ちゃん 山本周五郎 ①

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重吉は腕の良い火鉢職人。時世の流れで仕事が減ってきている。
今夜も酒を飲んで帰宅する重吉を妻と子が迎える。
すでに独立した仲間の職人が相談に乗ろうとするが・・・

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問題文

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(そのながやのひとたちは、まいつきのじゅうよっかとみそかのばんに、)

その長屋の人たちは、毎月の十四日と晦日の晩に、

(きまってしげさんのいさましいくだをきくことができた。)

きまって重さんのいさましいくだを聞くことができた。

(いうまでもないだろうが、じゅうよっかとみそかはかんじょうびで、)

云うまでもないだろうが、十四日と晦日は勘定日で、

(しょくにんたちがちんぎんをもらうひであり、またかれらのかぞくたちが)

職人たちが賃銀を貰う日であり、またかれらの家族たちが

(ちんぎんをもらってくるあるじをまっているひでもあった。)

賃銀を貰って来るあるじを待っている日でもあった。

(そのひかせぎのものはべつとして、きまったちょうばではたらいているしょくにんたちと)

その日稼ぎの者はべつとして、きまった帳場で働いている職人たちと

(そのかぞくのおおくは、つきににどのかんじょうびをなによりたのしみにしていた。)

その家族の多くは、月に二度の勘定日をなによりたのしみにしていた。

(ゆうげのぜんにはごちそうがならび、あるじのためにはさけもつくであろう。)

夕餉の膳には御馳走が並び、あるじのためには酒もつくであろう。

(はんつきのしめくくりをして、こどもたちはあしたなにかかってもらえるかもしれない。)

半月のしめくくりをして、子供たちは明日なにか買って貰えるかもしれない。

(もちろん、いずれにしてもささやかなはなしであるが、)

もちろん、いずれにしてもささやかなはなしであるが、

(ささやかなりにたのしく、わずかながらこころあたたまるばんであった。)

ささやかなりにたのしく、僅かながら心あたたまる晩であった。

(こういうばんのじゅうじすぎ、ときにはもっとおそく、ながやのきどを)

こういう晩の十時すぎ、ときにはもっとおそく、長屋の木戸を

(はいってきながら、しげさんがくだをまくのである。)

はいって来ながら、重さんがくだを巻くのである。

(「ぜになんかない、よ」としげさんがひとことずつゆっくりという、)

「銭なんかない、よ」と重さんがひと言ずつゆっくりと云う、

(「みんなつかっちまった、よ、みんなのんじまった、よ」)

「みんな遣っちまった、よ、みんな飲んじまった、よ」

(よっているのであしがきまらない。よろめいてどぶいたをならし、)

酔っているので足がきまらない。よろめいてどぶ板を鳴らし、

(ごみばこにぶっつかり、そしてしゃっくりをする。)

ごみ箱にぶっつかり、そしてしゃっくりをする。

(「のんじゃった、よ」としげさんはしたがだるいようなくちぶりでいう、)

「飲んじゃった、よ」と重さんは舌がだるいような口ぶりで云う、

(「ぜになんかありゃあしない、よ、ああ、いっかんにひゃくしかのこってない、よ」)

「銭なんかありゃあしない、よ、ああ、一貫二百しか残ってない、よ」

(ながやはひっそりしている。しげさんはじぶんのいえのまえまで、)

長屋はひっそりしている。重さんは自分の家の前まで、

など

(ゆっくりとよろめいてゆき、とぐちのところでへたりこんでしまう。)

ゆっくりとよろめいてゆき、戸口のところでへたりこんでしまう。

(するとあまどをそっとあけて、しげさんのちょうなんのよしきちか、)

すると雨戸をそっとあけて、重さんの長男の良吉か、

(かみさんのおなおがよびかける。「はいっておくれよ、おまえさん」)

かみさんのお直が呼びかける。「はいっておくれよ、おまえさん」

(と、おなおならいう、「ごきんじょへめいわくだからさ、おおきなこえをださないで)

と、お直なら云う、「ご近所へ迷惑だからさ、大きな声をださないで

(はいっておくれよ」のどでこえをころしていうのだ。)

はいっておくれよ」喉で声をころして云うのだ。

(「ちゃん、はいんなよ」とよしきちならいう、「そんなところへ)

「ちゃん、はいんなよ」と良吉なら云う、「そんなところへ

(すわっちまっちゃだめだよ、こっちへはいんなったらさ、ちゃん」)

坐っちまっちゃだめだよ、こっちへはいんなったらさ、ちゃん」

(「はいれない、よ」しげさんはのんびりという、)

「はいれない、よ」重さんはのんびりと云う、

(「みんなつかっちまったんだから、いっかんにひゃくしかのこってないんだから、)

「みんな遣っちまったんだから、一貫二百しか残ってないんだから、

(ああ、みんなのんじまったんだから、はいれない、よ」)

