黒蜥蜴9
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問題文
(にょぞくとめいたんてい)
女賊と名探偵
(そのばん、ほてるのひろびろとしただんわしつは、ゆうしょくごのひとときをたばこやざつだんに)
その晩、ホテルの広々とした談話室は、夕食後のひとときを煙草や雑談に
(すごすひとたちでにぎわっていた。へやのいちぐうにそなえつけたらじおがよるの)
すごす人たちでにぎわっていた。部屋の一隅にそなえつけたラジオが夜の
(にゅーすをつぶやいていた。くっしょんにふかぶかともたれて、かおのまえにゆうかんを)
ニュースをつぶやいていた。クッションに深々ともたれて、顔の前に夕刊を
(おおきくひろげているしんしが、あちらにもこちらにもみえた。えんたくをかこんだ)
大きくひろげている紳士が、あちらにもこちらにも見えた。円卓をかこんだ
(がいこくじんのいちだんのなかからは、あめりかじんらしいふじんのこえがかんだかくきこえていた。)
外国人の一団の中からは、アメリカ人らしい婦人の声がかん高く聞こえていた。
(それらのきゃくのなかに、いわせしょうべえしとおじょうさんのさなえさんのすがたをみわけることが)
それらの客の中に、岩瀬庄兵衛氏とお嬢さんの早苗さんの姿を見わけることが
(できた。きいろっぽいはでなしまおめしのきものに、きんしのひかるおびをしめ、おれんじいろの)
できた。黄色っぽい派手な縞お召の着物に、金糸の光る帯をしめ、オレンジ色の
(はおりをきたさなえさんの、としにしてはおおがらなすがたは、わふくのすくないこのひろまでは)
羽織をきた早苗さんの、年にしては大柄な姿は、和服の少ないこの広間では
(ひじょうにめだってみえた。ふくそうばかりではない。おおさかふうにおっとりとした、)
非常に眼立って見えた。服装ばかりではない。大阪風におっとりとした、
(ぬけるほどいろじろなかおに、きんがんらしく、ふちなしめがねをかけているのが、)
抜けるほど色白な顔に、近眼らしく、ふちなし目がねをかけているのが、
(ひときわひとめをひかないではおかなかった。おとうさんのいわせしは、はんぱくの)
ひときわ人眼をひかないではおかなかった。お父さんの岩瀬氏は、半白の
(ぼうずあたまに、あからがおにひげのない、だいしょうにんらしいかっぷくのじんぶつだが、かれはまるで、)
坊主頭に、あから顔にひげのない、大商人らしい恰幅の人物だが、彼はまるで、
(おじょうさんのみはりばんででもあるように、かのじょのいっきょいちどうをみまもりながら、)
お嬢さんの見張り番ででもあるように、彼女の一挙一動を見守りながら、
(そのあとをつけまわしていた。こんどのりょこうは、しょうようのほかに、このみやこの)
そのあとをつけ廻していた。こんどの旅行は、商用のほかに、この都の
(あるめいかとえんだんがまとまりかけているので、ひきあわせのためにさなえさんを)
或る名家と縁談がまとまりかけているので、引き合わせのために早苗さんを
(どうはんしたのだが、おりもおり、ちょうどしゅっぱつのはんつきほどまえから、いわせしは、ほとんど)
同伴したのだが、折も折、ちょうど出発の半月ほど前から、岩瀬氏は、ほとんど
(まいにちのようにはいたつされる、しゅうねんぶかいはんざいよこくのてがみになやまされていたのだ。)
毎日のように配達される、執念ぶかい犯罪予告の手紙になやまされていたのだ。
(おじょうさんのしんぺんをけいかいなさい。おじょうさんをゆうかいしようとたくらんでいる、)
「お嬢さんの身辺を警戒なさい。お嬢さんを誘拐しようとたくらんでいる、
(おそろしいあくまがいます そういういみが、ひとたびひとたびちがったもんく、)
恐ろしい悪魔がいます」そういう意味が、一度一度ちがった文句、
(ちがったひっせきで、さもおそろしくかきしるしてあった。てがみのかずがますに)
ちがった筆蹟で、さも恐ろしく書きしるしてあった。手紙の数が増すに
(したがって、ゆうかいのひがいちにちいちにちとせまってくるようにかんじられた。)
したがって、誘拐の日が一日一日とせまってくるように感じられた。
(はじめのうちは、だれかのいたずらだろうと、きにもかけないでいたが、)
はじめのうちは、だれかのいたずらだろうと、気にもかけないでいたが、
