ちくしょう谷 16
そこには兄の仇の西沢半四郎がいた。
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問題文
(「ごさいじょはいつごろなくなられたのです」「はちねんになりますかな、あのぼちの、)
「御妻女はいつごろ亡くなられたのです」「八年になりますかな、あの墓地の、
(むすめのそばへうめてやりました、わたしもやがてそこへうめてもらうつもりです」)
娘の側へ埋めてやりました、私もやがてそこへ埋めてもらうつもりです」
(はやとはろうじんをみていった、「あやというあのむすめだけは、まだけいこを)
隼人は老人を見て云った、「あやというあの娘だけは、まだ稽古を
(つづけているといわれましたね」しょうないろうじんはじっとはやとのめをみかえした。)
続けていると云われましたね」正内老人はじっと隼人の眼を見返した。
(「くどいようですが」とろうじんはいった、「わたしのけいけんしたことと、)
「くどいようですが」と老人は云った、「私の経験したことと、
(ここがちくしょうだにとよばれていることを、おわすれにならないでください」)
ここがちくしょう谷と呼ばれていることを、お忘れにならないで下さい」
(はやとはにさんのことをたのんで、まもなくろうじんにわかれをつげた。)
隼人は二三のことを頼んで、まもなく老人に別れを告げた。
(みちへでるとおかむらしちろうべえがまってい、はやとはむらをみまわってから、きどへかえった。)
道へ出ると岡村七郎兵衛が待ってい、隼人は村を見廻ってから、木戸へ帰った。
(そのとちゅうで、しちろうべえが「ごんぱちはもどっているらしい」といった。)
その途中で、七郎兵衛が「権八は戻っているらしい」と云った。
(あやをおくっていったとき、あやのははおやからきいたのだそうで、)
あやを送っていったとき、あやの母親から聞いたのだそうで、
(おしむすめのいちが、ときどきよなかになにかもってでてゆく、)
唖者娘のいちが、ときどき夜なかになにか持って出てゆく、
(それがたべものらしいので、たぶんごんぱちのところへとどけるのだろう、)
それが喰べ物らしいので、たぶん権八のところへ届けるのだろう、
(ということであった。「それはおかしい」とはやとがいった、)
ということであった。「それはおかしい」と隼人が云った、
(「あのむすめはだれともしれぬおとこのこをみごもって、ごんぱちにむちでうたれたんだ、)
「あの娘は誰とも知れぬ男の子をみごもって、権八に鞭で打たれたんだ、
(それがごんぱちにたべものをとどけるだろうか」)
それが権八に喰べ物を届けるだろうか」
(「いくたびもいうようですが、わたしはきょねんのしちがつからきどにいます、)
「幾たびも云うようですが、私は去年の七月から木戸にいます、
(そのてんではあさださんよりせんぱいですからね」とおかむらはきどって、)
その点では朝田さんより先輩ですからね」と岡村は気取って、
(おもわせぶりなくちょうでいった、「ここでは、じょうしきでかんがえられるいがいのことなら、)
思わせぶりな口調で云った、「ここでは、常識で考えられる以外のことなら、
(どんなことでもおこりかねませんよ」)
どんなことでもおこりかねませんよ」
(「おれはいいせんぱいをもったらしいな」「ついでにいっておきましょう」)
「おれはいい先輩を持ったらしいな」「ついでに云っておきましょう」
(とおかむらがきゅうにまじめなかおでいった、「あやというむすめにきをつけてください」)
と岡村が急にまじめな顔で云った、「あやという娘に気をつけて下さい」
(はやとはたちどまってかれにふりむいた。)
隼人は立停って彼に振向いた。
(「なに、かくべつどうということはありません」おかむらはかたをゆりあげ、)
「なに、格別どうということはありません」岡村は肩をゆりあげ、
(こんどはとぼけたようにいった、「ただあのむすめが、たいそうあなたに)
こんどはとぼけたように云った、「ただあの娘が、たいそう貴方に
(ごしゅうしんであり、これはそうとうにきけんだということを」)
御執心であり、これは相当に危険だということを」
(「わかった」はやとはあるきだしながらさえぎった、)
「わかった」隼人は歩きだしながら遮った、
(「それはしょうないろうじんからよくきいたよ」)
「それは正内老人からよく聞いたよ」
(「わたしのほうがせんぱいだといいませんでしたか」)
「私のほうが先輩だと云いませんでしたか」
(「さきにはしりだしたものがかならずさきにつくときまってはいないようだ」)
