日本婦道記 春三たび 山本周五郎  ①

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伊緒は和地家に嫁いで間もないが、夫・伝四郎が戦に行くことになる。
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1 てんぷり 5110 B+ 5.3 96.2% 767.1 4080 160 89 2024/10/14

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問題文

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(「こんやはもみすりをかたづけてしまおう、いおもてをかしてくれ」)

「今夜は籾摺をかたづけてしまおう、伊緒も手をかして呉れ」

(ゆうしょくのあとだった、おっとからなにげなくそういわれると、)

夕食のあとだった、良人からなにげなくそう云われると、

(いおはなぜかしらにわかにむなさわぎのするのをおぼえ、)

伊緒はなぜかしらにわかに胸騒ぎのするのを覚え、

(おもわずおっとのめをみかえした。)

思わず良人の眼を見かえした。

(ゆうがたおしろからさがってきたのをでむかえたときにも、)

夕方お城からさがって来たのを出迎えたときにも、

(いつもはそこでたいけんだけをとってかのじょにわたすのに、)

いつもはそこで大剣だけをとってかの女にわたすのに、

(そのひにかぎってじぶんでもったままあがった、)

その日にかぎって自分で持ったままあがった、

(かおつきもなんとなくちがってみえたし、)

顔つきもなんとなく違ってみえたし、

(たかほのあたりにきびしいせんがあらわれているようにかんじられた。)

高頬のあたりにきびしい線があらわれているように感じられた。

(おしろでなにかあったのかしら、)

お城でなにかあったのかしら、

(そういうふあんがゆうしょくのあいだもあたまからさらなかった。)

そういう不安が夕食のあいだもあたまから去らなかった。

(そこへつねになくもみすりをてつだえといわれたので、)

そこへ常になく籾摺りを手つだえと云われたので、

(いよいよなにごとかあったのだとちょっかんされた。)

いよいよなにごとかあったのだと直感された。

(ぎていのいくのすけをけいこにおくりだし、)

義弟の郁之助を稽古におくりだし、

(しゅうとめのすぎじょとじぶんのしょくじをすませて、)

姑のすぎ女と自分の食事をすませて、

(あとかたづけもそこそこになやへゆくと、)

あとかたづけもそこそこに納屋へゆくと、

(おっとはもうひとりでいしうすをまわしていた。)

良人はもうひとりで臼うすをまわしていた。

(ともしあぶらのもゆるにおいと、だっこくするもみのこうばしいかおりとがまじりあって、)

燈油の燃ゆる匂いと、脱穀する籾の香ばしいかおりとがまじり合って、

(なやのなかはあまくむせっぽいにおいでいっぱいだった。)

納屋の中はあまくむせっぽい匂いでいっぱいだった。

(「おそくなりまして」といってすぐにたわらへかかろうとしたが、)

「おそくなりまして」と云ってすぐに俵へかかろうとしたが、

など

(でんしろうはうすをとめながら、)

伝四郎は臼をとめながら、

(「まあまて、すこしはなしたいことがある」とふりかえった。)

「まあ待て、少しはなしたいことがある」とふりかえった。

(「そのとをしめて、ここへきてかけよう」)

「その戸を閉めて、ここへ来てかけよう」

(じぶんからさきにわらたばをおきなおしてこしをかけ、いおにもせきをあたえた。)

自分からさきに藁束を置きなおして腰をかけ、伊緒にも席を与えた。

(ひくいてんじょうからつってあるともしざらのあかりが、)

低い天井から吊ってある燈皿のあかりが、

(じいじいとおとをたてながら、ふたりのうえからやわらかいひかりをなげていた。)

じいじいと音をたてながら、ふたりの上からやわらかい光をなげていた。

(「おまえもきいたであろう」)

「おまえも聞いたであろう」

(とでんしろうはひくいこえではなしだした、)

と伝四郎は低いこえで話しだした、

(「びぜんのくにあまくさにぼうとがらんをおこし、ないぜんのかみ(いたくらしげまさ)さま、)

