めおと蝶 山本周五郎 ⑫
関連タイピング
-
プレイ回数10万歌詞200打
-
プレイ回数4212かな314打
-
プレイ回数96万長文かな1008打
-
プレイ回数3.2万歌詞1030打
-
プレイ回数36長文3856打
-
プレイ回数6万長文1159打
-
プレイ回数1.8万長文かな102打
-
プレイ回数25万長文786打
問題文
(それからみっかめにひるまえからあめがふりだした。)
それから三日めにひるまえから雨が降りだした。
(このところずっときおんがたかく、)
このところずっと気温が高く、
(ことしはゆきがすくなそうだといわれていたが、)
今年は雪が少なそうだと云われていたが、
(そのひはぜんやからひどくいて、)
その日は前夜からひどく凍て、
(あさになるとそらはいちめんゆきぐもにおおわれ、)
朝になると空はいちめん雪雲に掩われ、
(こおったものがいつまでもとけなかった。)
氷ったものがいつまでも溶けなかった。
(ひえたのだろう、りょうへいははらがいたむといって、)
冷えたのだろう、良平は腹が痛むと云って、
(つとめをやすむことにし、やくどころへつかいをやった。)
勤めを休むことにし、役所へ使いをやった。
(きょうはふるだろうに、こまった。)
今日は降るだろうに、困った。
(しのはとうわくしたが、はたしてじゅういちじまえにあめがふりはじめ、)
信乃は当惑したが、はたして十一時まえに雨が降りはじめ、
(ひるをすぎるとかなりつよくなって、そうしてそのあめのなかをいもうとがやってきた。)
午を過ぎるとかなり強くなって、そうしてその雨のなかを妹がやって来た。
(「うえむらがやすんでいるのよ、どうしましょう」)
「上村が休んでいるのよ、どうしましょう」
(いまでむきあうとすぐにしのがいった、)
居間で向き合うとすぐに信乃が云った、
(「なんどはねまにそうとおくないし、うえむらはみみがはやいから、)
「納戸は寝間にそう遠くないし、上村は耳が早いから、
(きづかれたらおしまいよ」)
気づかれたらおしまいよ」
(「だんじてやるのよ」ふみよはちゅうちょなくいった、)
「断じてやるのよ」文代は躊躇なく云った、
(「だんじておこなえばきじんもさくだわ、うんはてんにありよ」)
「断じて行えば鬼神も避くだわ、運は天にありよ」
(それからこえをひそめてきいた。)
それから声をひそめてきいた。
(「あのごそうだん、なすって」「ええ、あとではなすわ」)
「あの御相談、なすって」 「ええ、あとで話すわ」
(しのはうなずいてようありげにたった。)
信乃は頷いて用ありげに立った。
(いよいよけっこうすることにきまった。)
いよいよ決行することにきまった。
(ふみよはこうのすけをだいてきて、いまやろうかでいっしょにあそびだす。)
文代は甲之助を抱いて来て、居間や廊下でいっしょに遊びだす。
(しのはそのあいだになんどのともやにしたくをさせ、)
信乃はそのあいだに納戸の知也に支度をさせ、
(すきをみてうらぐちからだしてやる。)
隙をみて裏口から出してやる。
(すみかわまでものをとりにいってまいります。)
住川まで物を取りにいってまいります。
(こういってもんをぬけだすてはずだった。)
こう云って門をぬけだす手筈だった。
(ともべやはげんかんのよこにあるので、)
供部屋は玄関の横にあるので、
(うらからまわってでるともんばんにみつかるきけんがおおい、)
裏から廻って出ると門番にみつかる危険が多い、
(たのみはあめであるが、ぶじにとおりぬけることができるかどうか。)
たのみは雨であるが、無事に通りぬけることができるかどうか。
(「あなたにはたいへんなごめいわくでした」)
「あなたにはたいへんな御迷惑でした」
(したくがおわるとともやはこういって、くいしめるようなめでしのをみた。)
支度が終ると知也はこう云って、くいしめるような眼で信乃を見た。
(「こんごのことはよそうもつきません、)
「今後のことは予想もつきません、