(たびかさなるにつれて、だんだんきみがわるくなって、ついにはけいさつにも)
たびかさなるにつれて、だんだん気味がわるくなって、ついには警察にも
(とどけた。だが、いかなけいさつりょくも、このえたいのしれぬつうしんぶんのはっしんしゃを)
とどけた。だが、いかな警察力も、このえたいの知れぬ通信文の発信者を
(つきとめることはできなかった。てがみにはむろん、さしだしにんのなはしるされて)
つきとめることはできなかった。手紙にはむろん、差出人の名はしるされて
(いなかったし、けしいんもあるいはおおさかしない、あるいはきょうと、あるいはとうきょうと、そのつど)
いなかったし、消印も或いは大阪市内、或いは京都、或いは東京と、その都度
(ちがっていた。そういうさいではあったけれど、こんかとのやくそくをやぶるのも)
ちがっていた。そういう際ではあったけれど、婚家との約束を破るのも
(はばかられたし、いやなてがみのまいこむじたくを、しばらくはなれてみるのも)
はばかられたし、いやな手紙の舞いこむ自宅を、しばらく離れてみるのも
(このましくおもわれたので、いわせしはいをけっしてたびにでることにした。)
好ましく思われたので、岩瀬氏は意を決して旅に出ることにした。
(そのかわりには、よういしゅうとうにも、まんまんいちのことがあってはと、かつてみせの)
そのかわりには、用意周到にも、万々一のことがあってはと、かつて店の
(とうなんじけんをいらいしてそのてなみのほどをしっている、しりつたんていのあけちこごろうに、)
盗難事件を依頼してその手並みのほどを知っている、私立探偵の明智小五郎に、
(れいじょうのほごをたのむことにした。たんていはあまりのりきでもなかったけれど、)
令嬢の保護をたのむことにした。探偵はあまり乗り気でもなかったけれど、
(いわせしのたってのたのみをいなみかねて、かれらのたいざいちゅう、りんしつにとまりこんで、)
岩瀬氏のたっての頼みをいなみかねて、彼らの滞在中、隣室に泊りこんで、
(このきみょうなとうなんよぼうのにんむにつくことになった。そのあけちこごろうは、ほそながい)
この奇妙な盗難予防の任務につくことになった。その明智小五郎は、細長い
(からだをくろのせびろにつつんで、おなじひろまのべつのいちぐうのそふぁにこしかけ、やっぱり)
からだを黒の背広に包んで、同じ広間の別の一隅のソファに腰かけ、やっぱり
(くろずくめのようそうのひとりのうつくしいふじんと、なにかていせいにかたりあっていた。おくさん、)
黒ずくめの洋装の一人の美しい婦人と、何か低声に語り合っていた。「奥さん、
(あなたはどうして、このじけんに、そんなふかいきょうみをおもちなんですか たんていが、)
あなたはどうして、この事件に、そんな深い興味をお持ちなんですか」探偵が、
(じっとあいてのめをのぞきこんでたずねた。わたくし、たんていしょうせつの)
じっと相手の眼をのぞきこんでたずねた。「わたくし、探偵小説の
(あいどくしゃですの。いわせさんのおじょうさんにそのことをうかがってからというものは、)
愛読者ですの。岩瀬さんのお嬢さんにそのことを伺ってからというものは、
(まるでしょうせつみたいなできごとに、すっかりひきつけられてしまいました。それに)
まるで小説みたいな出来事に、すっかり引きつけられてしまいました。それに
(ゆうめいなあけちさんにもごこんいになれて、わたくし、なんですか、じぶんまで)
有名な明智さんにも御懇意になれて、わたくし、なんですか、自分まで
(しょうせつのなかのじんぶつにでもなったようなきがしていますのよ くろこのふじんがこたえた。)
小説の中の人物にでもなったような気がしていますのよ」黒衣の婦人が答えた。
(このくろこふじんこそ、ほかならぬわれわれのしゅじんこう くろとかげ であることを、)
この黒衣婦人こそ、ほかならぬわれわれの主人公「黒トカゲ」であることを、
(どくしゃはすでにさっしていられるにちがいない。ほうせききょうのかのじょは、こきゃくとして)
読者はすでに察していられるにちがいない。宝石狂の彼女は、顧客として
(いわせしとしりあいのあいだがらであったので、このほてるでおちあってからは、)
岩瀬氏と知り合いの間柄であったので、このホテルで落ちあってからは、
