芥川龍之介『野呂松人形』

(つぎの８じょうと６じょうと、ふたまいっしょにした、うすぐらいざしきには、もうだいぶ、きゃくのかずが)

次の八畳と六畳と、二間一しょにした、うす暗い座敷には、もう大分、客の数が

(みえていた。ぼくは、ひとなかへでるときは、たいてい、ようふくをきてゆく。はかまだと、)

見えていた。僕は、人中へ出る時は、大抵、洋服を着てゆく。袴だと、

(こうでいしなければならない。はんざつなにほんのｅｔｉｑｕｅｔｔｅも、ずぼんだと、)

拘泥しなければならない。繁雑な日本のetiquetteも、ズボンだと、

(しばしば、おおめにみられやすい。ぼくのような、れいせつになれないにんげんには、しごく)

しばしば、大目に見られやすい。僕のような、礼節になれない人間には、至極

(べんりである。そのひも、こういうわけで、ぼくは、だいがくのせいふくをきていった。が、)

便利である。その日も、こう云う訳で、僕は、大学の制服を着て行った。が、

(ここへきているれんちゅうのなかには、１りもようふくをきているものがない。おどろいた)

ここへ来ている連中の中には、一人も洋服を着ているものがない。驚いた

(ことには、ぼくのしっているいぎりすじんさえ、もんつきにせるのはかまで、おうぎをまえにひかえて)

事には、僕の知っている英吉利人さえ、紋附にセルの袴で、扇を前に控えて

(いる。ｋのごときまちやのしていがゆうきつむぎの２まいがさねかなにかで、おさまっていたのはいう)

いる。Kの如き町家の子弟が結城紬の二枚襲か何かで、納まっていたのは云う

(までもない。ぼくは、この２りのゆうじんにあいさつをして、ざにつくときに、いささか、)

までもない。僕は、この二人の友人に挨拶をして、座につく時に、いささか、

(ｅｔｒａｎｇｅｒのかんがあった。「これだけ、おきゃくがあっては、－－さんも)

etrangerの感があった。「これだけ、お客があっては、――さんも

(おおよろこびだろう。」ｋがぼくにいった。－－さんというのは、ぼくにしょうたいじょうを)

大よろこびだろう。」Kが僕に云った。――さんと云うのは、僕に招待状を

(くれたひとのなである。「あのひとも、やはりにんぎょうをつかうのかい。」「うん、１ばんか)

くれた人の名である。「あの人も、やはり人形を使うのかい。」「うん、一番か

(２ばんは、ならっているそうだ。」「きょうもつかうかしら。」「いや、つかわない)

二番は、習っているそうだ。」「今日も使うかしら。」「いや、使わない

(だろう。きょうは、これでもこのみちのおれきれきがつかうのだから。」ｋは、それから、)

だろう。今日は、これでもこの道のお歴々が使うのだから。」Kは、それから、

(いろいろ、のろまにんぎょうのはなしをした。なんでも、ばんぐみのかずは、みなで７０なんばんとか)

いろいろ、野呂松人形の話をした。何でも、番組の数は、皆で七十何番とか

(あって、それにつかうにんぎょうが２０いくつとかあるというようなことである。じぶんは、)

あって、それに使う人形が二十幾つとかあると云うような事である。自分は、

(ときどき、６じょうのざしきのしょうめんにできているぶたいのほうをながめながら、ぼんやりｋの)

時々、六畳の座敷の正面に出来ている舞台の方を眺めながら、ぼんやりKの

(せつめいをきいていた。ぶたいというのは、たかさ３しゃくばかり、はば２けんばかりのきんぱくを)

説明を聞いていた。舞台と云うのは、高さ三尺ばかり、幅二間ばかりの金箔を

(おしたついたてである。ｋのせつによると、これを「てすり」としょうするので、いつでも)

押した歩衝である。Kの説によると、これを「手摺り」と称するので、いつでも

(とりこわせるようにできているという。そのさゆうへは、あたらしい３しょくどんすのきちょうが)

取壊せるように出来ていると云う。その左右へは、新しい三色緞子の几帳が

(さがっている。うしろは、きんびょうぶをたてまわしたものらしい。うすぐらいなかに、その)

下っている。後は、金屏風をたてまわしたものらしい。うす暗い中に、その

(ついたてとびょうぶとのきんがひとえ、いぶしをかけたように、おもおもしくゆうやみをやぶっている。)

歩衝と屏風との金が一重、燻しをかけたように、重々しく夕闇を破っている。

(－－ぼくは、このかんそなぶたいをみてひじょうにいいこころもちがした。「にんぎょうには、おとこと)

――僕は、この簡素な舞台を見て非常にいい心もちがした。「人形には、男と

(おんなとあってね、おとこには、あおあたまとか、もじべえとか、じゅうないとか、ろうそうとか)

