大川の水 1

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芥川龍之介

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問題文

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(じぶんは、おおかわばたにちかいまちでうまれた。)

自分は、大川端に近い町で生まれた。

(いえをでてしいのわかばにおおわれた、くろべいのよこあみのこうじをぬけると、)

家を出て椎の若葉に掩われた、黒塀の横網の小路をぬけると、

(すぐあのはばのひろいかわすじのみわたせる、ひゃっぽんぐいのかしへでるのである。)

すぐあの幅の広い川筋の見渡せる、百本杭の河岸へ出るのである。

(おさないときから、ちゅうがくをそつぎょうするまで、)

幼いときから、中学を卒業するまで、

(じぶんはほとんどまいにちのように、あのかわをみた。)

自分はほとんど毎日のように、あの川を見た。

(みずとふねとはしとすなすと、みずのうえにうまれて)

水と船と橋と砂州と、水の上に生まれて

(みずのうえにくらしているあわただしいひとびとのせいかつをみた。)

水の上に暮らしているあわただしい人々の生活を見た。

(まなつのひのひるすぎ、やけたすなをふみながら、)

真夏の日の午すぎ、燬けた砂を踏みながら、

(すいえいをならいにいくとおりすがりに、)

水泳を習いに行く通りすがりに、

(かぐともなくかいだかわのみずのにおいも、いまではとしとともに、)

嗅ぐともなく嗅いだ河の水のにおいも、今では年とともに、

(したしくおもいだされるようなきがする。)

親しく思い出されるような気がする。

(じぶんはどうして、こうもあのかわをあいするのか。)

自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。

(あのどちらかといえば、どろにごりのしたおおかわのなまあたたかいみずに、)

あのどちらかといえば、泥濁りのした大川の生暖かい水に、

(かぎりないゆかしさをかんじるのか。)

限りない床しさを感じるのか。

(じぶんながらも、すこしく、そのせつめいにくるしまずにはいられない。)

自分ながらも、少しく、その説明に苦しまずにはいられない。

(ただ、じぶんは、むかしからあのみずをみるごとに、なんとなく、)

ただ、自分は、昔からあの水を見るごとに、なんとなく、

(なみだをおとしたいような、いいがたいいあんとせきりょうとをかんじた。)

涙を落としたいような、いいがたい慰安と寂寥とを感じた。

(まったく、じぶんのすんでいるせかいからとおざかって、)

完く、自分の住んでいる世界から遠ざかって、

(なつかしいしりょとついおくとのくににはいるようなこころもちがした。)

懐かしい思慮と追憶との国にはいるような心もちがした。

(このこころもちのために、このいあんとせいじゃくとをあじわいうるがために、)

この心もちのために、この慰安と静寂とを味わいうるがために、

など

(じぶんはなによりもおおかわのみずをあいするのである。)

自分は何よりも大川の水を愛するのである。

(ぎんかいしょくのもやとあおいあぶらのようなかわのみずと、といきのような、)

銀灰色の靄と青い油のような川の水と、吐息のような、

(おぼつかないきてきのおとと、せきたんぶねのとびいろのさんかくほと、)

覚束ない汽笛の音と、石炭船の鳶色の三角帆と、

(すべてやみがたいあいしゅうをよびおこすこれらのかわのながめは、いかにじぶんの)

すべて止み難い哀愁を呼び起すこれらの川のながめは、いかに自分の

(おさないこころを、そのきしにたつようりゅうのはのごとく、おののかせたことだろう。)

幼い心を、その岸に立つ楊柳の葉のごとく、おののかせた事だろう。

(このさんねんかん、じぶんはやまのてのこうがいに、ぞうきばやしのかげになっているしょさいで、)

この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林のかげになっている書斎で、

(へいせいなどくしょざんまいにふけっていたが、それでもなお、つきにに、さんどは、)

平静な読書三昧に耽っていたが、それでもなお、月に二、三度は、

(あのおおかわのみずのながめにゆくことをわすれなかった。)

あの大川の水の眺めにゆくことを忘れなかった。

(うごくともなくうごき、ながるるともなくながれるおおかわのみずのいろは、)

動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、

(せいじゃくなしょさいのくうきがやすみなくあたえるしげきときんちょうとに、)

静寂な書斎の空気が休みなく与える刺戟と緊張とに、

(せつないほどあわただしく、うごいているじぶんのこころをも、ちょうど、)

せつないほどあわただしく、動いている自分の心をも、ちょうど、

(ながたびにでたじゅんれいが、ようやくまたこきょうのつちをふんだときのような、)

長旅にでた巡礼が、ようやくまた故郷の土を踏んだ時のような、

(さびしい、じゆうな、なつかしさに、とかしてくれる。)

さびしい、自由な、なつかしさに、とかしてくれる。

(おおかわのみずがあって、はじめてじぶんはふたたび、)

大川の水があって、はじめて自分はふたたび、

(じゅんなるほんらいのかんじょうにいきることができるのである。)

純なる本来の感情に生きることができるのである。

(じぶんはいくどとなく、あおいみずにのぞんだあかしあが、しょかのやわらかな)

自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、初夏のやわらかな

(かぜにふかれて、ほろほろとしろいはなをおとすのをみた。)

風にふかれて、ほろほろと白い花を落とすのを見た。

(じぶんはいくどとなく、きりのおおいじゅういちがつのよるに、)

自分は幾度となく、霧の多い十一月の夜に、

(くらいそらをさむそうになく、ちどりのこえをきいた。)

暗い空を寒そうに鳴く、千鳥の声を聞いた。

(じぶんのみ、じぶんのきくすべてのものは、ことごとく、)

自分の見、自分の聞くすべてのものは、ことごとく、

(おおかわにたいするじぶんのあいをあらたにする。ちょうど、)

大川に対する自分の愛を新たにする。ちょうど、

(なつかわのみずからうまれるくろとんぼのはねのような、おののきやすいしょうねんのこころは、)

夏川の水から生まれる黒蜻蛉の羽のような、おののきやすい少年の心は、

(そのたびにあらたなきょういのひとみをみはらずにはいられないのである。)

そのたびに新たな驚異の眸を見はらずにはいられないのである。

(ことによあみのふねのふなばたによって、おともなくながれる、くろいかわをみつめながら、)

ことに夜網の船の舷に倚って、音もなく流れる、黒い川を凝視めながら、

(よるとみずとのなかにただよう「し」のこきゅうをかんじたとき、いかにじぶんは、)

夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、

(たよりないさびしさにせまられたことであろう。)

たよりないさびしさに迫られたことであろう。

(おおかわのながれをみるごとに、じぶんは、あのそういんのかねのねと、)

大川の流れを見るごとに、自分は、あの僧院の鐘の音と、

(くぐいのこえとにくれていくいたりあのみずのみやこ-ばるこんにさくばらもゆりも、)

鵠の声とに暮れて行く伊太利亜の水の都-バルコンにさく薔薇も百合も、

(みなそこにしずんだようなつきのひかりにあおざめて、くろいひつぎににたごんどらが、)

水底に沈んだような月の光に青ざめて、黒い棺に似たゴンドラが、

(そのなかをはしからはしへ、ゆめのようにこいでゆく、ヴぇねちあのふうぶつに、)

その中を橋から橋へ、夢のように漕いでゆく、ヴェネチアの風物に、

(あふれるるばかりにねつじょうをそそいだだんぬんちょのこころもちを、)

溢るるばかりに熱情を注いだダンヌンチョの心もちを、

(いまさらのようにしたわしく、おもいださずにはいられないのである。)

今さらのように慕わしく、思い出さずにはいられないのである。

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