菊屋敷  山本周五郎 1

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学者の父を亡くした志保は、子供たちに手習いを教えている。
ある日署名のない恋文を受けとる。
そして妹の小松からある相談を持ちかけられる。

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問題文

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(しほはにわへおりてきくをきっていた。いつまでもさぎりのはれぬあさで、)

志保は庭へおりて菊を剪っていた。いつまでも狭霧のはれぬ朝で、

(みちをゆくうまのひずめのおとはきこえながら、ひともうまもおぼろにしかみえない。)

道をゆく馬の蹄の音は聞えながら、人も馬もおぼろにしか見えない。

(いけがきのすぐそとがわをながれているおがわのせせらぎも、どこかとおくから)

生垣のすぐ外がわを流れている小川のせせらぎも、どこか遠くから

(ひびいてくるようにねむたげである、つゆでしとどにてをぬらしながら、)

響いてくるように眠たげである、露でしとどに手を濡らしながら、

(きったはなをそろえていると、おかやがちかよってきてよびかけた。)

剪った花をそろえていると、お萱が近寄って来て呼びかけた。

(「おじょうさま、もうはちじでございます、おかみをおあげいたしましょう」)

「お嬢さま、もう八時でございます、お髪をおあげ致しましょう」

(「おやもうそんなじこくなの」しほはまゆをよせるようにしてそらをみあげた、)

「おやもうそんな時刻なの」志保は眉を寄せるようにして空を見あげた、

(「きりがふかいのでときのうつるのがわからなかった、それではすこしいそがなくてはね」)

「霧が深いので刻の移るのがわからなかった、それでは少し急がなくてはね」

(「おしたくはできておりますから」そういいながらおかやは、)

「お支度はできておりますから」そう云いながらお萱は、

(まじまじとしほのかおをみまもり、まあとかすかにこえをあげた、)

まじまじと志保の顔を見まもり、まあと微かに声をあげた、

(「たいそうけさはさえざえとしたおかおをしていらっしゃいますこと、)

「たいそう今朝は冴え冴えとしたお顔をしていらっしゃいますこと、

(なにかおうれしいことでもあるようでございますね」)

なにかお嬉しいことでもあるようでごさいますね」

(「そうかしら」しほはかたてをそっとほおにあてた、)

「そうかしら」志保は片手をそっと頬に当てた、

(「そういえばけさはなんだかよいことがあるようなきがして、)

「そういえば今朝はなんだかよいことがあるような気がして、

(そんなことがあるはずはないのだけれどね」)

そんなことがある筈はないのだけれどね」

(「そのようにおっしゃるものではございません、むしのしらせというものは)

「そのように仰しゃるものではございません、虫の知らせというものは

(あるものでございますよ、それにきょうはごめいにちでございますから、)

あるものでございますよ、それに今日は御命日でございますから、

(ほんとうになにかよいことがあるかもしれませんですよ」)

本当になにかよいことがあるかも知れませんですよ」

(そうねとわらいながら、しほははなをもっていえへあがった。)

そうねと笑いながら、志保は花を持って家へあがった。

(きょうはなきちちのきにちである。ちちのくろかわかずたみはまつもとはんしで)

今日は亡き父の忌日である。父の黒川一民は松本藩士で

など

(じゅかんをつとめていた。しゅしにこうがくをかねたどくとくのきょうじゅぶりをもってしられ、)

儒官を勤めていた。朱子に皇学を兼ねた独特の教授ぶりを以て知られ、

(はんのしていのほかにかなりとおくからもおしえをうけにくるものがあり、)

藩の子弟のほかにかなり遠くからも教を受けに来る者があり、

(それらはみな、じょうかのみなみになるこのかしわむらのべっしょのじゅくでおしえていてた。)

それらはみな、城下の南にあるこの栢村の別墅の塾で教えていた。

(かずたみがしんだのはにねんまえのことだった。ふこうにもだんしがなく、しほと、)

一民が死んだのは二年まえのことだった。不幸にも男子がなく、志保と、

(そのいもうとのこまつというむすめふたりだけだったし、かずたみのいしもあって、)

その妹の小松という娘二人だけだったし、一民の遺志もあって、

(いえはそのままたえることになったが、はんしゅのとくしで、)

家はそのまま絶えることになったが、藩主の特旨で、

(かしわむらのやしきにそえてしゅうせいごにんぶちをたまわり、しほにはそんじゅくをつづけていくように)

栢村の屋敷に添えて終生五人扶持を賜わり、志保には村塾を続けてゆくように

(とのめいがさがった。いもうとのこまつはごねんまえにほかへかしていた、)

との命がさがった。妹の小松は五年まえに他へ嫁していた、

(えちごのくにたかだはんしで、かしわむらのじゅくせいだったそのべしんごというものに)