女とあってね、男には、青頭とか、文字兵衛とか、十内とか、老僧とか

(いうのがある。」ｋはべんじてあぐまない。「おんなにもいろいろありますか。」と)

云うのがある。」Kは弁じて倦まない。「女にもいろいろありますか。」と

(いぎりすじんがいった。「おんなには、あさひとか、てるひとかね、それからおきね、)

英吉利人が云った。「女には、朝日とか、照日とかね、それからおきね、

(あくばなんぞというのもあるそうだ。もっともなかでゆうめいなのは、あおあたまでね。)

悪婆なんぞと云うのもあるそうだ。もっとも中で有名なのは、青頭でね。

(これは、がんそから、いまのそうけへでんらいしたのだというが・・・・・・」あいにく、そのうちに、)

これは、元祖から、今の宗家へ伝来したのだと云うが……」生憎、その内に、

(ぼくはこようにいきたくなった。－－かわやからかえってみると、もうでんとうがついている。)

僕は小用に行きたくなった。――厠から帰って見ると、もう電燈がついている。

(そうして、いつのまにか「てすり」のうしろには、くろいしゃのふくめんをしたひとが１り、)

そうして、いつの間にか「手摺り」の後には、黒い紗の覆面をした人が一人、

(にんぎょうをもってたっている。いよいよ、きょうげんがはじまったのであろう。ぼくは、えしゃくを)

人形を持って立っている。いよいよ、狂言が始まったのであろう。僕は、会釈を

(しながら、ほかのきゃくのあいだをとおって、まえにすわっていたところへきてすわった。ｋと)

しながら、ほかの客の間を通って、前に坐っていた所へ来て坐った。Kと

(にほんふくをきたいぎりすじんとのあいだである。ぶたいのにんぎょうは、あいいろのすおうに、たてえぼしを)

日本服を来た英吉利人との間である。舞台の人形は、藍色の素袍に、立烏帽子を

(かけただいみょうである。「それがし、いまだ、ほこるたからがござらぬによって、よに)

かけた大名である。「それがし、いまだ、誇る宝がござらぬによって、世に

(まれなるたからをみやこへもとめにやろうとぞんずる。」にんぎょうをつかっているひとが、こんなことを)

稀なる宝を都へ求めにやろうと存ずる。」人形を使っている人が、こんな事を

(いった。ごといい、くちょうといい、あいきょうげんをみるのと、たいしたかわりはない。)

云った。語と云い、口調と云い、間狂言を見るのと、大した変りはない。

(やがて、だいみょうが、「まず、よろくをよびだしてもうしつけよう。やいやいよろく)

やがて、大名が、「まず、与六を呼び出して申しつけよう。やいやい与六

(あるか。」とかなんとかいうと、「へえ」とこたえながらもう１り、くろいしゃでかおを)

あるか。」とか何とか云うと、「へえ」と答えながらもう一人、黒い紗で顔を

(かくしたひとが、たろうかじゃのようなにんぎょうをもって、ひだりの３しょくどんすのなかから、でて)

隠した人が、太郎冠者のような人形を持って、左の三色緞子の中から、出て

(きた。これは、ちゃいろのはんがみしもに、むごしというきつけである。すると、だいみょうの)

来た。これは、茶色の半上下に、無腰と云う着附けである。すると、大名の

(にんぎょうが、ゆんでをちいさながたなのつかにかけながら、めてのちゅうけいで、よろくを)

人形が、左手を小さな刀の柄にかけながら、右手の中啓で、与六を

(さしまねいで、こういうことをいいつける。－－「てんかおさまり、めでたい)

さしまねいで、こう云う事を云いつける。――「天下治まり、目出度い

(みよなれば、かなたこなたにてたからあわせをせらるるところ、なんじのしるとおり、)

御代なれば、かなたこなたにて宝合せをせらるるところ、なんじの知る通り、

(それがしかたには、いまだほこるべきたからがないによって、なんじみやこへのぼり、よにまれなる)

それがし方には、いまだ誇るべき宝がないによって、汝都へ上り、世に稀なる

(ところのたからがあらばもとめてまいれ。」よろく「へえ」だいみょう「いそげ」「へえ」「ええ」)

ところの宝が有らば求めて参れ。」与六「へえ」大名「急げ」「へえ」「ええ」

(「へえ」「ええ」「へえさてさてとのさまには・・・・・・」－－それからよろくのながい)

「へえ」「ええ」「へえさてさて殿様には……」――それから与六の長い

(ｓｏｌｉｌｏｑｕｅがはじまった。にんぎょうのできは、はなはだ、かんたんである。だい１、)

