向いた。それまでの明るい顔が、鋭くひき緊って、
(ひたいのあたりがしろくなり、めはとがめるような、はげしいひかりをおびていた。)
額のあたりが白くなり、眼は咎めるような、烈しい光りを帯びていた。
(こうのすけはそっとうなずいて、あたまをたれた。)
孝之助はそっと頷いて、頭を垂れた。
(「そうなんだ」とひくいこえでかれはいった、)
「そうなんだ」と低い声で彼は云った、
(「われわれふたりがしゅひんだという、ぜひというのでことわれなかった」)
「われわれ二人が主賓だという、ぜひというので断われなかった」
(「なぜそうおっしゃってくださいませんでしたの」)
「なぜそう仰しゃって下さいませんでしたの」
(「いえばふしょうちだとおもった、だましたようでわるいけれど、たのむよ」)
「云えば不承知だと思った、騙したようで悪いけれど、頼むよ」
(すぎののひょうじょうがゆがんだ。ひきかえすのかとおもった。)
杉乃の表情が歪んだ。引返すのかと思った。
(じっさいきびすをかえしそうにしたが、またやしきのほうへめをやった。)
じっさい踵を返しそうにしたが、また屋敷のほうへ眼をやった。