人魚謎お岩ごろし
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問題文
(じょ きえうせたにんぎょ)
序 消え失せた人魚
(いまこそ、にさんりゅうのげきじょうをあるいているとはいえ、そのむかし、あさおりこうのいちざには、)
今こそ、二三流の劇場を歩いているとはいえ、その昔、浅尾里虹の一座には、
(やはりこやがけののてんしばいじだいがあった。それでこそ、そのなはわたしたちのみみに、)
やはり小屋掛けの野天芝居時代があった。それでこそ、その名は私たちの耳に、
(なかなかふぁみりあーでもあり、よしんばあのさんげきがおこらなかったにしろ、)
なかなか親しみ深くでもあり、よしんばあの惨劇が起らなかったにしろ、
(どうしてどうしてわすれされるものではなかった。というのは、そのいちざには、)
どうしてどうして忘れ去れるものではなかった。と云うのは、その一座には、
(にほんでいっかしょといってもよいとくしゅなじょうえんしゅもくがあった。それがほかならぬ、)
日本で一ヶ所と云ってもよい特殊な上演種目があった。それがほかならぬ、
(ころしものだったのである。そこで、ひとつふたつれいをあげていうと、)
流血演劇だったのである。そこで、一つ二つ例をあげて云うと、
(さくらそうごろう のなかでは、ひにんのやりでわきばらをつらぬくしかけなどをみせ、)
「東山桜荘子」の中では、ひ人の槍で脇腹を貫く仕掛などを見せ、
(なつまつりのどろじあい、いせおんどあぶらやのじゅうにんぎりなどはともかくとして、てんかぢゃやの)
夏祭の泥試合、伊勢音頭油屋の十人斬などはともかくとして、天下茶屋の
(もとえもんには、げんぽんどおりきもをひきぬかせまでするのであるから、みみをおおい)
元右衛門には、原本どおり肝を引き抜かせまでするのであるから、耳を覆い
(めをふさがねばならぬようなしぐさがこうぜんとおこなわれ、ひわいかいきざんにんをきわめたばめんが)
眼を塞がねばならぬような所作が公然と行われ、卑わい怪奇残忍を極めた場面が
(それからそれへと、ひっきりなしにつづいてゆくのだった。さらにそれいがいにも、)
それからそれへと、ひっきりなしに続いてゆくのだった。さらにそれ以外にも、
(いまどきとうていみることのできない、けれんものなどもじょうえんされて、)
今どきとうてい見ることのできない、ケレンものなども上演されて、
(こまちざくら や てんじくとくべえいこくばなし では、ざがしらのりこうが、めまぐるしいふきかえを)
「小町桜」や「天竺徳兵衛韓噺」では、座頭の里虹が、目まぐるしい吹き換えを
(おこない、はては、ふくわじゅつなどももちいたというほどであるから、しぜんとかんきゃくは、)
行い、はては、腹話術なども用いたというほどであるから、自然と観客は、
(ちみどろのげんえいにうかされてしまって、いつとなく、まむのようなかつごうを)
血みどろの幻影にうかされてしまって、いつとなく、魔夢のような渇仰を
(このいちざにいだくようになった。しかし、ここでふしぎは、なんぼくのよつやかいだんであるが)
この一座に抱くようになった。しかし、ここで奇異は、南北の四谷怪談であるが
(それだけは、かつてこのいちざのぶたいにあがったためしがなかったのである。)
それだけは、かつてこの一座の舞台に上ったためしがなかったのである。
(じじつさくしゃも、ようしょうのころおい、このいちざのえかんばんにはすうかいとなくせっしていて、)
事実作者も、幼少のころおい、この一座の絵看板には数回となく接していて、
(かさねやそうぜんじばばのおおいしごろし、または、だいじゃのどくけでつるつるになった)
累や崇禅寺馬場の大石ごろし、または、大蛇の毒気でつるつるになった
(もんじろうのかおなどが、とうじのあくむさながらにとめられているのである。それゆえ、)
文次郎の顔などが、当時の悪夢さながらに止められているのである。それゆえ、
(もしそのとうじに、おいわやいえもんはまだしものこと、せめてたくえつのかおにでも)
もしその当時に、お岩や伊右衛門はまだしものこと、せめて宅悦の顔にでも
(せっしていたならば、さくしゃがどうしんにうけたきずは、さらによりいじょうふかかったろうと)
接していたならば、作者が童心にうけた傷は、さらにより以上深かったろうと
(おもわれる。ところがついにそれは、こしばいにありきたりの、いんがばなしでは)
