ちゃん 山本周五郎 ⑤
すでに独立した仲間の職人が相談に乗ろうとするが・・・
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問題文
(ゆやはかわぐちちょうにめんしたほりばたにある。くれかかったみちをあるいてゆきながら、)
湯屋は川口町に面した堀端にある。昏れかかった道を歩いてゆきながら、
(よしきちはちちおやにわらいかけ、かえりにいっぱいおごるぜ、といった。じょうだんいうな。)
良吉は父親に笑いかけ、帰りに一杯おごるぜ、と云った。冗談いうな。
(じょうだんじゃねえほんとだ、とよしきちはくちをとがらした。かえりにあずまやへよろう、)
冗談じゃねえほんとだ、と良吉は口をとがらした。帰りに東屋へ寄ろう、
(きょうはもうかったんだ、ほんとうだぜ、ちゃん。まあいい、おれはさっき)
今日は儲かったんだ、本当だぜ、ちゃん。まあいい、おれはさっき
(ひとくちやったんだ、といいながら、しげきちはのどがなるようにかんじた。)
ひと口やったんだ、と云いながら、重吉は喉が鳴るように感じた。
(まだじこくがはやいので、おとこゆはすいていた。ざっとあびてでよう、)
まだ時刻が早いので、男湯はすいていた。ざっとあびて出よう、
(とよしきちがいい、そうしてかれはちちおやのせなかをさすってやった。)
と良吉が云い、そうして彼は父親の背中をさすってやった。
(「へんなことをきくけれどね、ちゃん」とせなかをさすりながらよしきちはいった、)
「へんなことをきくけれどね、ちゃん」と背中をさすりながら良吉はいった、
(「おちょうさんていうのはどういうひとなんだい」しげきちのかたがちょっとかたくなった。)
「お蝶さんていうのはどういう人なんだい」重吉の肩がちょっと固くなった。
(「おちょうさんって、どのおちょうさんだ」「おとわちょうでのみやをやってるひとさ」)
「お蝶さんって、どのお蝶さんだ」「おとわ町で呑み屋をやってる人さ」
(「それなら、どういうひとだってきくことはねえだろう、)
「それなら、どういう人だってきくことはねえだろう、
(そののみやのかみさんだよ」「ただ、それだけかい」)
その呑み屋のかみさんだよ」「ただ、それだけかい」
(「ただ、それだけだ、もうひとついえば、かんじょうがたまっているくらいのもんだ」)
「ただ、それだけだ、もう一つ云えば、勘定が溜まっているくらいのもんだ」
(といってしげきちはちょうしをかえた、「よし、どうしてそんなことをきくんだ」)
と云って重吉は調子を変えた、「良、どうしてそんなことを訊くんだ」
(よしきちはこえをひくくした、「ほんとうにそれだけならいいんだ、おれ」)
良吉は声を低くした、「本当にそれだけならいいんだ、おれ」
(とかれはそこでことばをきり、それからかんがえぶかそうにいった、)
と彼はそこで言葉を切り、それから考えぶかそうに云った、
(「かあちゃんがしんぱいしているもんだから」「そうか」とすこしまをおいて)
「かあちゃんが心配しているもんだから」「そうか」と少しまをおいて
(しげきちがいった、「そいつはきがつかなかった」)
重吉が云った、「そいつは気がつかなかった」
(「まえにかあちゃんのともだちだったって」)
「まえにかあちゃんの友達だったって」
(「このちょうないにいたんだ」としげきちがいった、)
「この町内にいたんだ」と重吉が云った、
(「おやじはさかんだったが、おちょうがじゅうごのとしにしんじまった、)
「おやじは左官だったが、お蝶が十五の年に死んじまった、
(おふくろというのがきのよわいしょうぶんで、にねんばかりすると、)
おふくろというのが気の弱い性分で、二年ばかりすると、
(おしかけむこのようなかたちで、ていしゅをいれてしまった」)
押掛け婿のようなかたちで、亭主を入れてしまった」
(ていしゅというのはどうらくもので、おやこはかなりつらいおもいをしたらしい。)
亭主というのは道楽者で、母娘はかなり辛いおもいをしたらしい。
(ちょうどしげきちとおなおがせたいをもつころだったが、おちょうはよく)
ちょうど重吉とお直が世帯を持つころだったが、お蝶はよく
(おなおのところへきて、なきながらぐちばなしをしていた。)
お直のところへ来て、泣きながらぐち話をしていた。
(そのうちに、ふいとかれらはいなくなった。)
そのうちに、ふいとかれらはいなくなった。
(よにげどうようにどこかへこしてゆき、まったくおんしんがたえてしまった。)
夜逃げ同様にどこかへ越してゆき、まったく音信が絶えてしまった。
(おちょうさんはよしわらへでもうられてしまったのではないか。)
お蝶さんは吉原へでも売られてしまったのではないか。
(きんじょではそういっていたし、しげきちやおなおもそんなことではないかと)
近所ではそう云っていたし、重吉やお直もそんなことではないかと
(はなしあった。そしてごねんばかりたったあるひ、しげきちはおとわちょうのそのよこちょうで)
話し合った。そして五年ばかり経ったある日、重吉はおとわ町のその横町で
(おちょうによびとめられ、かのじょがのみやをはじめたことをしったのである。)
お蝶に呼びとめられ、彼女が呑み屋を始めたことを知ったのである。
(「そのぎりのおやじのために、ひどいめにあったそうだ。)
