ちくしょう谷 ①
そこには兄の仇の西沢半四郎がいた。
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問題文
(あさだはやとがえどからかえるとすぐに、こいけたてわきがたずねてきた。)
朝田隼人が江戸から帰るとすぐに、小池帯刀が訪ねて来た。
(「こんどのことはまことにきのどくだ」とたてわきはあいさつのあとでいった、)
「こんどの事はまことに気の毒だ」と帯刀は挨拶のあとで云った、
(「しかしおりべどのとにしざわとのはたしあいは、さいとうまたべえのたちあいでおこなわれ、)
「しかし織部どのと西沢とのはたしあいは、斎藤又兵衛の立会いでおこなわれ、
(せいとうなものとみとめられたし、にしざわはさんねんかんのきどづめに)
正当なものと認められたし、西沢は三年間の木戸詰に
(おおせつけられてやまへいった、ことははっきりしまつがついたのだから、)
仰せつけられて山へいった、事ははっきり始末がついたのだから、
(どうかさわぎをおこすようなことはしないでくれ」)
どうか騒ぎを起こすようなことはしないでくれ」
(はやとはふしめのままだまっていた。)
隼人は伏し眼のまま黙っていた。
(「たんごさまそうどうがおさまってごねんにしかならない」とたてわきはまたいった、)
「丹後さま騒動がおさまって五年にしかならない」と帯刀はまた云った、
(「それもほんとうにへいせいをとりもどしたのは、たんごさまのなくなったきょねんからだ、)
「それも本当に平静をとりもどしたのは、丹後さまの亡くなった去年からだ、
(そこをよくかんがえて、かちゅうぜんたいのためにかんにんしてくれ」)
そこをよく考えて、家中ぜんたいのために堪忍してくれ」
(はやとがしずかにめをあげた、「はたしあいのあったのは、)
隼人が静かに眼をあげた、「はたしあいのあったのは、
(ろくがつじゅうしちにちだったそうだな」「じゅうしちにちのごご、きたのばばでだ」)
六月十七日だったそうだな」「十七日の午後、北の馬場でだ」
(「おれはえどであにからてがみをもらったが、そのひづけはろくがつじゅうににちになっていた」)
「おれは江戸で兄から手紙をもらったが、その日付は六月十二日になっていた」
(たてわきがきいた、「どういうてがみだ」)
帯刀が訊いた、「どういう手紙だ」
(「おれはさわぎをおこすつもりはない」「こんどのことにかんけいのあるてがみか」)
「おれは騒ぎを起こすつもりはない」「こんどの事に関係のある手紙か」
(「それはにどときかないでくれ」とはやとがいった、)
「それは二度と訊かないでくれ」と隼人が云った、
(「これからはこうけんとして、おいのしょういちろうをそだててゆかなければならない、)
「これからは後見として、甥の小一郎を育ててゆかなければならない、
(それがせめてものあにへのくようだとおもう」)
それがせめてもの兄への供養だと思う」
(たてわきはうなずいた、「どうかそうあってもらいたい、)
帯刀は頷いた、「どうかそうあってもらいたい、
(わかってくれてありがとう」はやとはだまってえしゃくをかえした。)
わかってくれてありがとう」隼人は黙って会釈を返した。
(あにのおりべのしはえどできいた。あにはかんじょうぶぎょうをつとめていたが、)
兄の織部の死は江戸で聞いた。兄は勘定奉行を勤めていたが、
(ぶかのにしざわはんしろうというものとけっとうをしてそくしした。)
部下の西沢半四郎という者と決闘をして即死した。
(なんどがたのさいとうまたべえというものがたちあいにんで、)
納戸方の斎藤又兵衛という者が立会い人で、
(にしざわとともによだたきさぶろうになのってで、ありのままにじじつをもうしのべた。)
西沢と共に与田滝三郎になのって出、ありのままに事実を申し述べた。
(よだはちゅうろうのひっとうで、すぐこいけたてわきにれんらくし、)
与田は中老の筆頭で、すぐ小池帯刀に連絡し、
(きたのばばへいってげんばのけんしをし、おりべのいたいをあさだけへはこんだうえ、)
北の馬場へいって現場の検視をし、織部の遺躰を朝田家へ運んだうえ、
(つまのきいじょにしさいをつげた。いたいにはつききずがにかしょあり、)
妻のきい女に仔細を告げた。遺躰には突き傷が二カ所あり、
