寒橋 山本周五郎 ②

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職人の時三と妻のお孝。娘夫婦に対する父親伊兵衛の気遣いとは。

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問題文

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(ほんじょろっけんぼりともりしたにまたがって、うえたつというおおきなうえきやがある。)

本所六間堀と森下にまたがって、植辰という大きな植木屋がある。

(そのころきくはそめいというのがいっぱんてきであったが、すうねんまえから)

そのころ菊は染井というのが一般的であったが、数年まえから

(うえたつでもりきみだして、いっしゅのふうかくあるかだんをつくっててんかんさせた。)

植辰でも力みだして、一種の風格ある花壇を作って展観させた。

(たいりんとかかわりざきとかけんがいなどの、じんこうのくわわったものはすくない、)

大輪とか変り咲きとか懸崖などの、人工の加わったものは少ない、

(ごくありきたりのしゅるいをごくたいまんにそだてたふうである。)

ごくありきたりの種類をごく怠慢にそだてたふうである。

(そのほうめんにめのないものはたしょうしつぼうした。できそくないだなどと)

その方面に眼のない者は多少失望した。出来そくないだなどと

(ほうげんするものもあった。けれどもぶんじんがかくとかいくらかひねった)

放言する者もあった。けれども文人雅客とか幾らかひねった

(しゅこうをこのむひとびとは、つまりぐがんのしはかんぷくした。)

趣向を好む人々は、つまり具眼の士は感服した。

(ののふぜいですな、よくうつしましたな、どうもなんともいえぬ)

野のふぜいですな、よくうつしましたな、どうもなんとも云えぬ

(ふぜいですな。きくはこうつくるのがほんすじである、らんぎく、これがしぜんである、)

ふぜいですな。菊はこう作るのが本筋である、乱菊、これが自然である、

(そめいのなどはじゃどうであって、あれなどははなをかたわにしたものである、)

染井のなどは邪道であって、あれなどは花を片輪にしたものである、

(おれとしてはこれならのめる。きくをのむわけではない。)

おれとしてはこれなら飲める。菊を飲むわけではない。

(きくをさかなにしてさけをやろうというのである。)

菊をさかなにして酒をやろうというのである。

(そこでうえたつがわではかだんのようしょとおぼしきところどころへちゃみせをもうけた。)

そこで植辰がわでは花壇の要所とおぼしき処々へ茶店を設けた。

(そのうちによついつつこざしきのあるのもたて、そこではちょいとした)

そのうちに四つ五つ小座敷のあるのも建て、そこではちょいとした

(おんななどもいるし、きどったようなりょうりなどもできる。)

女などもいるし、きどったような料理などもできる。

(おこうはときぞうといっしょにそのちゃやのひとまをかりて、)

お孝は時三といっしょにその茶屋のひと間を借りて、

(もってきたじゅうばこをひらいたり、またそのいえのりょうりなどちゅうもんしたりして、)

持って来た重箱を開いたり、またその家の料理など注文したりして、

(ふたりできくをながめながらはんにちをすごした。)

二人で菊を眺めながら半日を過した。

(「あたしこのごろしぬのがこわくてしようがないの、)

「あたしこのごろ死ぬのがこわくてしようがないの、

など

(ねえ、あんたそうおもわなくって」「からだのぐあいでもわるいのか」)

ねえ、あんたそう思わなくって」「躯のぐあいでも悪いのか」

(「そうじゃないの、しねばあんたとわかれわかれにならなくちゃならない、)

「そうじゃないの、死ねばあんたと別れ別れにならなくちゃならない、

(かおもみられないしはなしもできなくなるわ、そうおもうとしぬのがこわくてこわくて、)

顔も見られないし話もできなくなるわ、そう思うと死ぬのがこわくてこわくて、

(むねのここらへんにかたいいしのようなものがつまってくるのよ」)

胸のここらへんに固い石のような物が詰ってくるのよ」

(「だっていつかは、そいつばかりはしようがないだろう」)

「だっていつかは、そいつばかりはしようがないだろう」

(「だからそうおもうの、いつかはしぬんだから、せめていきているあいだ、)

「だからそう思うの、いつかは死ぬんだから、せめて生きているあいだ、

(いきてこうしているあいだだけは、かみひとえのすきもないふうふでくらしたい、)

生きてこうしているあいだだけは、紙一重の隙もない夫婦でくらしたい、

(これまえのどのごふうふにもできなかったくらいに、)

これまでのどの御夫婦にもできなかったくらいに、

(あたしあんたにできるだけのことをするわ、ねえ」)

あたしあんたにできるだけのことをするわ、ねえ」

(おこうはおっとのひざをかたほうのてで、うえからつよくおしつけながら、)

お孝は良人の膝を片方の手で、上から強く押しつけながら、

(じっとながしめにみあげた。「みもこころもあんたのおもいのままよ、)

じっとながし眼に見あげた。「身も心もあんたの思いのままよ、

(あんたのためならどんなことでもしてあげてよ、ねえ、)

あんたのためならどんなことでもしてあげてよ、ねえ、

(だからあんたもいつまでもかわらないであたしをかわいがってね、)

だからあんたもいつまでも変らないであたしを可愛がってね、

(よそのひとにきをひかれたり、あたしにかくれてうわきなんか)

よそのひとに気をひかれたり、あたしに隠れて浮気なんか

(けっしてしないでね、ねえ、よくって」)

決してしないでね、ねえ、よくって」

(「わたしにはそんなはたらきはないらしい、だいいちせんぽうであいてにしないよ」)

「私にはそんなはたらきはないらしい、だいいち先方で相手にしないよ」

(「うそうそ、あんたにはおんなずきのするところがあるわ、)

