寒橋 山本周五郎 ③

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職人の時三と妻のお孝。娘夫婦に対する父親伊兵衛の気遣いとは。

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(おこうのはははいねといって、おこうのここのつのとしになくなったが、)

お孝の母はいねといって、お孝の九つの年に亡くなったが、

(いえつきのむすめで、いへえはみせでそだってむこになおったのである。)

家つきの娘で、伊兵衛は店で育って婿になおったのである。

(いねはおこうよりずっときりょうよしだった。)

いねはお孝よりずっと縹緻よしだった。

(なにがしとかいうえぞうしやが、いちまいえにしたいといって)

なにがしとかいう絵草紙屋が、一枚絵にしたいと云って

(こうしょうにきたこともあるそうで、これはもちろんしゃぜつしたが、)

交渉に来たこともあるそうで、これはもちろん謝絶したが、

(そのくらいきれいだったかわりにからだがよわく、いしゃのでいりの)

そのくらいきれいだった代りに躯が弱く、医者のでいりの

(たえることがなかった。そんなところから、きしょうのしれたおんわな、)

絶えることがなかった。そんなところから、気性の知れた温和な、

(さけもたばこものめないいへえがえらばれたものらしい。)

酒も煙草ものめない伊兵衛が選ばれたものらしい。

(よそうどおりいへえはいいおっとだった。)

予想どおり伊兵衛はいい良人だった。

(いねはおこうをうんでからいちねんのはんぶんはねているというふうで、)

いねはお孝を産んでから一年の半分は寝ているというふうで、

(おだわらちょうのおおかわにちかいこのいえも、かのじょのりょうようのためにたてられたものであるが、)

小田原町の大川に近いこの家も、彼女の療養のために建てられたものであるが、

(いへえはそのおだわらちょうのいえとみせとをおうふくするいがいには、)

伊兵衛はその小田原町の家と店とを往復する以外には、

(よこちょうへもまがらないというくらいに、ちゅうじつにつまにつかえとおした。)

横丁へも曲らないというくらいに、忠実に妻に仕えとおした。

(つまがなくなってから、とうぜんあとのはなしがいろいろでた。)

妻が亡くなってから、当然あとのはなしがいろいろ出た。

(しかしいへえはにゅうわにうけながすばかりで、)

しかし伊兵衛は柔和にうけながすばかりで、

(どうしてもあとをもらおうとはしなかった。)

どうしてもあとを貰おうとはしなかった。

(おこうにはやくむこをとらせようという、しゅういのひとたちのきもちには、)

お孝にはやく婿を取らせようという、周囲の人たちの気持には、

(そうしたあとでいへえをいんきょさせ、しかるべきのちぞえをもたせようという、)

そうしたあとで伊兵衛を隠居させ、しかるべきのちぞえを持たせようという、

(ふくみがあったのである。ねえおとっつぁん、どうして)

含みがあったのである。ねえお父つぁん、どうして

(おっかさんをもらわないの、ねえ、おっかさんもらってよ。)

おっ母さんを貰わないの、ねえ、おっ母さん貰ってよ。

など

(じゅうにさんのおこうはそんなことをよくいった。)

十二三のお孝はそんなことをよく云った。

(それからしばらくたつと、ときわづやおはりのけいこへいって、)

それから暫く経つと、常磐津やお針の稽古へいって、

(そこできくせけんばなしが、しばしばだんじょかんのえんぶんにぞくし、)

そこで聞く世間ばなしが、しばしば男女間の艶聞に属し、

(ことにおとこというものがうわきであくしょうだというていせつになっていることをしり、)

ことに男というものが浮気で悪性だという定説になっていることを知り、

(こんどはちちおやにたいするふしんとぎわくにくるしめられた。)

こんどは父親に対する不信と疑惑に苦しめられた。

(いへえはそのぜんごからつりどうらくをおぼえて、)

伊兵衛はその前後から釣り道楽をおぼえて、

(ときどきよづりなどにいってあさかえることがあった。)

ときどき夜釣りなどにいって朝帰ることがあった。

(そんなときおこうはあてすいりょうで、ちちおやがよそにあいじんをかこっていて、)

そんなときお孝はあて推量で、父親がよそに愛人をかこっていて、

(そのひとのところへとまりにゆくにちがいないとおもい、)

その人のところへ泊りにゆくに違いないと思い、

(むねがはんぶんにちぢまるような、こきゅうこんなんにちかいくるしいきもちにおそわれるのであった。)

胸が半分に縮まるような、呼吸困難に近い苦しい気持におそわれるのであった。

(ねえ、ほんとうにつりにいったの、よそへとまったんじゃないの、)

ねえ、本当に釣りにいったの、よそへ泊ったんじゃないの、

(ねえ、ほんとうにつりにいったの。こんなぐあいにうるさくいって、)

ねえ、本当に釣りにいったの。こんなぐあいにうるさく云って、

(しまいにはいっしょについていったこともいくたびかあった。)

しまいにはいっしょに付いていったことも幾たびかあった。

(いへえはそのころからおこうとおだわらちょうのいえへうつり、)

伊兵衛はその頃からお孝と小田原町の家へ移り、

(めしたきのろうばとじょちゅうをつかって、おやこふたりさしむかいのせいかつをはじめた。)

飯炊きの老婆と女中を使って、父娘二人さし向いの生活を始めた。

(つまとむすめとがこうたいしたかたちである。)

妻と娘とが交代したかたちである。

(みせとおだわらちょうとをおうふくするほかには、やっぱりよこちょうへも)