「その義理のおやじのために、ひどいめにあったそうだ。
(はずかしくってくちにもいえないってくわしいはなしはしなかったが、)
恥ずかしくって口にも云えないって詳しい話はしなかったが、
(ずいぶんひどいめにあったらしい、おい」といってしげきちはきゅうにからだをひねった、)
ずいぶんひどいめにあったらしい、おい」と云って重吉は急に躯をひねった、
(「おい、いいかげんにしろ、せなかのかわがむけちまうぜ」)
「おい、いいかげんにしろ、背中の皮がむけちまうぜ」
(「いけねえ」よしきちはあわてた、「ああいけねえ」といい、)
「いけねえ」良吉はあわてた、「ああいけねえ」と云い、
(てにつばをつけてちちおやのせなかをなでた、「あかくなっちゃった、いてえか、ちゃん」)
手に唾をつけて父親の背中をなでた、「赤くなっちゃった、痛えか、ちゃん」
(「いいよ、あたたまろう」ふたりはゆぶねへつかった。)
「いいよ、温たまろう」二人は湯ぶねへつかった。
(「かあちゃんにそういいな」とくらいゆぶねのなかでしげきちがそっといった、)
「かあちゃんにそう云いな」と暗い湯槽の中で重吉がそっと云った、
(「しんぱいするなって、のみによるだけだし、かんじょうがすこし)
「心配するなって、飲みに寄るだけだし、勘定が少し
(たまってるだけだって、いいな」「ああ」とよしきちがいった、)
溜まってるだけだって、いいな」「ああ」と良吉が云った、
(「そのひと、いまでもくろうしているのかい」「だろうな」としげきちがこたえた、)
「その人、いまでも苦労してるのかい」「だろうな」と重吉が答えた、
(「ぎりのおやじってのはしんだが、おふくろがねたっきりで、)
「義理のおやじってのは死んだが、おふくろが寝たっきりで、
(だれかせわになってるひとがあるようだ、くわしいことははなさねえが、)
誰か世話になってる人があるようだ、詳しいことは話さねえが、
(やっぱりくろうはたえねえらしい」よしきちはだまっていて、それから、)
やっぱり苦労は絶えねえらしい」良吉は黙っていて、それから、
(さぐるようなくちぶりでいった、「そのおちょうさんってひとはね、)
さぐるような口ぶりで云った、「そのお蝶さんって人はね、
(ちゃんのおかみさんになるつもりだったって、ほんとかい」)
ちゃんのおかみさんになるつもりだったって、ほんとかい」
(「つまらねえことをいうな」「だって、かあちゃんがそいってたぜ、)
「つまらねえことを云うな」「だって、かあちゃんがそ云ってたぜ、
(おちょうさんってひとがじぶんで、かあちゃんにそういったことがあるって」)
お蝶さんって人が自分で、かあちゃんにそう云ったことがあるって」
(「よせ、つまらねえ」としげきちがさえぎった、)
「よせ、つまらねえ」と重吉がさえぎった、
(「よしんばおちょうがそういったにしろ、おれのしったことじゃあねえ、)
「よしんばお蝶がそう云ったにしろ、おれの知ったことじゃあねえ、
(つまらねえことをきにするなって、かあちゃんにいってくれ、)
つまらねえことを気にするなって、かあちゃんに云ってくれ、
(こっちはそれどころじゃあねえんだから」「でよう、ちゃん」)
こっちはそれどころじゃあねえんだから」「出よう、ちゃん」
(とよしきちがげんきなこえになっていった、「はやくでてあずまやへいくべえ」)
と良吉が元気な声になって云った、「早く出て東屋へいくべえ」
(あずまやはかめじまばしにちかいほりばたにあるめしやで、すべてがやすいうえに、)
東屋は亀島橋に近い堀端にある飯屋で、すべてが安いうえに、
(さけがいいのでひょうばんだった。みせはし、ごじゅうにんもはいれるほどおおきくて、)
酒がいいので評判だった。店は四、五十人もはいれるほど大きくて、
(おんなはひとりもおかず、じゅうし、ごになるおとこのこがごにん、わかものがごにんいて、)
女は一人も置かず、十四、五になる男の子が五人、若者が五人いて、
(きゃくのあいてをした。ちょうどともしのはいったときで、みせはひどくこんでいたが、)
客の相手をした。ちょうど灯のはいったときで、店はひどく混んでいたが、
(よしきちはすばしこく、ふたりならんでかけられるせきをみつけた。)
良吉はすばしこく、二人並んで掛けられる席をみつけた。
(「ちゃんはさけだ、さかなはなんにする」とよしきちはいせいよくいった、)
「ちゃんは酒だ、肴はなんにする」と良吉はいせいよく云った、
(「おれはどじょうじるでめしをくおう、うちじゃあなぜどじょうをくわしてくれねえのかな」)
「おれは泥鰌汁で飯を食おう、うちじゃあなぜ泥鰌を食わしてくれねえのかな」
(「おれがうどしだからな」「うどしだといけねえのか」)
「おれが卯年だからな」「卯年だといけねえのか」
(「うのじがおなじだから、うなぎをくうとともぐいになるって、)
「うの字が同じだから、鰌を食うと共食いになるって、
(かあちゃんがかつぐんだ」「だってうなぎとどじょうたあちがうだろう」)
かあちゃんがかつぐんだ」「だって鰻と泥鰌たあ違うだろう」
(「おんなじようにおもえるらしいな、かあちゃんには」)
「おんなじように思えるらしいな、かあちゃんには」
(「わらあせるぜ」とよしきちははなをならした。)
「笑あせるぜ」と良吉は鼻を鳴らした。