越後のくに高田藩士で、栢村の塾生だった園部晋吾という者に

(のぞまれてとついだのである。しんごはじゅくせいのなかでもしゅうさいであり)

望まれてとついだのである。晋吾は塾生のなかでも秀才であり

(ふうぼうもぬきんでていた。こまつもおさないころからうつくしく、すこしかちきではあるが)

風貌もぬきんでていた。小松も幼ない頃から美しく、少し勝気ではあるが

(あたまのよいむすめで、ふたりのけっこんはずいぶんしゅういからうらやまれたものであった。)

頭のよいむすめで、二人の結婚はずいぶん周囲から羨やまれたものであった。

(そしてふさいはしゅうげんをあげるとすぐたかだへさり、ちちのそうれいにかえったときには)

そして夫妻は祝言をあげるとすぐ高田へ去り、父の葬礼に帰ったときには

(もうにさいになるをのこをつれていた。しょうじきにいって、そのときしほははじめて)

もう二歳になる男子をつれていた。正直にいって、そのとき志保は初めて

(いもうとにねたみをかんじた、ひじょうにはげしいねたみといってもよいだろう。)

妹に妬みを感じた、ひじょうに激しい妬みといってもよいだろう。

(いもうととちがってしほはきりょうわるくうまれついた。それはまだごくおさないときからの)

妹と違って志保は縹緻わるく生れついた。それはまだごく幼ない時からの

(かなしいじかくだった。そしていつからか、じぶんはがくもんにせいをだそう、)

悲しい自覚だった。そしていつからか、自分は学問に精をだそう、

(けっこんなどはしょうがいしないで、ちちのようにがくもんでみをたてよう、)

結婚などは生涯しないで、父のように学問で身を立てよう、

(そうおもっていっしんにちちについてべんきょうした。うまれつきそしつがあったのか)

そう思って一心に父に就いて勉強した。生れつき素質があったのか

(ねっしんのためかわからないが、としをかさねるにしたがってめきめきさいのうをのばし、)

熱心のためかわからないが、年を重ねるにしたがってめきめき才能を伸ばし、

(ちちのかずたみもおりにふれて、おまえがおとこだったら、とくちにするようになった、)

父の一民もおりにふれて、おまえが男子だったら、と口にするようになった、

(けれどもそうしてしほがじゅうはっさいになったとき、ちちはしほにがくもんをきんじた、)

けれどもそうして志保が十八歳になったとき、父は志保に学問を禁じた、

(おんなとしてはもうじゅうぶんである、これからはひっさんとかそろばんなどでも)

女としてはもう充分である、これからは筆算とかそろばんなどでも

(けいこするほうがよい、それはしほにとっていきがいを)

稽古するほうがよい、それは志保にとって生き甲斐を

(たたれるようなおもいだった。よつちがいのいもうとがひましにうつくしくさいはじけて、)

断たれるような思いだった。四つ違いの妹が日ましに美しく才はじけて、

(ひとのめをひき、あいされてもゆくのをみるにつけ、かなしいうちにも、)

人の眼を惹き、愛されてもゆくのをみるにつけ、かなしいうちにも、

(いやじぶんにはがくもんのみちがある、やがてはよにしられるがくしゃになるのだ、)

いや自分には学問の道がある、やがては世に知られる学者になるのだ、

(というなぐさめがあった。そのゆいいつののぞみをきんじられたのである、)

という慰めがあった。その唯一の望みを禁じられたのである、

(しほはそのあとしばらくは、きぬけのしたようなきもちで)

志保はその後しばらくは、気ぬけのしたような気持で

(ひをすごしたことをおぼえている。)

日を過したことを覚えている。

(だがちちのほんとうのこころはまもなくわかった。おんなががくしゃになるなどということを)

だが父の本当の心は間もなくわかった。女が学者になるなどということを

(ちちはひじょうにきらっていたのだ。もしけっこんしないでひとりみをたてるにしても、)

父はひじょうに嫌っていたのだ。もし結婚しないで独り身を立てるにしても、

(てならいそろばんくらいをおしえることでたりる、それいじょうはおんなには)

手習いそろばんくらいを教えることで足りる、それ以上は女には

(ふさわしくないというのだ。きもちのおちつくにしたがって、)

ふさわしくないというのだ。気持のおちつくにしたがって、

(しほにもちちのいしはよくわかった、おんなはつつましく、というへいぼんないましめが、)

志保にも父の意志はよくわかった、女はつつましく、という平凡な戒しめが、

(そのときみにしみてわかったのである。どんなにすぐれたさいのうがあろうとも、)

そのとき身にしみてわかったのである。どんなにすぐれた才能があろうとも、

(それをおもてにあらわさずひかえめにつつましくいきるのがおんなのたしなみだ、)

