黒死館事件121
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問題文
(それには、ふたつのいじょうなれいちが、せいしをかけとしてまでうちあうそうかんが)
それには、二つの異常な霊智が、生死を賭としてまで打ち合う壮観が
(えがかれていた。けんじは、くされたまったいきでちっそくしそうになったのを、)
描かれていた。検事は、腐れ溜った息で窒息しそうになったのを、
(あやうくはきだして、すると、とうぜんりねぞるむ・おるきでえのとりっくが、かりりよんしつのどあや)
危く吐き出して、「すると、当然その竜舌蘭の詭計が、鐘鳴器室の扉や
(ぞーでぃあっくのえんげまどにもおこなわれたのだろうがね。しかし、あのときははたたろうがはんにんに)
十二宮の円華窓にも行われたのだろうがね。しかし、あの時は旗太郎が犯人に
(してきされ、じぶんじしんは、しょうりとへいあんのぜっちょうにのぼりつめた そのところで、)
指摘され、自分自身は、勝利と平安の絶頂に上りつめたーーそのところで、
(のぶこはふしぎにもじさつをとげているのだ。のりみずくん、そのとうていげしきれない)
伸子は不思議にも自さつを遂げているのだ。法水君、そのとうてい解しきれない
(ぎもんというのは・・・・それがはぜくらくん、あのよるさいごにぼくがのぶこにいった)
疑問と云うのは・・・・」「それが支倉君、あの夜最後に僕が伸子に云ったーー
(いろはきなるあき、よるのともしびをすぎればあかきはるのはなとならん という)
色は黄なる秋、夜の灯を過ぎれば紅き春の花とならんーーという
(けるねるのしにあるんだよ。まさにそのしゅんかん、のぶこはひさんなてんらくを)
ケルネルの詩にあるんだよ。まさにその瞬間、伸子は悲惨な転落を
(いしきしなければならなかったのだ。なぜなら、がんらいあれきさんどらいとという)
意識しなければならなかったのだ。何故なら、元来アレキサンドライトという
(ほうせきは、でんとうのひかりですかすと、それがしんくにみえるからだ。そこでぼくは、のぶこが)
宝石は、電燈の光で透かすと、それが真紅に見えるからだ。そこで僕は、伸子が
(れヴぇずにあのへやをしていして、じぶんはあれきさんどらいとをかみかざりにつけ、)
レヴェズにあの室を指定して、自分はアレキサンドライトを髪飾りにつけ、
(それにでんとうのひかりをすかさせて、れヴぇずをしついせしめた)
それに電燈の光を透過させて、レヴェズを失意せしめたーー
(とかいしゃくするにいたった。ねえはぜくらくん、このけいくはどうだろうね。)
と解釈するに至った。ねえ支倉君、この警句はどうだろうね。
(れヴぇず あのはんがりーのつるばずーるは、あきをはるとみてこのよをさった と)
レヴェズーーあの洪牙利の恋愛詩人は、秋を春と見てこの世を去ったーーと」
(とひといきふかくたばこをすいこんでからふたりがわくらんぎみにたんそくするのもかまわず、)
と一息深く莨を吸いこんでから二人が惑乱気味に嘆息するのも関わず、
(のりみずはいいつづけた。ところが、あのきからくれない には、なおそれいがいにも)
法水は云い続けた。「ところが、あの黄から紅ーーには、なおそれ以外にも
(べつのいぎがあって、もちろんぼくが、さんとにんのきししょうをとうししたというのも、)
別の意義があって、勿論僕が、サントニンの黄視症を透視したというのも、
(ぐうぜんのしょさんではなかったのだよ。なぜなら、それから、はんにんのかずきぜいじょうたいを)
偶然の所産ではなかったのだよ。何故なら、それから、犯人の潜勢状態を
(てっけつしたからだ。それをほかのことばでいうと、きょうこうによってうけたはんにんの)
剔抉したからだ。それを他の言葉で云うと、兇行によってうけた犯人の