「先に走りだした者が必ず先に着くときまってはいないようだ」
(とはやとがおだやかにこたえた、「しかし、ちゅうこくはよくおぼえておくよ」)
と隼人が穏やかに答えた、「しかし、忠告はよく覚えておくよ」
(おかむらしちろうべえはきどっていちゆうした。)
岡村七郎兵衛は気取って一揖した。
(それからふつかのち、しがつはつかに、そのとしはじめての「つきびん」をじょうかへやった。)
それから二日のち、四月二十日に、その年初めての「月便」を城下へやった。
(さいりょうはおのだいくろう、あしがるごにんとこものさんにんがきていのにんずうであった。)
宰領は小野大九郎、足軽五人と小者三人が規定の人数であった。
(あさよじにおきて、ろくじまでくみたちのけいこをはじめたが、)
朝四時に起きて、六時まで組み太刀の稽古を始めたが、
(きどのものはぜんぶけいこにでたし、どうやらこれはつづくようであった。)
木戸の者はぜんぶ稽古に出たし、どうやらこれは続くようであった。
(はやとはまた、よるのたちばんのきそくをつくった。ごごはちじからよあけまで、)
隼人はまた、夜の立番の規則をつくった。午後八時から夜明けまで、
(ばんしひとりとあしがるひとりがくみになり、いっこくこうたいでさくのなかをみまわるのである。)
番士一人と足軽一人が組みになり、一刻交代で柵の中を見廻るのである。
(ふしんなことがあったら、ちょくせつ「じぶんにしらせろ」とかたくめいじ、)
不審なことがあったら、直接「自分に知らせろ」と固く命じ、
(かれじしんもときどきみまわりにでた。)
彼自身もときどき見廻りに出た。
(しょうないろうじんにたのんでおいたもののひとつ、むらのげんざいのくわしいにんべつちょうがとどいた。)
正内老人に頼んでおいたものの一つ、村の現在の詳しい人別帳が届いた。
(それによると、かぞくのかずはにじゅういち、おとこにじゅうさんにん、おんなさんじゅうににんで、)
それによると、家族の数は二十一、男二十三人、女三十二人で、
(やくどころのきろくよりずっとすくなかった。なまえにもきろくにはないものがおおく、)
役所の記録よりずっと少なかった。名前にも記録にはないものが多く、
(「ごんぜ」とか、いちのおやの「ぶろう」とか、「せこじ」などというのがあり、)
「ごんぜ」とか、いちの親の「ぶろう」とか、「せこじ」などというのがあり、
(また「あたま」「はら」「しり」というよびなには、)
また「あたま」「はら」「しり」という呼び名には、
(いつのころかわからないが、さんにんのおとこがいっとうのしかをいとめてさんとうぶんした。)
いつのころかわからないが、三人の男が一頭の鹿を射止めて三等分した。
(そのときあたまをとったおとこが「あたま」とよばれ、どうをとったものが「はら」、)
そのとき頭を取った男が「あたま」と呼ばれ、胴を取った者が「はら」、
(おのほうをとったものが「しり」とよばれるようになった、)
尾のほうを取った者が「しり」と呼ばれるようになった、
(とろうじんがちゅうをくわえてあった。ごんぜは「あたま」であり、)
と老人が注を加えてあった。ごんぜは「あたま」であり、
(せこじは「はら」であるが、「しり」のいえはたえているという。)
せこじは「はら」であるが、「しり」の家は絶えているという。
(おとこはよんじゅうだいのものがふたり、ごじゅっさいいじょうのものがじゅういちにん、)
男は四十代の者が二人、五十歳以上の者が十一人、
(あとはこどもがじゅうにんで、わかものはひとりもいない。)
あとは小児が十人で、若者は一人もいない。
(おんなはおとこよりじゅうにんもおおいし、あかごからろうばまで)
女は男より十人も多いし、赤児から老婆まで
(ほぼかずがへいきんしてい、むすめとどくしんのおんなとがじゅうさんにんもあった。)
ほぼ数が平均してい、娘と独身の女とが十三人もあった。
(「ちえのおくれたものがおとこにふたり、おんなによにん」とはやとはよんだ、)
「知恵の遅れたものが男に二人、女に四人」と隼人は読んだ、
(「あしなえがおとこにさんにん、おんなにひとり、ろうあしゃがおんなにさんにん、)
「足萎えが男に三人、女に一人、ろう唖者が女に三人、
(もうじんがおとこにふたり、ごじゅうごにんのなかでふぐしゃがじゅうごにんもいるとは、ひどいものだな」)
盲人が男に二人、五十五人の中で不具者が十五人もいるとは、ひどいものだな」
(にんべつちょうをしたにおいたとき、はやとのかおにはふかいひろうのいろがあらわれていた。)