それを表にあらわさず控えめに慎ましく生きるのが女のたしなみだ、

(おんなにはおんなのいきかたがある、しほはおのれをふりかえって、)

女には女の生き方がある、志保はおのれをふり返って、

(それまでのきおいこんだきもちがはずかしくなり、じぶんでもはじめて)

それまでのきおいこんだ気持が恥ずかしくなり、自分でもはじめて

(むすめらしいこころのうごきはじめることにきづいた。)

むすめらしい心の動きはじめることに気づいた。

(だからこまつがしんごにかしたときも、いもうとのしあわせをこころからよろこぶほかに、)

だから小松が晋吾に嫁したときも、妹の仕合せをこころからよろこぶほかに、

(みじんもたいはなかったのだが、にさいになるしんたろうという)

微塵も他意はなかったのだが、二歳になる晋太郎という

(こをだいてきたとき、そしていかにもむつまじそうなふうふのすがたをまえにして、)

子を抱いて来たとき、そしていかにも睦まじそうな夫婦の姿を前にして、

(うまれてはじめてのはげしいねたみをかんじた。おんなとしてのうらやみのじょうだけではない。)

生れて初めての激しい妬みを感じた。女としての羨やみの情だけではない。

(じぶんにはのぞむことのできない「あいじ」というものへの)

自分には望むことのできない「愛児」というものへの

(きょうれつなしっとだったのである。)

強烈な嫉妬だったのである。

(けれどそれからもうにねんというつきひがたった。かしわむらのこのやしきには、)

けれどそれからもう二年という月日が経った。栢村のこの屋敷には、

(しほのほかにしまいのうばだったおかやと、ろうげぼくのちゅうぞうがいるだけで、)

志保のほかに姉妹の乳母だったお萱と、老下僕の忠造がいるだけで、

(じょうかからいちりあまりもはなれたやまざとのあけくれは、まるでそうぼうのように)

城下から一里余も離れた山里の明け昏れは、まるで僧坊のように

(しずかなわびしいくらしである。ただつきのむいかはぼうふのきにちにあたるので、)

静かな侘しい暮らしである。ただ月の六日は亡父の忌日に当るので、

(はんにいるぼうふのもんかのせいねんじゅうしちにんがきててんぼをし、べつむねになっているじゅくで)

藩にいる亡父の門下の青年十七人が来て展墓をし、別棟になっている塾で

(はんにちほど、きゅうしのついおくなどかたりあうのがれいになっている。)

半日ほど、旧師の追憶など語りあうのが例になっている。

(そのひだけはしほもそんじゅくをやすみ、あつまるひとびとのせったいにたのしいひをくらすのだった。)

その日だけは志保も村塾を休み、集る人々の接待に楽しい日を暮らすのだった。

(しほがかみをあげ、きがえをして、きってきたきくをいけていると、)

志保が髪をあげ、着替えをして、剪って来た菊を活けていると、

(もうもんじんたちじゅうしちにんがたずねてきた。いちばんねんちょうのすぎたしょうざぶろうとうせいねんが)

もう門人たち十七人が訪ねて来た。いちばん年長の杉田庄三郎という青年が

(おもやのえんさきへよって、「きょうはすこしはやめにおじゃまをいたしました」)

母屋の縁先へ寄って、「今日は少し早めにお邪魔を致しました」

(とあいさつをのべた。「ごごからじょうちゅうにごようがありますので」)

と挨拶を述べた。「午後から城中に御用がありますので」

(「まあそれは」としほはえんばなへでてざんねんそうにいった、)

「まあそれは」と志保は縁端へ出て残念そうに云った、

(「さぞおかやがざんねんがることでございましょう、きょうはおひるげに)

「さぞお萱が残念がることでございましょう、今日はお昼餉に

(なにかさしあげたいとよういしていたようでございますのに」)

なにか差上げたいと用意していたようでございますのに」

(「それはおきのどくをいたしますな、ちょっとかかすことのできない)

「それはお気のどくを致しますな、ちょっと欠かすことのできない

(ごようなものですから、それと」しょうざぶろうはふとまぶしそうなめでしほをみた、)

御用なものですから、それと」庄三郎はふと眩しそうな眼で志保を見た、

(「じつはあなたにしょうしょうおたのみがあるのですが、じゅくのほうへ)

「じつはあなたに少々おたのみがあるのですが、塾のほうへ

(いらしっていただけませんか」「わたしでおやくにたつのでしたら)

いらしって頂けませんか」「わたくしでお役に立つのでしたら

(おうかがいもうしましょう。ただいまおちゃをもってあがりますから、)

お伺い申しましょう。ただ今お茶を持ってあがりますから、

(どうぞみなさまおとおりあそばして」)

どうぞ皆さまお通りあそばして」

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