(せいしんてきがいしょう つまり、そのさいにあたえられたしむぼるやかんねんの、)
精神的外傷ーーつまり、その際に与えられた表象や観念の、
(かんかくてきじょうちょてきけいけんのさいげんにあったのだ。もちろんぼくは、しんいしんもんかいのじょうけいを)
感覚的情緒的経験の再現にあったのだ。勿論僕は、神意審問会の情景を
(さいげんしたさいに、なんとなくのぶこのにおいがつよくはなをうってきたのだ。で、こころみに、)
再現した際に、なんとなく伸子の匂いが強く鼻を打ってきたのだ。で、試みに、
(きしとふうしのあらんかぎりをつくし、おざなりのねつぞうをはたたろうにむけてみた。)
譏詞と諷刺のあらん限りを尽し、お座なりの捏造を旗太郎に向けてみた。
(いうまでもなく、それはのぶこのきんちょうとけいかいをとりさるためだったのだが、)
云うまでもなく、それは伸子の緊張と警戒を取り去るためだったのだが、
(もちろんだんねべるぐふじんのじどうしゅきは、のぶこがてれーずのなを)
勿論ダンネベルグ夫人の自働手記は、伸子がテレーズの名を
(かかせたのだったし、れヴぇずのしとぼしこんのしんそういがいは、)
書かせたのだったし、レヴェズの死と拇指痕の真相以外は、
(なにひとつしんじつでなかったのだよ。それで、ふときからくれないに というひとことを、)
何一つ真実でなかったのだよ。それで、ふと黄から紅にーーという一言を、
(あれきさんどらいととるびーのかんけいに、あれごりーとしてつかってみた。ところが、)
アレキサンドライトと紅玉の関係に、寓喩として使ってみた。ところが、
(いがいにも、それがぜんぜんことなったかたちとなって、のぶこのしんぞうのなかに)
意外にも、それが全然異なった形となって、伸子の心像の中に
(あらわれてしまったのだ。というのは、らいんはるとの じょじょうしのかいふかいのひょうしゅつ)
現われてしまったのだ。と云うのは、ラインハルトの『抒情詩の快不快の表出』
(というちょじゅつのなかに、はるぴんのし あいりっしゅ・あすとろのみー のことがしるされてある。)
という著述の中に、ハルピンの詩『愛蘭土星学』のことが記されてある。
(そのなかのいっく せんと・ぱとりっく・せえっど・え・らいおん・らいす・ぜあ・つう・べあす・)
その中の一句ーー聖パトリック云いけらく獅子座彼処にあり、二つの大熊、
(え・ぶる・えんど・きゃんさー とそのきゃんさー cancer というかしょにくると、)
牡牛、そうして巨蟹がーーとその巨蟹(Cancer)という個所に来ると、
(ろうどくしゃはとつぜん、それをきゃならー canalar とはつおんしてしまったというのだ。)
朗読者は突然、それを運河(Canalar)と発音してしまったと云うのだ。
(つまり、そのろうどくしゃが、それまでせいざのかたちをあたまのなかにえがいていたからで、)
つまり、その朗読者が、それまで星座の形を頭の中に描いていたからで、
(いわゆるふろいどのいう いいそこないのひょうめいにこびりついているかんかくてきこんせき)
いわゆるフロイドの云うーー言い損いの表明にこびりついている感覚的痕跡ーー
(にそういないのだ。また、いちめんにはれんそうというものが、そのいちじいちじにはあらわれず)
に相違ないのだ。また、一面には聯想というものが、その一字一字には現われず
(ぜんたいのけいたいてきいんしょう つまり、くうかんてきなかんかくとなってあらわれたとも)
全体の形体的印象ーーつまり、空間的な感覚となって現われたとも
(いえるだろう。しかし、のぶこのばあいになると、それが、だんねべるぐじけんから)
云えるだろう。しかし、伸子の場合になると、それが、ダンネベルグ事件から