人別帳を下に置いたとき、隼人の顔には深い疲労の色があらわれていた。
(「つきびん」がきどへもどったのはいつかめのゆうがたであった。)
「月便」が木戸へ戻ったのは五日めの夕方であった。
(こちらからやったにんずうのほかに、じょうかからにをはこぶこものがじゅうごにんき、)
こちらから遣った人数のほかに、城下から荷を運ぶ小者が十五人来、
(これらはいちやだけきどへとまってじょうかへかえった。はやとはこいけたてわきにあてて)
これらは一夜だけ木戸へ泊って城下へ帰った。隼人は小池帯刀に宛てて
(てがみをたくしたが、にもつのなかにはたのんでやったがっき、こと、しのぶえ、)
手紙を託したが、荷物の中には頼んでやった楽器、琴、篠笛、
(しゃみせん、たいこなどがはいっていた。みんなけいこようのあんかなしなではあるが、)
三味線、太鼓などがはいっていた。みんな稽古用の安価な品ではあるが、
(そのにをといてひろげたとき、ばんしたちはふしんそうにあつまってきた。)
その荷を解いてひろげたとき、番士たちは不審そうに集まって来た。
(「どうなさるんですか」いぬいとうきちろうといういちばんわかいばんしが)
「どうなさるんですか」乾藤吉郎といういちばん若い番士が
(たのしそうにきいた、「みんなでけいこをしてがっそうでもするんでしょうか、)
たのしそうに訊いた、「みんなで稽古をして合奏でもするんでしょうか、
(わたしはちょっとならしゃみせんがひけますけれど」)
私はちょっとなら三味線が弾けますけれど」
(「それはいい」とはやとがいった、「そのうちひいてもらうとしよう」)
「それはいい」と隼人が云った、「そのうち弾いてもらうとしよう」
(「いつでもどうぞ」てをすりあわさないばかりのちょうしで、いぬいはねっしんにいった、)
「いつでもどうぞ」手を擦り合さないばかりの調子で、乾は熱心に云った、
(「じぶんではそれほどうまいとはおもいませんけれど、しんまちではすじがいいって)
「自分ではそれほどうまいとは思いませんけれど、新町では筋がいいって
(ひょうばんだったんです」「ばかだな、こいつ」とまつききゅうのすけがひくいこえでいった、)
評判だったんです」「ばかだな、こいつ」と松木久之助が低い声で云った、
(「しんまちがよいがたたってやまへきたんだろう、こりないやつだよ、おまえは」)
「新町がよいが祟って山へ来たんだろう、懲りないやつだよ、おまえは」
(「みんなにたのみがある」とはやとがいった、「じつはむらのものたちにこれを)
「みんなに頼みがある」と隼人が云った、「じつは村の者たちにこれを
(おしえたいんだ、わたしはなにもできない、ふえをちょっとならっただけで、)
教えたいんだ、私はなにもできない、笛をちょっと習っただけで、
(それもうたくちをしめすていどなんだ、いぬいはしゃみせんをひくそうだし、)
それも歌口を湿す程度なんだ、乾は三味線を弾くそうだし、
(ほかになにかやれるものがあったらたすけてもらいたいが、どうだろう」)
ほかになにかやれる者があったら助すけてもらいたいが、どうだろう」
(「わたしがことをちょっとやりました」とにしざわはんしろうがいった。)
「私が琴をちょっとやりました」と西沢半四郎が云った。
(はやとはにしざわをみた。にしざわをみるときの、あのいつものめつきで、)
隼人は西沢を見た。西沢を見るときの、あのいつもの眼つきで、
(それからしずかにそのめをそらせながらいった、)
それから静かにその眼をそらせながら云った、
(「ことはきまった、ほかにだれかいないか」「わたしはたいこもたたけます」)
「琴はきまった、ほかに誰かいないか」「私は太鼓も叩けます」
(といぬいがこたえた。みんながわらった。)
と乾が答えた。みんなが笑った。
(「あしがるのなかにふえのじょうずなおとこがいます」とおかむらしちろうべえがいった、)
「足軽の中に笛の上手な男がいます」と岡村七郎兵衛が云った、
(「いそべしょうざえもんといって、これはほんしきらしいですよ」)
「磯部庄左衛門といって、これは本式らしいですよ」
(「ではくみがしらにはなしておこう」はやとはうなずいていった、「くわしいことはむらのものと)
「では組頭に話しておこう」隼人は頷いて云った、「詳しいことは村の者と
(そうだんのうえできめるが、たぶんごようりんのしごとがすんでからになるとおもう」)
相談のうえできめるが、たぶん御用林の仕事が済んでからになると思う」
(そのときはたのむとはやとはいった。)
そのときは頼むと隼人は云った。