日本婦道記 梅咲きぬ 山本周五郎 ②

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姑「かな女」は加代の習い事を理由なく辞めるようにすすめる。

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(「さくやおよみなすったのはこのかんやのうめというのですか」)

「昨夜お詠みなすったのはこの寒夜の梅というのですか」

(じゅうまいほどあるたんざくをゆっくりみていたかなじょが、)

十枚ほどある短冊をゆっくりみていたかな女が、

(さいごのいっしゅをつくづくよんでからいった。)

さいごの一首をつくづく読んでから云った。

(「はい」「みごとにおよみなすったこと、ほんとうにうつくしくみごとなおうたですね」)

「はい」「みごとにお詠みなすったこと、本当に美しくみごとなお歌ですね」

(「おはずかしゅうございます」)

「お恥ずかしゅうございます」

(「わずかなあいだにたいそうなごじょうたつです、)

「僅かなあいだにたいそうなご上達です、

(これだけおよめになればもうおんなのたしなみにはすぎたくらいでしょう」)

これだけお詠めになればもうおんなのたしなみには過ぎたくらいでしょう」

(かなじょはたんざくをしずかにおき、やさしくよめのかおをみやりながらいった。)

かな女は短冊をしずかに置き、やさしく嫁の顔を見やりながら云った。

(「もうおうたはこのくらいにして、またなにかほかのけいこごとを)

「もうお歌はこのくらいにして、またなにかほかの稽古ごとを

(おはじめなさるのですね。さあ、こんどはなにをなすったらよいかしら」)

おはじめなさるのですね。さあ、こんどはなにをなすったらよいかしら」

(かよはいっぺんにねむけからさめた。)

加代はいっぺんにねむけから覚めた。

(かこうをみたいといわれたときのふあんなよかんがあたらしくよみがえり、)

歌稿をみたいと云われたときの不安な予感があたらしくよみがえり、

(おそれていたことがやはりじじつとなってあらわれたのをしった。)

おそれていたことがやはり事実となってあらわれたのを知った。

(「おことばをかえすようではございますけれど、)

「お言葉をかえすようではございますけれど、

(もうすこしおけいこをつづけさせていただけませんでしょうか、)

もうすこしお稽古を続けさせて頂けませんでしょうか、

(まだみちのはしものぞいたようにはおもえませぬし、ようやくじすうを)

まだ道のはしも覗いたようには思えませぬし、ようやく字数を

(そろえることができるようになったばかりでございますから」)

揃えることができるようになったばかりでございますから」

(「それでもうわさにきくと、あなたにはもうすぐいんかがさがる)

「それでも噂に聞くと、あなたにはもうすぐ允可がさがる

(そうではありませんか、それだけじょうたつすればじゅうぶんです。)

そうではありませんか、それだけ上達すれば充分です。

(あなたはからだがあまりおじょうぶではないのだから、)

あなたはからだがあまりお丈夫ではないのだから、

など

(こんどはすこしなぎなたでもおはじめなさるがよいでしょう」)

こんどはすこし薙刀でもおはじめなさるがよいでしょう」

(「はい」かよはそれいじょうなんというすべもなく、)

「はい」 加代はそれ以上なんと云うすべもなく、

(うなだれたままそっとかこうをまとめてたった。)

うなだれたままそっと歌稿をまとめて立った。

(なおてるがおしろからさがってきたのはもうすっかりくれてからのちだった。)

直輝がお城からさがって来たのはもうすっかり暮れてからのちだった。

(はんしゅかがのかみつなのりがざいこくちゅうで、)

藩主加賀守綱紀が在国ちゅうで、

(ずっとごようがおおいためげじょうはいつもおくれがちであった。)

ずっと御用が多いため下城はいつもおくれがちであった。

(ふろからあがり、しょくぜんにむかったかれは、つまのようすがあさとはかくべつ)

風呂からあがり、食膳にむかった彼は、妻のようすが朝とはかくべつ

(しょうすいしているのにきづいて、さくやねむっていない)

憔悴しているのに気づいて、昨夜ねむっていない

(ということをおもいだした、よをてっしたからといって)

ということを思いだした、夜を徹したからといって

(ぶけではそうむざとひるねをすることはできない、)

武家ではそうむざと昼寝をすることはできない、

(「はやくしんじょへはいるがよいな」そういって、)