店と小田原町とを往復するほかには、やっぱり横丁へも

(まがらないといったふうで、よづりもちかくのさむさばしのあたりでまんぞくした。)

曲らないといったふうで、夜釣りも近くの寒橋のあたりで満足した。

(さむさばしというのはおだわらちょうからつきじあかしちょうへわたしたもので、)

寒橋というのは小田原町から築地明石町へ渡したもので、

(きょうばしぼりとけんとうぼりがおおかわへおちるおちくちにあった。)

京橋堀と見当堀が大川へおちるおちくちにあった。

(みぎわにおおきないしのごろごろした、ふきさらしの、)

汀に大きな石のごろごろした、吹きさらしの、

(「さむさばし」というぞくしょうのぴったりするけいかんである。)

「さむさ橋」という俗称のぴったりする観景である。

(いへえはそこでつりをした。さむいきせつにはぬのこをかさねたうえから)

伊兵衛はそこで釣りをした。寒い季節には布子を重ねたうえから

(らしゃのふるいみちゆきをきて、もうろくずきんをかぶって、)

羅紗の古いみちゆきを着て、もうろく頭巾をかぶって、

(くずれたいしがきのうえにつくねんといとをたれている。)

崩れた石垣の上につくねんと糸を垂れている。

(おこうはそんなかっこうをしばしばみにいった。)

お孝はそんな恰好をしばしば見にいった。

(いえからちかいので、ねむれないときなどは、あついゆちゃをもってゆき、)

家から近いので、眠れないときなどは、熱い湯茶を持ってゆき、

(ちちのそばにみをかがめて、くらいおおかわのみずをながめながら、)

父のそばに身をかがめて、暗い大川の水を眺めながら、

(ながいことときをすごすこともあった。からだのぐあいのいいときには、)

ながいこと時を過すこともあった。躯のぐあいのいいときには、

(おっかさんもちゃやべんとうをもってきてくれたもんだ。)

おっ母さんも茶や弁当を持って来て呉れたもんだ。

(いへえはときにそんなはなしもした。)

伊兵衛はときにそんな話もした。

(めぐろからきたおとりというじょちゅうがいて、それにもたせてくるんだが、)

目黒から来たおとりという女中がいて、それに持たせて来るんだが、

(おまえがいまそうしているそこんところにかがんで、いつまでも)

おまえが今そうしているそこんところにかがんで、いつまでも

(わたしのつるのをみている、おとりはねむいさかりだからめいわくなはなしだ、)

私の釣るのを見ている、おとりは眠いさかりだから迷惑なはなしだ、

(よくいねむりをしたっけ、そうするとおっかさんもわらいながら、)

よくいねむりをしたっけ、そうするとおっ母さんも笑いながら、

(しかたなしにかえってゆくんだが、そのわらいごえがまだみみに)

しかたなしに帰ってゆくんだが、その笑い声がまだ耳に

(のこっているようだ。おこうにもそのようすがみえるようだった。)

のこっているようだ。お孝にもそのようすが見えるようだった。

(びょうじゃくなははとおんわでじっちょくなちちとの、たがいにいたわりをこめた)

病弱な母と温和で実直な父との、互いにいたわりをこめた

(しずかなあいじょう、しょとうのやわらかいひざしのような、)

静かな愛情、初冬のやわらかい日ざしのような、

(とうめいなあたたかいあいじょう、それがおこうにだんだんとわかってきた。)

透明な暖かい愛情、それがお孝にだんだんとわかってきた。

(おとっつぁんがあとをもらわないのも、よそにすきなひとをつくったり、)

お父つぁんがあとを貰わないのも、よそに好きな人をつくったり、

(うわきをしたりしないのも、なくなったおっかさんがわすれられないからだ、)

浮気をしたりしないのも、亡くなったおっ母さんが忘れられないからだ、

(ふたりはそんなにもあいしあっていたんだ。)

二人はそんなにも愛しあっていたんだ。

(おこうはそうおもった。せけんではおとこはうわきであくしょうとていせつになっている、)

お孝はそう思った。世間では男は浮気で悪性と定説になっている、

(そういうじじつもみたりきいたりする。)

そういう事実も見たり聞いたりする。

(ちちのようなひとはおそらくまれだろう、とすればおとこなんていやらしい、)

父のような人はおそらく稀だろう、とすれば男なんていやらしい、

(どんなことがあってもけっこんなんかしない。)

どんなことがあっても結婚なんかしない。

(こんなふうにひとつのしんじょうさえもつようになった。)

こんなふうに一つの信条さえもつようになった。

(からだのほうもはついくがおそかったらしいが、)

躯のほうも発育がおそかったらしいが、

(ちちおやのほかにはおとこなどまっぴらというきもちだった。)

父親のほかには男などまっぴらという気持だった。

(けっこんしてはんとしめぐらいからの、おっとにたいするはげしいあいちゃくしんは、)

結婚して半年めぐらいからの、良人に対する激しい愛着心は、

(うがっていえばそのはんどうでもあろう、はついくのおくれていたからだやこころが、)

うがって云えばその反動でもあろう、発育のおくれていた躯や心が、

(にわかにいきいきとせいちょうしはじめたためもあろう。)

にわかに生き生きと成長し始めたためもあろう。

(いずれにせよ、おとことおんなのあいじょうというものが、みをやくようにたのしく、)

いずれにせよ、男と女の愛情というものが、身を灼くように楽しく、

(いちめんにはこんなにくるしくかなしいものかということを、)

一面にはこんなに苦しく哀しいものかということを、

(おこうもじぶんでたいけんするじきになったのである。)

お孝も自分で体験する時期になったのである。

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