(いっそうしたしみをまし、かのじょのおどろくべきしゃこうじゅつは、はやくもさなえさんをとりこにして)
一そう親しみを増し、彼女のおどろくべき社交術は、早くも早苗さんを虜にして
(うちわのひみつまでもうちあけられるほどのなかになっていたのだ。しかし、)
うちわの秘密までも打ちあけられるほどの仲になっていたのだ。「しかし、
(おくさん、このよのげんじつは、そんなにしょうせつてきなものじゃありませんよ。)
奥さん、この世の現実は、そんなに小説的なものじゃありませんよ。
(こんどのことも、ぼくはふりょうしょうねんかなんかの、いたずらではないかと)
こんどのことも、僕は不良少年かなんかの、いたずらではないかと
(おもっているほどです たんていはいかにもきのりうすにみえた。でも、あなたは)
思っているほどです」探偵はいかにも気乗りうすに見えた。「でも、あなたは
(たいへんねっしんにたんていのしごとをしていらっしゃるじゃありませんか。よなかにろうかを)
大へん熱心に探偵の仕事をしていらっしゃるじゃありませんか。夜中に廊下を
(おあるきなすったり、ほてるのぼーいたちにいろいろなことをおたずねなすったり)
お歩きなすったり、ホテルのボーイたちにいろいろなことをおたずねなすったり
(わたくしよくぞんじていますわ あなたは、そんなことまで、ちゅういして)
わたくしよく存じていますわ」「あなたは、そんなことまで、注意して
(いらっしゃるのですか、すみにおけませんね あけちはひにくにいってじろじろと)
いらっしゃるのですか、隅におけませんね」明智は皮肉に言ってジロジロと
(ふじんのうつくしいかおをながめた。わたくし、これはいたずらやなんかじゃ、けっして)
夫人の美しい顔を眺めた。「わたくし、これはいたずらやなんかじゃ、決して
(ないとおもいます。だいろっかんとやらで、そんなふうにかんじますの。あなたもよほど)
ないと思います。第六感とやらで、そんなふうに感じますの。あなたもよほど
(きをおつけなさらないといけませんわ ふじんもまけずに、たんていをみかえしながら、)
気をおつけなさらないといけませんわ」夫人も負けずに、探偵を見返しながら、
(いみありげにおうしゅうした。いや、ありがとう。しかしごあんしんください。ぼくが)
意味ありげに応酬した。「いや、ありがとう。しかし御安心ください。僕が
(ついているからにはおじょうさんはあんぜんです。どんなきょうぞくでも、ぼくのめをかすめる)
ついているからにはお嬢さんは安全です。どんな兇賊でも、僕の眼をかすめる
(ことはまったくふかのうです ええ、それは、あなたのおちからはよくぞんじていますわ。)
ことは全く不可能です」「ええ、それは、あなたのお力はよく存じていますわ。
(でも、あの、こんどだけは、なんだかべつなようにおもわれてなりませんの。あいてが)
でも、あの、こんどだけは、なんだか別なように思われてなりませんの。相手が
(とびはなれたまりょくをもっている、おそろしいやつだというような・・・・・・ああ、)
飛びはなれた魔力を持っている、恐ろしいやつだというような……」ああ、
(なんというだいたんふてきのおんなであろう。かのじょはいちだいのめいたんていをまえにして、かのじょじしんを)
なんという大胆不敵の女であろう。彼女は一代の名探偵を前にして、彼女自身を
(さんびしているのだ。ははははは、おくさんは、かそうのぞくをたいへんごひいきの)
讃美しているのだ。「ハハハハハ、奥さんは、仮想の賊を大へんごひいきの
(ようですね。ひとつかけをしましょうか あけちはじょうだんらしく、きみょうなていあんをした。)
ようですね。一つ賭けをしましょうか」明智は冗談らしく、奇妙な提案をした。
(まあ、かけでございますって?すてきですわ、あけちさんとかけをするなんて。)
「まあ、賭けでございますって?すてきですわ、明智さんと賭けをするなんて。
(わたくし、このいちばんたいせつにしているくびかざりをかけましょうか ははははは、)
わたくし、この一ばん大切にしている首飾りを賭けましょうか」「ハハハハハ、
(おくさんはほんきのようですね。じゃあ、もしぼくがしっぱいしておじょうさんがゆうかいされる)
奥さんは本気のようですね。じゃあ、もし僕が失敗してお嬢さんが誘拐される
(ようなことがあれば、そうですね、ぼくはなにをかけましょうか たんていという)