(れいはいどうのさんげきにいたる つごうよっつのじけんをひょうしゅつかしてしまったのだ。なぜなら)
礼拝堂の惨劇に至るーー都合四つの事件を表出化してしまったのだ。何故なら
(のぶこは、おれんじといったあとで、すとろーをたばにしてれもなーでをのむ)
伸子は、洋橙と云った後で、麦藁を束にして檸檬水を嚥むーー
(ということばをはいた。とうぜんそれには、かりりよんにならんでいるけんばんのれつが、)
という言葉を吐いた。当然それには、鐘鳴器に並んでいる鍵盤の列が、
(そのいんしょうにはいけいをなしているとおもわれた。それから、つづいて)
その印象に背景をなしていると思われた。それから、続いて
(だんねべるぐふじんのなを、だーねぶろーぐ danebrog といいそこなったのだが、)
ダンネベルグ夫人の名を、丁抹国旗(Danebrog)と云い損ったのだが、
(それにはあからさまに、ぶぐしつのぜんぼうがあらわれているのだ。というのは、)
それには明らさまに、武具室の全貌が現われているのだ。と云うのは、
(あのときのぶこは、ぜんていのぼるけんはうすのなかにいて、れヴぇずのつくったにじのもうきが、)
あの時伸子は、前庭の樹皮亭の中にいて、レヴェズの作った虹の濛気が、
(まどからはいりこんでゆくのを、ながめていた。ところが、あのぼるけんはうすのうちわくには、)
窓から入り込んでゆくのを、眺めていた。ところが、あの樹皮亭の内枠には、
(さまざまなしぶんがきざみこまれていて、そのなかにふぃっつなーの)
様々な詩文が刻み込まれていて、その中にフィッツナーの
(だん・ねーべる・ろー・ぐくてん dann, nebel-loh-guckten)
その時霧は輝きて入りぬ(Dann, Nebel-loh-guckten)
(のいちぶんがあったのだ。つまり、そのさいのこんこうされたいんしょうがだーねぶろーぐという、)
ーーの一文があったのだ。つまり、その際の混淆された印象が丁抹国旗という、
(そうじしたしつごになってあらわれたのだよ。そうするとはぜくらくん、)
相似した失語になって現われたのだよ。そうすると支倉君、
(あのよんくにわかれていたのぶこのことばのなかで、かりりよんしつとぶぐしつと)
あの四句に分れていた伸子の言葉の中で、鐘鳴室と武具室とーー
(こうふたつのいんしょうだけが、きみょうにも、まんなかにさしはさまれている。となると・・・・・・)
こう二つの印象だけが、奇妙にも、真中に挾まれている。となると」
(とことばをきって、そのおどろくべきしんりぶんせきに、のりみずは、さいごのけつろんをあたえた。)
と言葉を切って、その驚くべき心理分析に、法水は、最後の結論を与えた。
(するととうぜん、そのしゅびにあるきとくれない 。そのふたつからうけたかんかくが、)
「すると当然、その首尾にある黄と紅ーー。その二つからうけた感覚が、
(さいしょのだんねべるぐじけんと、おわりのれいはいどうのばめんでなければならないだろう。)
最初のダンネベルグ事件と、終りの礼拝堂の場面でなければならないだろう。
(そうして、さいごのくれないが、けんらんたるかぺるまいすたーのしゅいろのいしょうだとすれば、なぜさいしょの)
そうして、最後の紅が、絢爛たる宮廷楽師の朱色の衣裳だとすれば、何故最初の
(だんねべるぐじけんから、のぶこは、きというかんかくをうけたのだろうか)
ダンネベルグ事件から、伸子は、黄という感覚をうけたのだろうか」
(そのあいだけんじとくましろは、さながらよえるがごときかんどうにつつまれていた。)
そのあいだ検事と熊城は、さながら酔えるがごとき感動に包まれていた。
(が、ややあってから、くましろはおもむろにふめいなてんをたずねた。)
が、ややあってから、熊城はおもむろに不明な点を訊ねた。