めおと蝶 山本周五郎 ⑩

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妻に頑なな大目付の夫・良平、結婚は失敗だと思い夫を拒む信乃。
信乃は情の薄い夫・良平を好きになることができない。ある日かつて思いを寄せていた智也が投獄される。

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問題文

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(あるやはん、きおんがたかくあめのふるいちじごろであったが、)

或る夜半、気温が高く雨の降る一時ごろであったが、

(そっとしんじょをぬけだし、ともやのおかわをきれいにして、)

そっと寝所をぬけだし、知也のおかわをきれいにして、

(なんどのまえまでもどってくると、ねまきのままで)

納戸の前まで戻って来ると、寝衣のままで

(おっとがいまへはいってきた。)

良人が居間へはいって来た。

(あしおともきかせず、とつぜんぬっと、)

足音も聞かせず、とつぜんぬっと、

(おっとがそこへあらわれたとき、しのはあっとさけびごえをあげ、)

良人がそこへ現われたとき、信乃はあっと叫び声をあげ、

(かみでつつんだおかわをもったなりそこへたちすくんだ。)

紙で包んだおかわを持ったなりそこへ立竦んだ。

(「なにをしている」)

「なにをしている」

(りょうへいはぎらぎらしためでこっちをみた。)

良平はぎらぎらした眼でこっちを見た。

(「そこにもっているのはなんだ」)

「そこに持っているのはなんだ」

(「ああ、ああびっくりいたしました」)

「ああ、ああびっくり致しました」

(しのはおおきくあえいだ。)

信乃は大きくあえいだ。

(ひつよういじょうにおおきくあえいで、そうしてごくしぜんにびしょうしながら、)

必要以上に大きくあえいで、そうしてごくしぜんに微笑しながら、

(「とのがたのごぞんじないことでございます、)

「殿方のご存じないことでございます、

(あちらへいらしっていてくださいまし、)

あちらへいらしっていて下さいまし、

(こんなところへいきなりいらしったりして、)

こんな処へいきなりいらしったりして、

(まだこんなにどうきがひどうございますわ」)

まだこんなに動悸がひどうございますわ」

(こういって、わざとふすまはあけたまま、)

こう云って、わざと襖は明けたまま、

(なんどのなかへはいっていった。)

納戸の中へはいっていった。

(もうにそくかさんそく、おっとがこっちへくれば、)

もう二足か三足、良人がこっちへ来れば、

など

(ともやはみつけられるだろう、せきひとつしてもおしまいだ。)

知也はみつけられるだろう、咳ひとつしてもおしまいだ。

(しのはめまいがしそうになった、)

信乃はめまいがしそうになった、

(しんぞうがのどへつきあげるようなかんじで、わきのしたにあせがながれた。)

心臓が喉へつきあげるような感じで、腋の下に汗が流れた。

(「ねそびれたようだ、さけをのもう」)

「寝そびれたようだ、酒を飲もう」

(こういっていまでおっとのすわるけはいがした。)

こう云って居間で良人の坐るけはいがした。

(しのは「はい」とこたえ、ともやにてをふってみせてからなんどをでた。)

信乃は「はい」と答え、知也に手を振ってみせてから納戸を出た。

(おっとがかんづいた。しのはそうおもった。)

良人が感づいた。信乃はそう思った。

(こんなやはんにさけをのむなどということはれいがない、)

こんな夜半に酒を飲むなどということは例がない、

(なにかきづいたのですわりこんだにちがいない。)

なにか気づいたので坐りこんだに違いない。

(こうおもったけれど、こんどはしのはぎゃくにおちついた。)

こう思ったけれど、こんどは信乃は逆におちついた。

(いずれにせよながいじかんではない、はっけんされたときはじがいをするだけだ。)

いずれにせよ長い時間ではない、発見されたときは自害をするだけだ。

(できるならともやをにがして、しのはさけのしたくをしながら、)

できるなら知也を逃がして、信乃は酒の支度をしながら、

(ひそかにかいけんのふくろをとき、すぐぬけるようにして、)

ひそかに懐剣の袋を解き、すぐ抜けるようにして、

(おびのあいだへはさみいれた。)

帯の間へ挾み入れた。

(「おまえにもひとつまいろう」)

「おまえにも一つまいろう」

(したくができてすわると、りょうへいはまずのんでから)

支度が出来て坐ると、良平はまず飲んでから

(しのに、さかずきをさしだした。)

信乃に、盃をさしだした。

(それをうけとるとき、しののてはふるえた。)

それを受取るとき、信乃の手はふるえた。

(「どうした。ひどくふるえるではないか」)

「どうした。ひどくふるえるではないか」

(「いまおどろいたからでございますわ、)

「いま驚いたからでございますわ、

(ほんとうにおもしろいようにふるえますこと」)

本当に面白いようにふるえますこと」

(「まるであくじでもみつけられたようだな」)

「まるで悪事でもみつけられたようだな」

(「ええ、そうかもしれません」)

「ええ、そうかもしれません」

(しのはこびのあるめでおっとをみた。)

信乃は媚のある眼で良人を見た。

(「かりにもだんなさまのめにふれてはならないものを)

「仮にも旦那さまの眼に触れてはならないものを

(みられてしまったのですから、でもとつぜん)

見られてしまったのですから、でもとつぜん

(はいっていらしったほうもわるうございますわ」)

はいっていらしった方も悪うございますわ」

(「そんなにむきになっていいわけをするほどのことか」)

「そんなにむきになって云いわけをするほどのことか」

(りょうへいはくちびるでわらいながらこちらをみた。)

良平は唇で笑いながらこちらを見た。

(しのはあたまがくらくらしてきた。さけびだしたくなった。)

信乃は頭がくらくらしてきた。叫びだしたくなった。

(なんどのふすまをあけて、こえかぎりに、)

納戸の襖をあけて、声かぎりに、

(「さあごらんなさい、あのかたはここにいます。)

「さあごらんなさい、あの方は此処にいます。

(わたくしがかくまっていたのです」とぜっきょうしたくなった。)

わたくしが匿まっていたのです」と絶叫したくなった。

(それはしょうどうのようにはげしく、ほとんどたちそうになったが、)

それは衝動のように激しく、殆ど立ちそうになったが、

(そのときりょうへいがくびをふって、たいくつそうにさかずきをもちながらいった。)

そのとき良平が首を振って、退屈そうに盃を持ちながら云った。

(「おんなはつまらぬことにきをつかうものだ」)

「女は詰らぬことに気を使うものだ」

(そしてそれからはいつものように、)

そしてそれからはいつものように、

(ひややかなかおでだまってのみ、まもなくしんじょへたっていった。)

冷やかな顔で黙って飲み、まもなく寝所へ立っていった。

(たすかった。きづかれなかった。)

助かった。気づかれなかった。

(からだじゅうのすじがばらばらになるような、)

体じゅうの筋がばらばらになるような、

(ふかいあんどときおちとで、しのはややしばらく)

深い安堵と気おちとで、信乃はやや暫らく

(たつこともできなかった。そのよるはひさかたぶりにじゅくすいした。)

立つこともできなかった。その夜は久方ぶりに熟睡した。

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