Soliloqueが始まった。人形の出来は、はなはだ、簡単である。第一、

(きつけのしたに、あしというものがない。くちがあいたり、めがうごいたりするこうせいの)

着附の下に、足と云うものがない。口が開いたり、目が動いたりする後世の

(にんぎょうにくらべれば、かくだんなそういである。てのゆびをうごかすことはあるが、それもめったに)

人形に比べれば、格段な相違である。手の指を動かす事はあるが、それも滅多に

(やらない。するのは、ただみぶりである。からだをぜんごにまげたり、てをさゆうに)

やらない。するのは、ただ身ぶりである。体を前後にまげたり、手を左右に

(うごかしたりする－－それよりほかには、なにもしない。はなはだ、まののびた、)

動かしたりする――それよりほかには、何もしない。はなはだ、間ののびた、

(どうじに、どこかおうような、ひんのいいものである。ぼくは、にんぎょうにたいして、ふたたび、)

同時に、どこか鷹揚な、品のいいものである。僕は、人形に対して、再び、

(ｅｔｒａｎｇｅｒのかんをふかくした。あなとおる・ふらんすのかいたものに、こう)

etrangerの感を深くした。アナトオル・フランスの書いたものに、こう

(いう１せつがある、－－じだいとばしょとのせいげんをはなれたびは、どこにもない。)

云う一節がある、――時代と場所との制限を離れた美は、どこにもない。

(じぶんが、あるげいじゅつのさくひんをよろこぶのは、そのさくひんのせいかつにたいするかんけいを、じぶんが)

自分が、ある芸術の作品を悦ぶのは、その作品の生活に対する関係を、自分が

(はっけんしたときにかぎるのである。ｈｉｓｓａｒｌｉｋのすやきのとうきはじぶんをして、)

発見した時に限るのである。Hissarlikの素焼の陶器は自分をして、

(よりいりあっどをあいせしめる。１３せいきにおけるふぃれんつぇのせいかつを)

よりイリアッドを愛せしめる。十三世紀におけるフィレンツェの生活を

(しらなかったとしたら、じぶんはしんきょくを、こんにちのごとくかんしょうすることは)

知らなかったとしたら、自分は神曲を、今日の如く鑑賞する事は

(できなかったのにそういない。じぶんはいう、あらゆるげいじゅつのさくひんは、そのせいさくの)

出来なかったのに相違ない。自分は云う、あらゆる芸術の作品は、その製作の

(ばしょとじだいとをしって、はじめて、せいとうにあいし、かつ、りかいしえられるのである。)

場所と時代とを知って、始めて、正当に愛し、かつ、理解し得られるのである。

(・・・・・・ぼくは、こんじきのはいけいのまえに、ゆうちょうなどうさをくりかえしている、あいのすおうとちゃの)

……僕は、金色の背景の前に、悠長な動作を繰返している、藍の素袍と茶の

(はんがみしもとをみて、はからず、この１せつをおもいだした。ぼくたちのかいているしょうせつも、)

半上下とを見て、図らず、この一節を思い出した。僕たちの書いている小説も、

(いつかこののろまにんぎょうのようになるときがきはしないだろうか。ぼくたちは、じだいと)

いつかこの野呂松人形のようになる時が来はしないだろうか。僕たちは、時代と

(ばしょとのせいげんをうけないびがあるとしんじたがっている。ぼくたちのためにも、)

場所との制限をうけない美があると信じたがっている。僕たちのためにも、

(ぼくたちのそんけいするげいじゅつかのためにも、そうしんじてうたがいたくないとおもっている。)

僕たちの尊敬する芸術家のためにも、そう信じて疑いたくないと思っている。

(しかし、それが、はたして、そうありたいばかりでなく、そうあることであろうか。)

しかし、それが、果して、そうありたいばかりでなく、そうある事であろうか。

(・・・・・・のろまにんぎょうは、そうあることをひていするごとく、きぼりのしろいかおを、きんのついたての)

……野呂松人形は、そうある事を否定する如く、木彫の白い顔を、金の歩衝の

(うえで、うごかしているのである。きょうげんは、それから、すっぱがでて、よろくをだまし、)

上で、動かしているのである。狂言は、それから、すっぱが出て、与六を欺し、

(よろくがかえって、だいみょうのふきょうをこうむるところでおわった。なりものは、しゃみせんのないしばいの)

与六が帰って、大名の不興を蒙る所で完った。鳴物は、三味線のない芝居の

(はやしとのうのはやしとを、１つにしたようなものである。ぼくは、つぎのきょうげんをまつ)

囃しと能の囃しとを、一つにしたようなものである。僕は、次の狂言を待つ

(あいだを、ｋともはなさずに、ぼんやり、ひとり「あさひ」をのんですごした。)

間を、Kとも話さずに、ぼんやり、独り「朝日」をのんですごした。