(ことによるともっとごめいわくをかけることになるかもしれない、)
ことによるともっと御迷惑をかけることになるかもしれない、
(けれどもしんじてください、わたしはどうしても)
けれども信じて下さい、私はどうしても
(これをしなけらばならなかったのです、)
これをしなければならなかったのです、
(そしてわたしのちからのおよぶかぎりは、)
そして私の力の及ぶ限りは、
(あなたをふこうにはさせないつもりです、しのさん、)
あなたを不幸にはさせないつもりです、信乃さん、
(どんなことがあってもきをおらずにしっかりして、まっていてください」)
どんな事があっても気を折らずにしっかりして、待っていて下さい」
(「よいごしゅびを、おいのりいたします」)
「よい御首尾を、お祈り致します」
(「だいじょうぶやってみせます、では、)
「大丈夫やってみせます、では、
(こんどはてんかはれておあいしにきますよ」)
こんどは天下晴れてお会いしに来ますよ」
(さけるひまもなくしののてをとり、)
避けるひまもなく信乃の手を取り、
(それをかたくにぎって、ともやはしずかにわらった。)
それをかたく握って、知也は静かに笑った。
(うらぐちからかれをおくりだすなり、しのはまをはかってげんかんへゆき、)
裏口から彼を送りだすなり、信乃は間を計って玄関へゆき、
(しょうじをあけてもんのほうをみた。)
障子をあけて門のほうを見た。
(わきのこべやからわかいかしがなにごとかとでてきたが、)
脇の小部屋から若い家士がなにごとかと出て来たが、
(てをふるとすぐにひっこんだ。そのときぜんていへともやがあらわれた。)
手を振るとすぐに引込んだ。そのとき前庭へ知也が現われた。
(あまがっぱをき、かさをふかくかむって、)
雨合羽を着、笠をふかく冠って、
(まえかがみにすたすたともんのほうへゆく。)
前かがみにすたすたと門のほうへゆく。
(しのはいきがつまってきた。こころのなかでがっしょうし、かみにいのった。)
信乃は息が詰ってきた。心のなかで合掌し、神に祈った。
(ともやはぶじにもんをでていった。)
知也は無事に門を出ていった。
(「すんだわ」いまへもどったしのは、ふみよにこういうなり、)
「済んだわ」 居間へ戻った信乃は、文代にこう云うなり、
(くたくたとそこへすわって、きょだつしたようにためいきをつき、)
くたくたとそこへ坐って、虚脱したように溜息をつき、
(もういちどひくくぼうぜんとつぶやいた。「すっかりすんだわ」)
もういちど低く茫然と呟いた。「すっかり済んだわ」
(ふみよはくれがたまでいた。あめはゆきになったが、)
文代は昏れ方までいた。雨は雪になったが、
(そのゆきのなかをかりたちょうちんをともにもたせてかえっていった。)
その雪のなかを借りた提燈を供に持たせて帰っていった。
(ひとのでいりもありじかんもたっていたので、)
人の出入りもあり時間も経っていたので、
(もんばんはきがつかなかったらしい。)
門番は気がつかなかったらしい。
(べつにふしんされることもなかった。)
べつに不審されることもなかった。
(としをこえるとすぐ、えどからししゃがきて、)
年を越えるとすぐ、江戸から使者が来て、
(いまきさいべえはたいめいになり、)
井巻済兵衛は待命になり、
(じせきのわたなべちからがくにかろうをだいこうすることになった。)
次席の渡辺主税が国家老を代行することになった。
(しのにはもちろんそのほうめんのことはわからないが、)
信乃にはもちろんその方面のことはわからないが、
(すくなくともそれがともやとむかんけいでないというてんだけはさっしがついた。)
少なくともそれが知也と無関係でないという点だけは察しがついた。
(おそらくかれはだっしゅつにせいこうし、えどへいったにちがいない、)
おそらく彼は脱出に成功し、江戸へいったに違いない、
(いまきこくろうのたいめいはそのしょうめいであるとおもっていいだろう。)
井巻国老の待命はその証明であると思っていいだろう。