芥川龍之介『女体』

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投稿者投稿者由佳梨いいね2お気に入り登録1
プレイ回数1372難易度(5.0) 2400打 長文
虱の姿になって細君の姿を微細に覗き眺める小説小品。

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問題文

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(ようぼうというしなじんが、あるなつのよる、あまりむしあついのにめがさめて、ほおづえを) 楊某と云う支那人が、ある夏の夜、あまり蒸暑いのに眼がさめて、頬杖を (つきながらはらんばいになって、とりとめのないもうぞうにふけっていると、ふと1ぴきの) つきながら腹んばいになって、とりとめのない妄想に耽っていると、ふと一匹の (しらみがねどこのふちをはっているのにきがついた。へやのなかにともした、うすぐらいひの) 虱が寝床の縁を這っているのに気がついた。部屋の中にともした、うす暗い灯の (ひかりで、しらみはちいさなせなかをぎんのこなのようにひからせながら、となりにねているさいくんのかたを) 光で、虱は小さな背中を銀の粉のように光らせながら、隣に寝ている細君の肩を (めがけて、もずもずはっていくらしい。さいくんは、はだかのまま、さっきからようのほうへ) 目がけて、もずもず這って行くらしい。細君は、裸のまま、さっきから楊の方へ (かおをむけて、やすらかなねいきをたてているのである。ようは、そのしらみののろくさい) 顔を向けて、安らかな寝息を立てているのである。楊は、その虱ののろくさい (あゆみをながめながら、こんなむしのせかいはどんなだろうとおもった。じぶんが2そくか) 歩みを眺めながら、こんな虫の世界はどんなだろうと思った。自分が二足か (3そくでいけるところも、しらみには1じかんもかからなければ、あるけない。しかもその) 三足で行ける所も、虱には一時間もかからなければ、歩けない。しかもその (あるきまわるところが、せいぜいねどこのうえだけである。じぶんもしらみにうまれたら、さぞ) 歩きまわる所が、せいぜい寝床の上だけである。自分も虱に生れたら、さぞ (たいくつだったことであろう。・・・・・・そんなことをまんぜんとかんがえているなかに、ようのいしきは) 退屈だった事であろう。……そんな事を漫然と考えている中に、楊の意識は (しだいにおぼろげになってきた。もちろんゆめではない。そうかといってまた、うつつでもない。) 次第に朧げになって来た。勿論夢ではない。そうかと云ってまた、現でもない。 (ただ、みょうにこうこつたるこころもちのそこへ、しずむともなくしずんでいくのである。それが) ただ、妙に恍惚たる心もちの底へ、沈むともなく沈んで行くのである。それが (やがて、はっとめがさめたようなきにかえったとおもうと、いつかようのたましいはあのしらみの) やがて、はっと眼がさめたような気に帰ったと思うと、いつか楊の魂はあの虱の (からだへはいって、あせくさいねどこのうえを、ぜんぜんぜんとしてあるいている。ようはあまりにことが) 体へはいって、汗臭い寝床の上を、蠕々然として歩いている。楊は余りに事が (いがいなので、おもわずぼうぜんとたちすくんだ。が、かれをおどろかしたのは、ひとりそれ) 意外なので、思わず茫然と立ちすくんだ。が、彼を驚かしたのは、独りそれ (ばかりではない。--かれのゆくてには、いちざのたかいやまがあった。それがまた) ばかりではない。――彼の行く手には、一座の高い山があった。それがまた (おのずからなまるみをあたたかくだいて、めのとどかないうえのほうから、めのさきのねどこのうえまで、) 自らな円みを暖く抱いて、眼のとどかない上の方から、眼の先の寝床の上まで、 (おおきなしょうにゅうせきのようにたれさがっている。そのねどこについているぶぶんは、なかに) 大きな鍾乳石のように垂れ下っている。その寝床についている部分は、中に (かきをぞうしているかとおもうほど、うすあかいざくろのみのかたちをつくっているが、そこを) 火気を蔵しているかと思うほど、うす赤い柘榴の実の形を造っているが、そこを (のぞいては、やま1えん、どこをみてもしろくないところはない。そのしろさがまた、ぎょうしの) 除いては、山一円、どこを見ても白くない所はない。その白さがまた、凝脂の
など
(ようなやわらかみのある、なめらかないろのしろさで、さんぷくのなだらかなくぼみでさえ、ちょうど) ような柔らかみのある、滑な色の白さで、山腹のなだらかなくぼみでさえ、丁度 (ゆきにさすつきのひかりのような、かすかにあおいかげをたたえているだけである。ましてひかりを) 雪にさす月の光のような、かすかに青い影を湛えているだけである。まして光を (うけているぶぶんは、とけるようなべっこういろのこうたくをおびて、どこのさんみゃくにも) うけている部分は、融けるような鼈甲色の光沢を帯びて、どこの山脈にも (みられない、うつくしいゆみなりのきょくせんを、はるかなてんさいにえがいている。・・・・・・ようはきょうたんの) 見られない、美しい弓なりの曲線を、遥な天際に描いている。……楊は驚嘆の (めをみひらいて、このうつくしいやまのすがたをながめた。が、そのやまがかれのさいくんのちちの) 眼を見開いて、この美しい山の姿を眺めた。が、その山が彼の細君の乳の (1つだということをしったときに、かれのおどろきははたしてどれくらいだったことであろう。) 一つだと云う事を知った時に、彼の驚きは果してどれくらいだった事であろう。 (かれは、あいもにくしみも、ないしまたせいよくもわすれて、このぞうげのやまのような、きょだいな) 彼は、愛も憎みも、乃至また性よくも忘れて、この象牙の山のような、巨大な (ちぶさをみまもった。そうして、きょうたんのあまり、ねどこのあせくさいにおいもわすれたのか、) 乳房を見守った。そうして、驚嘆の余り、寝床の汗臭い匂も忘れたのか、 (いつまでもこりかたまったようにうごかなかった。--ようは、しらみになってはじめて、) いつまでも凝固まったように動かなかった。――楊は、虱になって始めて、 (さいくんのにくたいのうつくしさを、にょじつにかんずることができたのである。しかし、げいじゅつのしに) 細君の肉体の美しさを、如実に観ずる事が出来たのである。しかし、芸術の士に (とって、しらみのごとくみるべきものは、ひとりにょたいのうつくしさばかりではない。) とって、虱の如く見る可きものは、独り女体の美しさばかりではない。
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芥川龍之介

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