めおと蝶 山本周五郎 ③

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プレイ回数1443難易度(4.3) 2857打 長文
妻に頑なな大目付の夫・良平、結婚は失敗だと思い夫を拒む信乃。
信乃は情の薄い夫・良平を好きになることができない。ある日かつて思いを寄せていた智也が投獄される。

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問題文

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(こうのすけはけんこうなので、これまでははとしてなんのくろうもしていなかった。)

甲之助は健康なので、これまで母としてなんの苦労もしていなかった。

(それがびょうきになられてみると、たえられないじせきになった、)

それが病気になられてみると、耐えられない自責になった、

(いしゃのしんさつによると、そのこうねつはちょうのしっかんからきたのもので、)

医者の診察によると、その高熱は腸の疾患からきたもので、

(ねつよりはそのほうがじゅうだいだという。)

熱よりはそのほうが重大だという。

(すぎはとおかばかりげりがつづいているとこたえたが、いしゃはおこったようなかおで、)

すぎは十日ばかり下痢が続いていると答えたが、医者は怒ったような顔で、

(「ちいさいこのけんこうはべんでみわけをつけるというくらいではないか、)

「小さい子の健康は便でみわけをつけるというくらいではないか、

(そんなことではたいせつなうばのやくはつとまらぬだろう」)

そんなことでは大切な乳母の役はつとまらぬだろう」

(こういってしかり、しのもよくきをつけるようにちゅういされた。)

こう云って叱り、信乃もよく気をつけるように注意された。

(そんなごたごたもあり、よそうよりもはやくおっとがきゃくをつれてきたので、)

そんなごたごたもあり、予想よりも早く良人が客を伴れて来たので、

(ゆうがたのにじかんばかりは、しのはいきをつくひまもないほどいそがしかった。)

夕方の二時間ばかりは、信乃は息をつく暇もないほど忙しかった。

(きゃくはごにん、じゅうじまえにはかえったけれども、りょうへいはせったいが)

客は五人、十時まえには帰ったけれども、良平は接待が

(きにいらぬらしく、きゃくがさるとすぐしのをよんでおこった。)

気にいらぬらしく、客が去るとすぐ信乃を呼んで怒った。

(「ぜんのものもきゅうじもなおざりすぎる、あさからもうしておいたのに、)

「膳の物も給仕もなおざり過ぎる、朝から申しておいたのに、

(ぜんたいなにをしていたのか」めしつかいにでもどなるような)

ぜんたいなにをしていたのか」召使にでもどなるような

(あらいこえであった。しのはあやまらなかった、)

荒い声であった。信乃はあやまらなかった、

(じぶんでもよそよそしいとおもうこえで、したをみたままいった。)

自分でもよそよそしいと思う声で、下を見たまま云った。

(「こうのすけがきゅうにびょうきになりまして」)

「甲之助が急に病気になりまして」

(りょうへいはちょっといきをのんだ。「びょうきとは、どんなびょうきだ」)

良平はちょっと息をのんだ。「病気とは、どんな病気だ」

(「いしゃのもうしますにはたいへんちょうをわるくしているそうで、)

「医者の申しますにはたいへん腸を悪くしているそうで、

(にさんにちはだいじをとるようにとのことでございました」)

二三日は大事をとるようにとのことでございました」

など

(「それならしろへつかいをよこすべきだ」)

「それなら城へ使いをよこすべきだ」

(こうさけぶと、どこにねかしてあるかといって、)

こう叫ぶと、どこに寝かしてあるかといって、

(りょうへいにはめずらしくせかせかとたった。)

良平には珍らしくせかせかと立った。

(こうのすけはそのよるひきつけをおこした。)

甲之助はその夜ひきつけを起した。

(いしゃをよびにやり、てあてをしてもらうとおさまったが、)

医者を呼びにやり、手当をして貰うとおさまったが、

(あけがたまでかんけつてきにふるえのほっさがあって、)

明けがたまで間歇的にふるえの発作があって、

(しのはとうとうあさまでねずにかんごしていた。)

信乃はとうとう朝まで寝ずに看護していた。

(りょうへいはいしゃといれちがいにねまへさった、)