「早く寝所へはいるがよいな」そう云って、

(かれはしょくごのちゃもはやくきりあげ、じぶんはしょさいへあかしをいれさせてたった。)

彼は食後の茶もはやくきりあげ、自分は書斎へ灯をいれさせて立った。

(しごにちはなにごともなくすぎたが、なおてるはやがてつまのようすが)

四五日はなにごともなく過ぎたが、直輝はやがて妻のようすが

(いつまでもしずんでみえるのにきづいた。)

いつまでも沈んでみえるのに気づいた。

(どこかわるいのではないかとたずねると、そんなことはないと)

どこか悪いのではないかとたずねると、そんなことはないと

(こたえてさびしげにほほえむだけだった。)

答えてさびしげに頬笑むだけだった。

(それであるよる、そっとつまのへやへいってみると、)

それである夜、そっと妻の部屋へいってみると、

(かよはともしのかげで、かこうをさきすてていた。)

加代は灯のかげで、歌稿を裂き捨てていた。

(「どうしたのだ」ふいにはいってきたおっとをみて、)

「どうしたのだ」 ふいにはいって来た良人をみて、

(かよはとりちらしたほごをあわてておしかくそうとした。)

加代はとりちらした反古を慌てて押し隠そうとした。

(「おまち、どうしてそんなことをするのだ」)

「お待ち、どうしてそんなことをするのだ」

(かよはだまってかなしげなめをあげ、すがるようにおっとをみあげた。)

加代はだまって悲しげな眼をあげ、すがるように良人を見あげた。

(なおてるはそのめをみてじじょうをりょうかいした。)

直輝はその眼をみて事情を了解した。

(「ははうえがおっしゃったのか」「はい」)

「母上が仰しゃったのか」「はい」

(「いってごらん、なんとおっしゃったのだ」)

「云ってごらん、なんと仰しゃったのだ」

(かよはなかなかいわなかったが、なおてるにうながされてようやく)

加代はなかなか云わなかったが、直輝にうながされてようやく

(さきのひのことをつげた。)

先の日のことを告げた。

(「わたくし、こんどこそやりとげてみたいとぞんじました。)

「わたくし、こんどこそやりとげてみたいと存じました。

(つづみのときも、ちゃのゆのときもそれほどではございませんでしたけれど、)

鼓のときも、茶の湯のときもそれほどではございませんでしたけれど、

(わかのみちだけはおくをきわめてみたいとぞんじておりました」)

和歌の道だけは奥をきわめてみたいと存じておりました」

(ことばがかんじょうのせきをきったように、かのじょにはめずらしく)

言葉が感情の堰を切ったように、彼女にはめずらしく

(じょうのねっしたちょうしでいった。)

情の熱した調子で云った。

(「かよはふつつかものでございますから、ははうえさまのおきにめすようには)

「加代はふつつか者でございますから、母上さまのお気に召すようには

(かいしょうもございませぬ、けれどもじぶんではできるかぎりを)

甲斐性もございませぬ、けれども自分ではできるかぎりを

(おつとめもうしているつもりでございます、からだがよわいため)

おつとめ申しているつもりでございます、からだが弱いため

(おこをもうけることもできませぬし、いろいろかんがえますとわたくし」)

お子をもうけることもできませぬし、いろいろ考えますとわたくし」

(「もうおやめ、それいじょうはわかっている」)

「もうおやめ、それ以上はわかっている」

(なおてるはやさしくさえぎった。)

直輝はやさしくさえぎった。

(「おまえがよいつまだということはははうえもよくごぞんじだ。)

「おまえがよい妻だということは母上もよくご存じだ。

(にせんごくのかせいをとりしきってゆくくしんがどれほどのものか、)

二千石の家政をとりしきってゆく苦心がどれほどのものか、

(わしにはわからないがははうえにはおわかりになる、)

わしにはわからないが母上にはおわかりになる、

(おまえほどのわかさでよくやってくれると)

おまえほどの若さでよくやってくれると

(おりにふれておっしゃっておいでだ、ただははうえのごきしょうが・・・」)

折にふれては仰しゃっておいでだ、ただ母上のご気性が・・・」

(いいかけてなおてるはふとくちをつぐんだ。)

云いかけて直輝はふと口をつぐんだ。

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