(そのひとつがしんぞうをつらぬいていた。このはんでは、たちあいにんのついたけっとうは)
その一が心臓を貫いていた。この藩では、立会い人の付いた決闘は
(せいとうなものとみとめられており、たとえししゃがでても、)
正当なものと認められており、たとえ死者が出ても、
(ほうてきにつみにとわれることはなかった。ただしこのばあいにはおりべがおんわなせいかくで、)
法的に罪に問われることはなかった。但しこの場合には織部が温和な性格で、
(これまでひととあらそったれいがほとんどなく、ちゆうのあいだで)
これまで人と争った例が殆んどなく、知友のあいだで
(もっともしんらいされていたため、どうしてけっとうなどをしたかという)
もっとも信頼されていたため、どうして決闘などをしたかという
(そのげんいんがうたがわれた。とうのにしざわはじんもんにたいして、)
その原因が疑われた。当の西沢は訊問に対して、
(さむらいのいちぶんがたたないからけっとうしたのであり、)
侍のいちぶんが立たないから決闘したのであり、
(りゆうはこじんのめいよにかかわるからいえない、とこたえるだけであった。)
理由は故人の名誉にかかわるから云えない、と答えるだけであった。
(またさいとうまたべえは、ふたりにたのまれてやむなくたちあいにんになったので、)
また斎藤又兵衛は、二人に頼まれてやむなく立会い人になったので、
(けっとうのりゆうはなにもしらない、ということであった。)
決闘の理由はなにも知らない、ということであった。
(こじんのめいよにかかわるからいえない。)
故人の名誉にかかわるから云えない。
(にしざわはんしろうはそうこたえたが、おりべのこうにんをめいぜられたのぐちすけざえもんは、)
西沢半四郎はそう答えたが、織部の後任を命ぜられた野口助左衛門は、
(じむひきつぎにあたってちょうぼのふせいそうさをはっけんし、すいとうかいけいからごひゃくりょうちかいかねが、)
事務引継ぎに当って帳簿の不正操作を発見し、出納会計から五百両ちかい金が、
(おりべのいんばんによってひきだされていることをつきとめた。)
織部の印判によって引出されていることをつきとめた。
(そこで、よだたきさぶろうはにしざわをよびだしたうえ、けっとうのりゆうがそのてんに)
そこで、与田滝三郎は西沢を呼び出したうえ、決闘の理由がその点に
(あったのかどうか、とじんもんしたところ、にしざわはやはりへんとうをこばみ、)
あったのかどうか、と訊問したところ、西沢はやはり返答を拒み、
(「じぶんとしてはこじんのめいよのためになにもいえない」といいはった。)
「自分としては故人の名誉のためになにも云えない」と云い張った。
(あさだけはおおめつけによってちょうさされ、こじんのつまきいや、かし、)
朝田家は大目付によって調査され、故人の妻きいや、家士、
(めしつかいたちもじんもんされた。しかしごひゃくりょうというきんがくがいかにつかわれたか、)
召使たちも訊問された。しかし五百両という金額がいかに使われたか、
(ということはついにわからず、ろうしんきょうぎのけっか、)
ということはついにわからず、老臣協議の結果、
(「かろくをはんげんしてへんさいにあてる」ということになった。)
「家禄を半減して返済に当てる」ということになった。
(これはおりべのひとがらと、それまでのつとめぶりをこうりょされたかんだいなさたで、)
これは織部の人柄と、それまでの勤めぶりを考慮された寛大な沙汰で、
(ほんらいならいぞくはかいえきついほうをまぬかれなかったであろう。)
本来なら遺族は改易追放をまぬかれなかったであろう。
(いじょうのことをはやとはえどでしった。そしておりべのいじ、)
以上のことを隼人は江戸で知った。そして織部の遺児、
(しょういちろうのうしろみをするようにと、きこくをめいぜられたのであった。)
小一郎のうしろみをするようにと、帰国を命ぜられたのであった。
(あさだのかろくはにひゃくさんじゅっこくで、やくりょうともにひゃくごじゅっこくだったが、)
朝田の家禄は二百三十石で、役料とも二百五十石だったが、
(やくりょうはかろくではないから、はんげんというとひゃくじゅっこくになる。)
役料は家禄ではないから、半減というと百十石になる。
(そのころべいかはこめいっぴょう(よんとよんしょう)がいちぶとろくじゅうもんめからしちはちじゅうもんめに)