「肥前のくに天草に暴徒が乱をおこし、内膳正(板倉重昌)さま、

(しょうげん(いしがやじゅうぞう)さまがせいとうぐんのたいしょうとしてしゅつじんなすった、)

将監(石谷十蔵)さまが征討軍の大将として出陣なすった、

(それはさるとおかのことだったが、)

それはさる十日のことだったが、

(このたびそうとくとしてまつだいらいずのかみ(のぶつな)さまと)

このたび総督として松平伊豆守(信綱)さまと

(われらがごしゅくん(とだうじかね)のおふたかたがごはっこうときまった。)

われらがご主君(戸田氏銕)のおふた方が御発向ときまった。

(きょうそのおししゃがえどおもてからとうちゃくし、すぐにじんぞろえがあったのだ」)

今日そのお使者が江戸おもてから到着し、すぐに陣ぞろえがあったのだ」

(「そのおともをあそばすのでございますね」)

「そのお供をあそばすのでございますね」

(いおはやっぱりよかんがあたったとおもい、われしらずこえをはずませた。)

伊緒はやっぱり予感が当ったと思い、われ知らず声をはずませた。

(でんしろうはうなずいて、「ばんがしらのかくべつのおはからいで、)

伝四郎はうなずいて、「番がしらの格別のおはからいで、

(るすにまわるべきところをおともがかなった、)

留守にまわるべきところをお供がかなった、

(よがたいへいとなり、もはやのぞみなしとおもっていたはれのせんじょうへでられる、)

世が泰平となり、もはや望みなしと思っていた晴れの戦場へ出られる、

(さむらいとしてのみょうがはもうすまでもない、)

さむらいとしての冥加は申すまでもない、

(おれはしんめいをすててぞんぶんにはたらくつもりだ、)

おれは身命を棄てて存分にはたらくつもりだ、

(そしてもしぶうんにめぐまれまんいちにもがいじんすることができたなら、)

そしてもし武運にめぐまれ万一にも凱陣することができたなら、

(かならずわちのかめいをあげ、おまえにもいくらかましなよをみせてやれるとおもう。)

必ず和地の家名をあげ、おまえにもいくらかましな世を見せてやれると思う。

(しかしいまのおれにはすこしもいきてかえるこころはない、)

しかし今のおれには少しも生きてかえる心はない、

(めざましくたたかってうちじにをするかくごだ、それについていお」)

めざましく戦って討死をするかくごだ、それについて伊緒」

(「・・・・・」「おまえにやくそくしてもらうことがある」)

「・・・・・」「おまえに約束してもらうことがある」

(いおはふあんげなめをあげておっとをふりあおいだ、)

伊緒は不安げな眼をあげて良人をふり仰いだ、

(でんしろうはつまのかおをじっとみまもりながら、)

伝四郎は妻の顔をじっと見まもりながら、

(「おまえはわちへかしてきてまださんじゅうにちにたらない、)

「おまえは和地へ嫁してきてまだ三十日に足らない、

(おれがうちじにしたら、そしてもしまだみごもっていなかったら、)

おれが討死したら、そしてもしまだ身籠っていなかったら、

(りべつしてじっかへもどってほしい、わちにはいくのすけというあととりがいる、)

離別して実家へもどってほしい、和地には郁之助という跡取りがいる、

(おまえがやもめをとおすいみはないのだ」)

おまえがやもめをとおす意味はないのだ」

(いおはかたくくちびるをつぐんだままじっときいている、)

伊緒はかたく唇をつぐんだままじっと聞いている、

(でんしろうはかんがえていることをてきかくにいいあらわすことばにくるしむようすで、)

伝四郎は考えていることを的確に云いあらわす言葉に苦しむようすで、

(ちょっとかたてをあげてうちはらった。)

ちょっと片手をあげてうち払った。

(「じふにまみえずということもあるが、)

「二夫にまみえずということもあるが、

(かめいをつぐもののいるいえに、むなしくいっしょうをうめるようはない、)