ああ、みんな飲んじまったんだから、はいれない、よ」

(ながやはやはりしんとしている。まだおきているうちもあるが、)

長屋はやはりしんとしている。まだ起きているうちもあるが、

(それでもひっそりと、きこえないふりかねたふりをしている。)

それでもひっそりと、聞えないふりか寝たふりをしている。

(ながやのひとたちはしげさんとしげさんのかぞくをすいていた。しげさんもいいひとだし、)

長屋の人たちは重さんと重さんの家族を好いていた。重さんもいい人だし、

(にょうぼうのおなおもいいかみさんである。じゅうしになるよしきち、じゅうさんになるむすめのおつぎ、)

女房のお直もいいかみさんである。十四になる良吉、十三になる娘のおつぎ、

(ななつのかめきちとみっつのおよし。みんなはたらきものであり、)

七つの亀吉と三つのお芳。みんな働き者であり、

(よくできたこたちである。しげさんがそんなふうにくだをまくのは、)

よくできた子たちである。重さんがそんなふうにくだを巻くのは、

(このところずっとしごとのまがわるいからで、そのためにおなおやよしきちやおつぎが、)

このところずっと仕事のまが悪いからで、そのためにお直や良吉やおつぎが、

(それぞれけんめいにかせいでいるし、ふだんはしげきちもおかしいほどむくちで)

それぞれけんめいに稼いでいるし、ふだんは重吉もおかしいほど無口で

(おとなしい。だからながやのひとたちはだまって、しらないふりを)

おとなしい。だから長屋の人たちは黙って、知らないふりを

(しているのであった。たいていのばあい、おなおとよしきちで、しげさんのかたはつく。)

しているのであった。たいていの場合、お直と良吉で、重さんの片はつく。

(しかし、それでもうごかないときには、すえのむすめのおよしがでてくる。)

しかし、それでも動かないときには、末の娘のお芳が出て来る。

(みっつになるのにくちのおそいこで、ときどききどってしたったらずなことをいう。)

三つになるのに口のおそい子で、ときどき気取って舌っ足らずなことを云う。

(「たん」もちろんとうちゃんのいみである、)

「たん」もちろん父ちゃんの意味である、

(「へんなっていってゆでしょ、へんな、たん」)

「へんなって云ってゆでしょ、へんな、たん」

(しげきちのまわりで、ふゆはあしぶみをしていた。)

重吉のまわりで、冬は足踏みをしていた。

(きせつはまぎれもなくはるにむかっていた。しものおりることもすくなくなり、)

季節はまぎれもなく春に向っていた。霜のおりることも少なくなり、

(かぜのはだざわりもやわらいできた。うめがさかりをすぎ、じんちょうげがさきはじめた。)

風の肌ざわりもやわらいできた。梅がさかりを過ぎ、沈丁花が咲きはじめた。

(あるいていると、ほのかにはなのにおいがし、そのにおいが、うめからじんちょうげに)

歩いていると、ほのかに花の匂いがし、その匂いが、梅から沈丁花に

(かわったこともわかる。けれども、そういううつりかわりはしげきちにはえんがとおかった。)

かわったこともわかる。けれども、そういう移り変りは重吉には縁が遠かった。

(いま、くれがたのまちをあるいているかれには、かすかなかぜが)

いま、昏れがたの街を歩いている彼には、かすかな風が

(ほねにしみるほどつめたく、みちはいてているようにかたく、)

骨にしみるほど冷たく、道は凍てているように固く、

(きびしいさむさのなかをゆくように、たえずどうぶるいがおそってきた。)

きびしい寒さの中をゆくように、絶えず胴ぶるいがおそってきた。

(ともしのつきはじめたそのよこちょうの、いっけんのいえからちゅうねんのおんながでてきて、)

灯のつきはじめたその横町の、一軒の家から中年の女が出て来て、

(ひのはいったあんどんをのきにかけた。)

火のはいった行燈を軒に掛けた。

(あんどんはこがたのしゃれたもので、「おちょう」とおんなもじでかいてあった。)

行燈は小形のしゃれたもので、「お蝶」と女文字で書いてあった。

(「あらしげさんじゃないの」とおんながよびかけた、「どうしたの、)

「あら重さんじゃないの」と女が呼びかけた、「どうしたの、

(すどおりはひどいでしょ」しげきちのあしがのろくなり、ふけつだんにゆっくりとふりかえった。)

素通りはひどいでしょ」重吉の足がのろくなり、不決断にゆっくりと振返った。

(「およんなさいな、しんさんもきているのよ」「しんさん、ひものちょうか」)

「お寄んなさいな、新さんも来ているのよ」「しんさん、檜物町か」

(「きんろくちょう、しんすけさんよ」おんながそういったとき、いえのなかからおとこがくびをだして、)

「金六町、新助さんよ」女がそう云ったとき、家の中から男が首を出して、

(よう、とこえをかけた。「ひさしぶりだな、いっぱいつきあわないか」)