思われる。ところがついにそれは、小芝居にありきたりの、因果噺では
(なかったのである。よせのこうざで、がんどうのあかりに、えごうくうきでてくる)
なかったのである。寄席の高座で、がんどうの明りに、えごうく浮き出てくる
(ようかいのかおや、かくおびをきゅっとしごいて、あかごのなきごえを)
妖怪の顔や、角帯をキュッとしごいて、赤児の泣き声を
(きかせるといったていの そうしたゆーもらすなおそろしさではなかった。)
聴かせるといった躰のーそうしたユーモラスな怖ろしさではなかった。
(それとは、しんじつにてもつかぬ、ちとじんたいけいせいのひげきだったのである。)
それとは、真実似てもつかぬ、血と人体形成の悲劇だったのである。
(きょうらんしたにくよくが、かみのさだめもひとのおきてもあっけなくふみこえて、ただひたすらに)
狂乱した肉慾が、神の定めも人の掟もあっけなく踏み越えて、ただひたすらに
(つくりあげたけっさくがこれであり、りこういちざのひとたちは、まったくあぶらのじごくの)
作り上げた傑作がこれであり、里虹一座の人たちは、まったく油地獄の
(それのように、うちまくあぶらながれるち、ふみのめらかしふみすべらかして、)
それのように、うちまく油流れる血、踏みのめらかし踏みすべらかして、
(とめどないあしのぬめりに、そこしれずおちこんでいくのだった。そこでさくしゃは、)
とめどない足のぬめりに、底知れず堕ち込んで行くのだった。そこで作者は、
(あのおんみつのてのことをかたりたいのである。それには、しゅくめいのいとをたんねんにほぐし)
あの隠密の手のことを語りたいのである。それには、宿命の糸を丹念にほぐし
(たぐりよせて、ついかいのひげきまでをあまさずしるしてゆかねばならぬのであるが、)
手繰り寄せて、終回の悲劇までを余さず記してゆかねばならぬのであるが、
(まずなにより、じゅんじょとしてりこうのぜんしんにふれ、あのおどろくべきでんきてきなつながりを)
まず何より、順序として里虹の前身に触れ、あの驚くべき伝奇的な絡がりを
(あきらかにしておきたいとおもう。こんせいきのはじめ、けるれるはかせのはつぎによって、)
明らかにしておきたいと思う。今世紀のはじめ、ケルレル博士の発議によって、
(でんまーくりょうりべーじまに、はんざいしゃしょくみんがおこなわれた。またさらに、それから)
丁抹領リベー島に、犯罪者植民が行われた。またさらに、それから
(いち、にせいきさかのぼって、ふりーどりっひ・ういるへるむいっせいのころには、ていのいじょうな)
一、二世紀遡って、フリードリッヒ・ウイルヘルム一世の頃には、帝の異常な
(しゅみからきょじんのだんじょをこんせしめ、いわゆるぽつだむのきょへいをつくろうとした。)
趣味から巨人の男女を婚せしめ、いわゆるポツダムの巨兵を作ろうとした。
(ところが、にほんにおいてもてんめいのころ、そのふたつをあわしたような、じせきが)
ところが、日本においても天明のころ、その二つを合したような、事蹟が
(のこされているのだ。それがきしゅうこうあねがわたんげいだったのである。せいしにおいてすら、)
残されているのだ。それが紀州公姉川探鯨だったのである。正史においてすら、
(ほのかではあるけれど、すぺいんとのみつぼうえきのけんぎがしるされているように、)
仄かではあるけれど、西班牙との密貿易の嫌疑が記されているように、
(ゆうしきんじがたいふきほんぽうのせいかくは、りゅうきゅうれっとうのみなみけたからとうのなんなんとうに、)
雄志禁じ難い不覊奔放の性格は、琉球列島の南毛多加良島の南々東に、
(ささやかないちさんごしょうをはっけんした。そこに、かたわらたいくのすぐれたはんにんだんじょを)
ささやかな一珊瑚礁を発見した。そこに、かたわら体躯の優れた犯人男女を
(おくって、いずれはきんじにふさわしい、きょじんいくせいほうがこころみられたのであった。)
送って、いずれは近侍に適わしい、巨人育成法が試みられたのであった。
(そのしまはいきどじまとなづけられて、あらしのあと、くうきのつめたくみにこたえるころには)
その島は夷岐戸島と名づけられて、嵐のあと、空気の冷たく身に堪えるころには
(らくじつのしまをあびて、けたからとつからもえんぼうされた。そのなかで、たえず)
落日の縞を浴びて、毛多加良島からも遠望された。そのなかで、絶えず
(しゅうじんたちは、あわただしいきあつのへんかや、ちいさななみをのみつくしてしまうような)