良平は医者といれちがいに寝間へ去った、

(はじめこうのすけのくるしむのをみたときは、かおいろをうしない、)

初め甲之助の苦しむのを見たときは、顔色を失い、

(くちびるをしろくして、じぶんでもからだをふるわせていたが、)

唇を白くして、自分でも躯を震わせていたが、

(しんじょへはいるとそれなりでてこなかった。)

寝所へはいるとそれなり出て来なかった。

(「こんなときともやさまならどうなさるだろう」)

「こんなとき知也さまならどうなさるだろう」

(すぎもさがらせたあと、ひとりでこうのすけのかおをみまもりながら、)

すぎもさがらせたあと、独りで甲之助の顔を見まもりながら、

(しのはむいしきにこうつぶやいて、そのこえにじぶんでびっくりして、)

信乃は無意識にこう呟いて、その声に自分でびっくりして、

(めをかたくつむった。はげしいじせきのおもいと、)

眼をかたくつむった。激しい自責の思いと、

(なやましいしぼのようなかんどうとで、むねがせつなくなり)

悩ましい思慕のような感動とで、胸がせつなくなり

(あたまがくらくらした。もしこのこがしぬとすれば、)

頭がくらくらした。もしこの子が死ぬとすれば、

(あのときじぶんにゆうきがなかったことのばつだ。)

あのとき自分に勇気がなかったことの罰だ。

(しのはぜんしんにはりをうたれるようなかんじで、)

信乃は全身に針を打たれるような感じで、

(ながいことめをつむったまますわっていた。)

ながいこと眼をつむったまま坐っていた。

(りょうへいはこうのすけのそばへもちかよらず、ようだいをきこうともしなかった。)

良平は甲之助のそばへも近よらず、容態をきこうともしなかった。

(しのもはなすきになれない、おっとのれいこくににたかたいかおをみると、)

信乃も話す気になれない、良人の冷酷に似た硬い顔を見ると、

(くちまででかかったことばがのどにつかえてしまう。)

口まで出かかった言葉が喉につかえてしまう。

(たとえこうのすけがしんだとしても、)

たとえ甲之助が死んだとしても、

(じぶんからおっとにはいうまいとおもった。)

自分から良人には云うまいと思った。

(じっかのすみかわからははといもうとがみまいにきたが、そのときははに、)

実家の住川から母と妹がみまいに来たが、そのとき母に、

(これからはじぶんでせわをするがいいといわれた。)

これからは自分で世話をするがいいと云われた。

(「うえむらさんのかふうもあるだろうけれど、)

「上村さんの家風もあるだろうけれど、

(やっぱりおなかをいためたははおやがそだてなければだめですよ、)

やっぱりおなかを痛めた母親が育てなければだめですよ、

(うばはどうしたってうばで、ちをわけたものとはちがうんですから)

乳母はどうしたって乳母で、血を分けた者とは違うんですから

(それにまるでじょうがうつらないじゃありませんか、)

それにまるで情がうつらないじゃありませんか、

(こんなことはとのがたにはおわかりがないのだから、)

こんなことは殿方にはおわかりがないのだから、

(あなたからそうおっしゃらなければだめですよ」)

あなたからそう仰しゃらなければだめですよ」

(しのもそうしようとおもった。それで、こうのすけがもうだいじょうぶと)

信乃もそうしようと思った。それで、甲之助がもう大丈夫と

(いわれたのをきかいに、そのことをおっとにもうしでた。)

云われたのを機会に、そのことを良人に申し出た。

(「これまでどおりにやってもらおう」りょうへいのへんじはにべもなかった。)

「これまでどおりにやって貰おう」良平の返事はにべもなかった。

(「こうのすけはうえむらけのあとつぎだ、おれのこはおれのおもうようにそだてる」)

「甲之助は上村家の跡継ぎだ、おれの子はおれの思うように育てる」

(まるでさしでがましいといったようなちょうしである。)

まるでさしでがましいといったような調子である。

(しのはだまって、めをふせたままそこをたった。)

信乃は黙って、眼を伏せたままそこを立った。

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