よう、と声をかけた。「久しぶりだな、一杯つきあわないか」

(「うん」としげきちはくちごもった、「やってもいいが、まあ、このつぎにしよう」)

「うん」と重吉は口ごもった、「やってもいいが、まあ、この次にしよう」

(「なにいってんの」とおんながきめつけた、「それがしげさんのわるいくせよ、)

「なに云ってんの」と女がきめつけた、「それが重さんの悪い癖よ、

(いいからおはいんなさい、さあ、はいってよ」)

いいからおはいんなさい、さあ、はいってよ」

(おんなはしげきちをおしいれた。そうして、とぐちのおもてにかざりのれんをかけてから、)

女は重吉を押しいれた。そうして、戸口の表に飾り暖簾を掛けてから、

(なかへはいってみると、しんすけがひとりでさかずきをいじっていた。)

中へはいってみると、新助が独りで盃をいじっていた。

(「てをあらいにおくへいったよ」とかれはおんなにいった、)

「手を洗いに奥へいったよ」と彼は女に云った、

(「しかし、どうしたんだ、おちょうさん」おちょうとよばれたおんなは)

「しかし、どうしたんだ、お蝶さん」お蝶と呼ばれた女は

(このみせのあるじだろう。どまをまわってだいのむこうへはいり、)

この店のあるじだろう。土間をまわって台の向うへはいり、

(おでんのなべをわきにしてこしをおろした。)

おでんの鍋を脇にして腰をおろした。

(それはさんつぼたらずのせまいみせで、だいがこいにむかっていたのこしかけがまわしてあり、)

それは三坪足らずの狭い店で、台囲いに向って板の腰掛がまわしてあり、

(どまのつきあたりにあるのれんのおくは、おんなあるじのじゅうきょとかってになっているようだ。)

土間のつき当りにある暖簾の奥は、女あるじの住居と勝手になっているようだ。

(「どうかしたのか」としんすけはのれんぐちのほうへあごをしゃくった、)

「どうかしたのか」と新助は暖簾口のほうへ顎をしゃくった、

(「それがわるいくせだって、どういうことなんだ」)

「それが悪い癖だって、どういうことなんだ」

(「なんでもないの」おちょうはそういって、おでんなべについているどうこから)

「なんでもないの」お蝶はそう云って、おでん鍋に付いている銅壺から

(かんどくりをだし、ちょっとそこにさわってみてから、はかまへいれて)

燗徳利を出し、ちょっと底に触ってみてから、はかまへ入れて

(しんすけのまえにおいた、「あつくなっちゃったわ、ごめんなさい」)

新助の前に置いた、「熱くなっちゃったわ、ごめんなさい」

(「そうか」としんすけはうなずき、くすっとわらっていった、「あいつらしいな」)

「そうか」と新助はうなずき、くすっと笑って云った、「あいつらしいな」

(「なにがよ」「こっちのことだ」としんすけはいった、)

「なにがよ」「こっちのことだ」と新助は云った、

(「しかし、ことわっておくが、きょうのかんじょうはおれがはらうからな、)

「しかし、断わっておくが、今日の勘定はおれが払うからな、

(あいつにつけたりするとおこるぜ」おちょうはうしろへふりかえり、おおきなこえでよんだ、)

あいつに付けたりすると怒るぜ」お蝶はうしろへ振返り、大きな声で呼んだ、

(「おたまちゃん」おくからもうすぐですというへんじがきこえ、)

「おたまちゃん」奥からもうすぐですという返辞が聞え、

(のれんぐちからしげきちがでてきた。しんすけはしげきちにばしょをあけてやり、)

暖簾口から重吉が出て来た。新助は重吉に場所をあけてやり、

(そうしてふたりはのみはじめたのだ。やがて、おたまというおんながあらわれ、)

そうして二人は飲みはじめたのだ。やがて、おたまという女があらわれ、

(おちょうはかわっておくへはいったがけしょうをなおしてもどると、みせにはあたらしいきゃくが)

お蝶は代って奥へはいったが化粧を直して戻ると、店には新しい客が

(ふたりきていた。にほんばしおとわちょうのそのよこちょうは、こういったこていなのみやが)

二人来ていた。日本橋おとわ町のその横町は、こういった小態な飲み屋が

(ならんでおり、どのみせにもわかいおんながふたりかさんにんずついて、)

並んでおり、どの店にも若い女が二人か三人ずついて、

(ひがくれるとしゃみせんやうたのこえでにぎやかになる。)

日がくれると三味線や唄の声で賑やかになる。

(このときもすでに、ちかくのみせからしゃみせんのおとが)

このときもすでに、近くの店から三味線の音が

(きこえはじめ、まもなくおちょうのみせにもいくにんかきゃくがくわわって、)

聞えはじめ、まもなくお蝶の店にも幾人か客が加わって、

(こしかけはほとんどいっぱいになった。)

腰掛はほとんどいっぱいになった。

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