竹柏記 山本周五郎 ㉙
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問題文
(やがてじこくになり、ひろまでしゅえんがはじまったが、)
やがて時刻になり、広間で酒宴が始まったが、
(しゅじんがわのたいどはすこしもかわらなかった。)
主人側の態度は少しも変らなかった。
(やつかは「おふたりがしゅひんである」といった。)
八束は「お二人が主賓である」と云った。
(しかしそんなようすはどこにもなかった。)
しかしそんなようすはどこにもなかった。
(まねかれたきゃくはじゅうしょくばかりで(じょうだいかろうはだいりだった))
招かれた客は重職ばかりで(城代家老は代理だった)
(みぶんからいえば、たかやすはじざよりしたであるのはとうぜんだったが、)
身分からいえば、高安は次座より下であるのは当然だったが、
(みちびかれたせきはそれよりしたであった。)
導かれた席はそれより下であった。
(そのうえ、なによりこまったのは、つまをどうはんしているのはかれだけで、)
そのうえ、なにより困ったのは、妻を同伴しているのは彼だけで、
(ほかにはひとりもふじんきゃくのいないことであった。)
ほかには一人も婦人客のいないことであった。
(「めずらしいですね、おふたりごいっしょとは」)
「珍しいですね、お二人ごいっしょとは」
(そんなふうにたびたびきかれた。「ぜひいっしょにと)
そんなふうにたびたび訊かれた。「ぜひいっしょにと
(まねかれたものですから」こうこたえたが、ぐあいのわるさは、)
招かれたものですから」こう答えたが、ぐあいの悪さは、
(うたげがはじまるにつれておおきくなるばかりだった。やつかはさっそうとしていた。)
宴が始まるにつれて大きくなるばかりだった。八束は颯爽としていた。
(あいさつのときつまをしょうかいし、せがまれてだんそうにふんしてつれてきた、)
挨拶のとき妻を紹介し、せがまれて男装に扮して伴れて来た、
(というはなしで、たくみにきゃくたちをわらわせた。)
という話で、巧みに客たちを笑わせた。
(「えどそだちでわがままときているからかないません、)
「江戸育ちでわがままときているからかないません、
(あとでじまんのまいをまうそうですが、これはほめないと)
あとで自慢の舞をまうそうですが、これは褒めないと
(げきりんにふれますから、どうぞみなさんでごかっさいをねがいます」)
逆鱗に触れますから、どうぞ皆さんで御喝采を願います」
(くだけたくちぶりであるが、つまをほこっているちょうしが、かなりろこつにみえた。)
砕けた口ぶりであるが、妻を誇っている調子が、かなり露骨にみえた。
(たいどはどうどうとして、しかもらいらくで、くちのききかたもみぶりも、)
態度は堂々として、しかも磊落で、口のきき方も身振も、
(あたりをはらうというようすである。)
あたりを払うというようすである。
(そうして、こうのすけふさいにはめもくれなかった。)
そうして、孝之助夫妻には眼もくれなかった。
(すぎのはめげなかった。おんなきゃくはじぶんだけだということも、)
杉乃はめげなかった。女客は自分だけだということも、
(しゅじんがわからむしされていることも、まったくきにかけない)
主人側から無視されていることも、まったく気にかけない
(というようすで、さかずきもとったし、りんせきのきゃくにはなしかけられれば、)
というようすで、盃も取ったし、隣席の客に話しかけられれば、
(こころよくへんじをし、しずかにわらったりした。)
快く返辞をし、静かに笑ったりした。
(くつじょくをかんじたりはじたりしているようすはいささかもみえなかった。)
屈辱を感じたり恥じたりしているようすはいささかもみえなかった。
(にこんのぜんがかたづくと、やつかのつまがまいをまった。)