「うそうそ、あんたにはおんな好きのするところがあるわ、

(あんたをみているとなにかせわをしたくなるの、)

あんたを見ているとなにか世話をしたくなるの、

(おとこぶりだけじゃなくひとがらがそうなんだわ、)

男ぶりだけじゃなくひとがらがそうなんだわ、

(おたみだってあんたをみるときのめつきはべつなんだもの」)

おたみだってあんたを見るときの眼つきはべつなんだもの」

(「ばかなことを」ときぞうはまゆをしかめ、かおをそむけた。)

「ばかなことを」 時三は眉をしかめ、顔をそむけた。

(「あらほんとうよ、まきちょうにいたじぶんだって、)

「あら本当よ、槇町にいたじぶんだって、

(きんじょのむすめさんたちにさわがれたってことしってるわ、)

近所の娘さんたちに騒がれたってこと知ってるわ、

(うたざわのおししょうさんのことだって、いやよあたし、これからもし)

歌沢のお師匠さんのことだって、いやよあたし、これからもし

(そんなことがあったらあたしいきちゃいないわ、ねえ、いいこと」)

そんなことがあったらあたし生きちゃいないわ、ねえ、いいこと」

(「いったいどうしたんだ、きょうは」)

「いったいどうしたんだ、今日は」

(ときぞうはこんどはふしんそうにおこうをみた。)

時三はこんどは不審そうにお孝を見た。

(「へんなことばかりいって、ほんとうにどこかぐあいでもわるいんじゃないのか」)

「へんなことばかり云って、本当にどこかぐあいでも悪いんじゃないのか」

(「ぐあいなんかわるくはないわ、それにちっともへんなことなんて)

「ぐあいなんか悪くはないわ、それにちっともへんなことなんて

(いやしなくってよ、あんたにはあたしのきもちがわからないから)

云やしなくってよ、あんたにはあたしの気持がわからないから

(そんなふうにきこえるんだわ、そうよ、あたしのことなんて、)

そんなふうに聞えるんだわ、そうよ、あたしのことなんて、

(あんたはちっともおもってくれてやしないんだわ」)

あんたはちっとも思って呉れてやしないんだわ」

(「ばかなことばかりいって、わけがわからない」)

「ばかなことばかり云って、わけがわからない」

(こういいかけるまにおこうはたもとでかおをおさえて、)

こう云いかけるまにお孝は袂で顔を押えて、

(ときぞうのひざへなきふしてしまった。もちろんかなしいのではない、)

時三の膝へ泣き伏してしまった。もちろん悲しいのではない、

(むやみにせつないようなもどかしいようなきもちで、ないてしまうよりほかに)

むやみに切ないようなもどかしいような気持で、泣いてしまうよりほかに

(じぶんでじぶんのしまつがつかなかったのである。)

自分で自分の始末がつかなかったのである。

(けっこんしてからやくはんとしめのそのひが、おこうのきもちにかなりはっきりと)

結婚してから約半年めのその日が、お孝の気持にかなりはっきりと

(いっしゅのてんきをあたえた。それはおっとがじぶんにとってぜったいに)

一種の転機を与えた。それは良人が自分にとって絶対に

(かけがえのないひとだということ、もしおっとがよそのおんなにこころを)

かけがえのないひとだということ、もし良人がよその女に心を

(うつしでもしたら、ほんとうにじぶんはしんでしまうだろうということであった。)

うつしでもしたら、本当に自分は死んでしまうだろうということであった。

(けっこんしたおんなならそうおもわないものはないだろう、ごくふへんてきなかんじょうであるが、)

結婚した女ならそう思わない者はないだろう、ごく普遍的な感情であるが、

(おこうのばあいはそれがややきょくたんであった。)

お孝のばあいはそれがやや極端であった。

(したまちそだちはいったいにませるものだが、おこうはめずらしいくらいおくで、)

下町そだちはいったいにませるものだが、お孝は珍しいくらいおくで、

(そのとしのさんがつ、はたちでときぞうをむかえるまで、おとこなどに)

その年の三月、二十歳で時三を迎えるまで、男などに

(きをひかれたおぼえはほとんどなかった。)

気をひかれた覚えは殆んどなかった。

(いえはさんだいつづいたふくろものしょうで、うねめちょうの「たむら」といえばいちりゅうのみせでとおっていた。)

家は三代続いた袋物商で、采女町の「田村」といえば一流の店でとおっていた。

(たむらからでてみせをもったものがしちけんあり、)

田村から出て店を持ったものが七軒あり、

(これをたなうちといって、しんるいどうようにでいりしているが、)

これをたなうちといって、親類同様にでいりしているが、

(このひとたちがはやくからおこうにえんだんをもちだしてきた。)

この人たちがはやくからお孝に縁談をもちだしてきた。

(それはおこうがひとりむすめだからどうせむこをとらなければならない、)

それはお孝がひとり娘だからどうせ婿を取らなければならない、

(「ほんだな」がおちつかないとたなうちもあんしんできないというこうしきろんであった。)

「本店」がおちつかないとたなうちも安心できないという公式論であった。

(そのうらには「ほんだな」をめぐるしんるいやたなうちの、)

その裏には「本店」をめぐる親類やたなうちの、

(いっしゅのきょうそうのようなものもあったらしいが、)

一種の競争のようなものもあったらしいが、

(それはべつとして、おこうもうすうすかんじていたのは、)

それはべつとして、お孝もうすうす感じていたのは、

(ちちおやのいへえのもんだいであった。)

父親の伊兵衛の問題であった。

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