ようなことがあれば、そうですね、僕は何を賭けましょうか」「探偵という
(しょくぎょうをおかけになりませんこと?そうすれば、わたくし、もっているかぎりの)
職業をお賭けになりませんこと?そうすれば、わたくし、持っているかぎりの
(ほうせきるいを、ぜんぶかけてもいいとおもいますわ それはゆうかんまだむにありがちな、)
宝石類を、全部賭けてもいいと思いますわ」それは有閑マダムにありがちな、
(とっぴょうしもないきまぐれのようにもとればとれるいいかたであった。だがそのうらに、)
突拍子もない気まぐれのようにも取れば取れる言い方であった。だがその裏に、
(めいたんていにたいする、にょぞくのもえるようなとうしがかくされていたことを、あけちは)
名探偵に対する、女賊のもえるような闘志がかくされていたことを、明智は
(さとりえたであろうか。おもしろいですね。つまり、ぼくがまけたらはいぎょうして)
さとり得たであろうか。「おもしろいですね。つまり、僕が負けたら廃業して
(しまえとおっしゃるのでしょう。おんなのあなたが、いのちからにばんめのほうせきをすっかり)
しまえとおっしゃるのでしょう。女のあなたが、命から二番目の宝石をすっかり
(なげだしていらっしゃるのに、おとこのぼくたるもの、しょくぎょうぐらいはなんでもないこと)
投げ出していらっしゃるのに、男の僕たるもの、職業ぐらいはなんでもないこと
(ですね あけちもまけていなかった。ほほほほほ、ではおやくそくしましてよ。)
ですね」明智も負けていなかった。「ホホホホホ、ではお約束しましてよ。
(わたくし、あけちさんをはいぎょうさせてみとうございますわ ええ、やくそくしました。)
わたくし、明智さんを廃業させてみとうございますわ」「ええ、約束しました。
(ぼくもあなたのおびただしいほうせきがころがりこんでくるのをたのしみにして)
僕もあなたのおびただしい宝石がころがり込んでくるのを楽しみにして
(いましょうよ。ははははは そして、じょうだんがいつのまにかしんけんらしいものに)
いましょうよ。ハハハハハ」そして、冗談がいつのまにか真剣らしいものに
(なってしまった。ちょうど、そのとほうもないそうだんがなりたったところへ、)
なってしまった。ちょうど、その途方もない相談が成り立ったところへ、
(それともしらぬ、とうのさなえさんがちかづいて、にこやかにこえをかけた。まあ、)
それとも知らぬ、当の早苗さんが近づいて、にこやかに声をかけた。「まあ、
(おふたりで、なにをひそひそおはなしなすってますの。あたしもおなかまにいれて)
お二人で、何をヒソヒソお話しなすってますの。あたしもお仲間に入れて
(くださらない かのじょはさもかいかつらしくよそおってはいたけれど、そのかおいろに)
くださらない」彼女はさも快活らしくよそおってはいたけれど、その顔色に
(どこかしらふあんのかげがただようのをかくすことはできなかった。あら、)
どこかしら不安の影がただようのをかくすことはできなかった。「あら、
(おじょうさん、さあ、ここへおかけなさい。いまね、あけちさんがたいくつでしようが)
お嬢さん、さあ、ここへお掛けなさい。今ね、明智さんが退屈でしようが
(ないって、こぼしていらっしゃいましたのよ。だって、あんなこと、だれかの)
ないって、こぼしていらっしゃいましたのよ。だって、あんなこと、だれかの
(いたずらにきまっているんですものね みどりかわふじんは、さなえさんをいたわるように)
いたずらにきまっているんですものね」緑川夫人は、早苗さんをいたわるように
(こころにもないきやすめをいった。そこへ、いわせしもやってきて、いちざはよにんになり、)
心にもない気安めをいった。そこへ、岩瀬氏もやってきて、一座は四人になり、
(みんながきをそろえてじけんにはふれず、さしさわりのないせけんばなしをはじめたが、)
みんなが気をそろえて事件にはふれず、さしさわりのない世間話をはじめたが、
(しぜんのいきおいとして、いわせしはあけちたんてい、みどりかわふじんはさなえさん、おとこはおとこ、)
自然の勢いとして、岩瀬氏は明智探偵、緑川夫人は早苗さん、男は男、
(おんなはおんなと、かいわがふたつにわかれていった。)
女は女と、会話が二つにわかれて行った。