二献の膳が片づくと、八束の妻が舞をまった。
(たぶんえどからつれてきたのだろう、みたことのない、)
たぶん江戸から伴れて来たのだろう、見たことのない、
(わかいげざがよにん、ふえ、つづみ、こつづみ、たいこをつとめた。)
若い下座が四人、笛、鼓、小鼓、太鼓をつとめた。
(きょくはさくらがりというのだそうで、こうせつはわからないが、)
曲は桜狩というのだそうで、巧拙はわからないが、
(たいそうはなやかでり、ふりのはでなまいぶりであった。)
たいそう華やかであり、振の派手な舞いぶりであった。
(すぎのはむかんどうに、おちついてみていた。)
杉乃は無感動に、おちついて観ていた。
(ももやまふうのかれいなびょうぶ、たてつらねたしょくだいのまばゆいひかり、)
桃山風の華麗な屏風、立て列ねた燭台のまばゆい光り、
(ぜいをつくしたしゅこうとよりぬきのきゃくたち、これらはみな、)
贅を尽した酒肴と選りぬきの客たち、これらはみな、
(おかむらやつかのかちとそのいせいをしめすかのようであった。)
岡村八束の価値とその威勢を示すかのようであった。
(かれはいますべてのきゃくのうえにいる、やがてもっとうえに、)
彼は今すべての客の上にいる、やがてもっと上に、
(もっとたかくいるようになるだろう、かれじしんもそうじふし、)
もっと高くいるようになるだろう、彼自身もそう自負し、
(きゃくたちもそれをみとめているようだ。)
客たちもそれを認めているようだ。
(みごとにかわったものだ。こうのすけはあっとうされながらそうおもった。)
みごとに変ったものだ。孝之助は圧倒されながらそう思った。
(まいがおわって、にぎやかなかっさいがはじまると、すぎのはそっとたって、)
舞が終って、賑やかな喝采が始まると、杉乃はそっと立って、
(てあらいにでもゆくふうにさりげなくでていった。)
手洗いにでもゆくふうにさりげなく出ていった。
(こうのすけはまさかいっしょにたってゆくわけにもいかず、)
孝之助はまさかいっしょに立ってゆくわけにもいかず、
(まごつきはしないかとあんじていたが、)
まごつきはしないかと案じていたが、
(すぎのはそのままさんこんのぜんがくばられてももどってこなかった。)
杉乃はそのまま三献の膳が配られても戻って来なかった。
(「ひとつさしあげましょう」みぎどなりにいたふじいというろうじんが、)
「一つ差上げましょう」右隣にいた藤井という老人が、
(さかずきをさしながらいった、「どうやらおくがたはごきかんとみえますな」)
盃をさしながら云った、「どうやら奥方は御帰館とみえますな」
(なにげなくいったらしいが、こうのすけはそうかとおもいあたり、)
なにげなく云ったらしいが、孝之助はそうかと思い当り、
(うちのめされたようなきもちになった。)
うちのめされたような気持になった。
(そうだ、もうかえるべきときだった。やつかがしょうたいしたいとは、)
そうだ、もう帰るべきときだった。八束が招待した意図は、
(もうめいりょうである、もうとうにかえってもよかったのだ。)
もう明瞭である、もうとうに帰ってもよかったのだ。
(すぎのはけなげにしんぼうしたが、ついにがまんがきれたのであろう。)
杉乃はけなげに辛抱したが、ついにがまんが切れたのであろう。
(ねんのいったしっぱいだ。こうおもったが、それですぐ、)
念のいった失敗だ。こう思ったが、それですぐ、
(かえるわけにもゆかず、しばらくふじいろうとはなしてからざをたった。)
帰るわけにもゆかず、暫く藤井老と話してから座を立った。
(やつかにあいさつはしなかった。むこうでもそこまでもとめては)
八束に挨拶はしなかった。向うでもそこまで求めては
(いないであろうし、あいさつすることはかえっていやみになるとおもった。)
いないであろうし、挨拶することは却って厭味になると思った。