家名を継ぐ者のいる家に、むなしく一生を埋める要はない、

(みさおをまもるのもおんなのみちにはちがいないけれども、)

操をまもるのも女の道には違いないけれども、

(よきこをうんでよにだすことはもっとたいせつだ。)

よき子を生んで世に出すことはもっと大切だ。

(みさおをたてる、たてぬはそのかたちではなくこころざまにある、)

操をたてる、たてぬはそのかたちではなく心ざまにある、

(かたちにとらわれてみちのほんぎをうしなってはならない、)

かたちにとらわれて道の本義をうしなってはならない、

(うまくことばがつながらないけれども、おれのいうどうりはわかるだろう」)

うまく言葉がつながらないけれども、おれのいう道理はわかるだろう」

(はいといおはおっとをふりあおいだままうなずいた。)

はいと伊緒は良人をふり仰いだままうなずいた。

(きっとひとことでしょうちすまいとかんがえていたでんしろうは、)

きっと一言で承知すまいと考えていた伝四郎は、

(あまりすなおにつまがはいとうなずいたので、かえってうたがわしくなった。)

あまりすなおに妻がはいとうなずいたので、かえって疑わしくなった。

(「ほんとうにわかったのか、やくそくしてくれるか」)

「本当にわかったのか、約束して呉れるか」

(「・・・はい」)

「・・・はい」

(おやくそくいたしますといおはくちのうちでこたえた、)

お約束いたしますと伊緒は口のうちで答えた、

(すこしもくもりのないすんだまなざしだった。)

少しもくもりのない澄んだまなざしだった。

(でんしろうはいくらかあんどしたようすで、)

伝四郎はいくらか安堵したようすで、

(「それであんしんした、ははうえにもうしあげるまえに)

「それで安心した、母上に申上げる前に

(このことをやくそくしておきたかったのだ、)

このことを約束しておきたかったのだ、

(げんばどのへはきょうもどりがけにはなしてきたからな」)

玄蕃どのへは今日もどりがけに話してきたからな」

(「いつごしゅつじんでございますか」)

「いつ御出陣でございますか」

(「とのさまにはにじゅうしちにちにえどおもてをごしゅつばだそうだ、)

「殿さまには二十七日に江戸おもてを御出馬だそうだ、

(ここまでいつかとみて、ろくしちにちにはしゅつじんかとおもう」)

ここまで五日とみて、六七日には出陣かと思う」

(「ではもみすりなどよりそのごよういがさきでございます」)

「では籾摺りなどよりその御用意がさきでございます」

(「いやよういというほどのことはない、たち、やりひとすじ、)

「いや用意というほどのことはない、太刀、槍ひとすじ、

(ぐそくをだせばそれでよいのだ、それよりも」)

具足を出せばそれでよいのだ、それよりも」

(とでんしろうはひざをうってたちあがった、)

と伝四郎は膝を打って立ちあがった、

(「ごじょうのうのぶんだけでもかたづけておこう、)

「御上納の分だけでもかたづけて置こう、

(おれがでてしまうといろいろてぶそくになるからな」)

おれが出てしまうといろいろ手ぶそくになるからな」

(そしてふたたびいしうすをひきはじめた。)

そしてふたたび石臼をひきはじめた。

(いおはそばにいて、つつましくてだすけをしながら、)

伊緒はそばにいて、つつましく手だすけをしながら、

(ときどきそっとおっとのよこがおへめをあげた。)

ときどきそっと良人の横顔へ眼をあげた。

(するとおもながの、まゆのこい、しんのきつそうなおっとのかおが、)

すると面ながの、眉の濃い、しんのきつそうな良人の顔が、

(どういうわけかいまはじめてみるようにおもえ、)

どういうわけか今はじめて見るように思え、

(それがいかにもめおとのえんのあさいことをしょうこだてるようで)

それがいかにもめおとの縁の浅いことを証拠だてるようで

(たまらなくかなしかった、いしうすはごろごろとおもいおとをたててまわっていた。)

堪らなくかなしかった、石臼はごろごろと重い音をたてて廻っていた。

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