囚人たちは、慌しい気圧の変化や、小さな波を呑み尽してしまうような
(おおなみのしゅつげん、いかづちのようなかいていじしんのとどろき などにきをうたれていたが、やがて、)
大波の出現、雷のような海底地震の轟きーなどに気を打たれていたが、やがて、
(うみのはーもにーのすべてをしりつくしてしまうと、しずかにしゃめんのひを)
海の階調のすべてを知り尽くしてしまうと、静かに赦免の日を
(まつようになった しかしそれは、かれらのじだいにきょじんをえたさいのことである。)
待つようになったーしかしそれは、彼らの次代に巨人を得た際のことである。
(ところが、まもなくこのいちことうに、ふしぎなしゅうじんがおとずれることになった。)
ところが、まもなくこの一孤島に、不思議な囚人が訪れることになった。
(というのはたんげいのがごうが、つかもねえというのでもわかるように、かれにはまた、つうじんてきな)
と云うのは探鯨の雅号が、無束というのでも分るように、彼にはまた、通人的な
(はんめんがあって、ことにはいゆうをあいしたのであった。けれども、けっきょくにはそれが)
半面があって、ことに俳優を愛したのであった。けれども、結局にはそれが
(わざわいとなって、あろうことかせいしつうすゆきのほうが、かみがたやくしゃりこうとみちならぬつまを)
禍いとなって、あろうことか正室薄雪の方が、上方役者里虹と道ならぬ褄を
(かさねたのである。うすゆきのほうは、さがにいきょうのそくじょであり、いっぽうはもんばつもなく、)
重ねたのである。薄雪の方は、嵯峨二位卿の息女であり、一方は門閥もなく、
(ななりょうのしたまわりからたたきあげたせんりょうやくしゃなのであるが、ついにそのふたりは、)
七両の下廻りから叩き上げた千両役者なのであるが、ついにその二人は、
(しまのそとにあるこじまにへだてられて、しぼんだはなのかおりを、ぜっかいのことうから)
島の外にある小島に隔てられて、凋んだ花の香りを、絶海の孤島から
(しのぶみになったのである。しかし、このことうのしょざいは、たんげいのしとどうじに)
偲ぶ身になったのである。しかし、この孤島の所在は、探鯨の死と同時に
(くにがえなどもあって、ついにあねがわけのきろくから、)
国替えなどもあって、ついに姉川家の記録から、
(きえうせてしまったのであった。ところが、それから)
消え失せてしまったのであった。ところが、それから
(なんじゅうねんたったあとのことだったろうか、はからずもるとうのさいじっかにおくったぶんしょが)
何十年経った後のことだったろうか、はからずも流島のさい実家に送った文書が
(さがけからはっけんされて、ようやくさんびをきわめたるとうしがひのめを)
嵯峨家から発見されて、ようやく惨鼻を極めた流島史が陽の目を
(みることになった。というのが、めいじにじゅういちねんさんがつのこと さがけのとうしゅは、)
見ることになった。と云うのが、明治廿一年三月のことー嵯峨家の当主は、
(そのおりかいよっとにじょうじてにほんにかいこうした、ちょめいなせいりがくしゃ)
そのおり快走艇に乗じて日本に廻航した、著名な生理学者
(べるなるど・で・くいろすきょうじゅにうちあけて、きとそのことうに、)
ベルナルド・デ・クイロス教授に打ち明けて、帰途その孤島に、
(たちよられんことをこんがんしたのであったが、どうしたことか、そのご)
立ち寄られんことを懇願したのであったが、どうしたことか、その後
(はのーヴぁーにうつったきょうじゅからは、なんのおとさたもなく、そうしてひとうつり)
ハノーヴァーに移った教授からは、なんの音沙汰もなく、そうして人移り
(ほしかわるうちに、いつとはなくわすれさられてしまったのであった。ところが、)
星変るうちに、いつとはなく忘れ去られてしまったのであった。ところが、
(ことしになって、はしなくもそのことうにまつわる、ひみつがばくろされたというのは、)
今年になって、はしなくもその孤島にまつわる、秘密が曝露されたと云うのは、
(きょうじゅのいひんとして、いっつうのぶんしょとあぶらえとがおくられてきたからだった。)
教授の遺品として、一通の文書と油絵とが送られて来たからだった。
(さくしゃは、じぎょうにそのぜんぶんをかかげて、このじけんのほったんをおわりたいとおもう。 )
作者は、次行にその全文を掲げて、この事件の発端を終りたいと思う。