そのころ米価は米一俵(四斗四升)が一分と六十匁から七八十匁に
(あたっていたので、ごひゃくりょうをへんさいするには、がいさんしてやくはちねんちかくかかる。)
当っていたので、五百両を返済するには、概算して約八年ちかくかかる。
(べいかはとしによってこうていがあるけれども、はちねんよりはやくすむ)
米価は年によって高低があるけれども、八年より早く済む
(というのぞみはまずなかった。さいわいじゅうきょはそのままでよいことになったものの、)
という望みはまずなかった。幸い住居はそのままでよいことになったものの、
(かし、めしつかいたちはへらさなければならない。)
家士、召使たちは減らさなければならない。
(かしはむらいかんべえというろうじんふさい、めしつかいはげじょひとりにしたので、)
家士は村井勘兵衛という老人夫妻、召使は下女一人にしたので、
(いえやにわのそうじだけでもなかなかてがまわりかねる。)
家や庭の掃除だけでもなかなか手がまわりかねる。
(めしつかいはふたりにしてもいいだろうと、はやとはすすめたが、)
召使は二人にしてもいいだろうと、隼人はすすめたが、
(きいはすこしでもせつやくしてへんさいにあてたいから、といってきかなかった。)
きいは少しでも節約して返済に当てたいから、と云ってきかなかった。
(べつむねのながやにいたむらいふさいをおもやへうつし、)
別棟の長屋にいた村井夫妻を母家へ移し、
(かれらのあとへはやとがはいった。あによめのきいがにじゅうごさい、)
かれらのあとへ隼人がはいった。あによめのきいが二十五歳、
(かれはにじゅうななさいなので、おなじおくないにすむことをさけたのである。)
彼は二十七歳なので、同じ屋内に住むことを避けたのである。
(あによめのきいはこいけたてわきのいもうとにあたり、じゅうななさいであさだへかしてきた。)
あによめのきいは小池帯刀の妹に当り、十七歳で朝田へ嫁して来た。
(はやととはおさないころからしっていたため、いまさらそんな)
隼人とは幼いころから知っていたため、いまさらそんな
(ぎょうぎにこだわるひつようはないとおもったが、はやとにはそのとしのはる、)
行儀にこだわる必要はないと思ったが、隼人にはその年の春、
(うめはらけのじじょとこんやくのないだんがあったので、)
梅原家の二女と婚約の内談があったので、
(そちらへえんりょしているのかもしれないとかんがえた。)
そちらへ遠慮しているのかもしれないと考えた。
(くがつにはいるとまもなく、たてわきのほんそうによってはやとはににんぶちで)
九月にはいるとまもなく、帯刀の奔走によって隼人は二人扶持で
(はんこうのけんどうじょきょうのせきがあたえられた。かれはもとそのどうじょうでじょきょうをつとめていたが、)
藩校の剣道助教の席が与えられた。彼はもとその道場で助教を勤めていたが、
(きょうとうのこうにんとなるため、やぎゅうけからめんきょをとることになり、)
教頭の後任となるため、柳生家から免許を取ることになり、
(にねんのよていでえどやしきへいっていたもので、あにのしによって)
二年の予定で江戸屋敷へいっていたもので、兄の死によって
(めんきょはとれなかったがきょうじゅのうではじゅうぶんにあった。)
免許は取れなかったが教授の腕は充分にあった。
(こうして、はやとのくにもとでのせいかつがはじまった。)
こうして、隼人の国許での生活が始まった。
(あさよじにきしょう、ろくじにはんこうのどうじょうへでる。けいこはごぜんちゅうでおわるが、)
朝四時に起床、六時に藩校の道場へ出る。稽古は午前ちゅうで終るが、
(とくにきぼうするものたちをごごさんじまでおしえ、ごごごじにたいしゅつする。)
特に希望する者たちを午後三時まで教え、午後五時に退出する。
(どうじょうはおおてもんのそとにあり、きたやしきにあるあさだけとは)
道場は大手門の外にあり、北屋敷にある朝田家とは
(やくじゅっちょうしかはなれていないので、おうふくにひまをとられることはなく、)
約十町しかはなれていないので、往復にひまをとられることはなく、
(かえるとすぐ、ゆうしょくまでおいのしょういちろうにそどくをおしえた。)
帰るとすぐ、夕食まで甥の小一郎に素読を教えた。