黒死館事件119

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小栗虫太郎の作品です。
句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(さんにんがこくしかんについたときは、ちょうどのぶこのそうぎがはじまっていた。そのひはかぜが)

三人が黒死館に着いた時は、ちょうど伸子の葬儀が始まっていた。その日は風が

(あらく、ゆきでもふくんでいそうなうすずみいろのくもが、ひくくじゅりんのこずえまぎわにまで)

荒く、雪でも含んでいそうな薄墨色の雲が、低く樹林の梢間際にまで

(たれさがっていて、それがいつまでもうごかなかった。そういったこうりょうたる)

垂れ下っていて、それがいつまでも動かなかった。そういった荒涼たる

(ふうぶつのなかで、こうないはひとかげもまばらなほどのうらさびしさ、とぴありーのまがきがゆれ、かれえだが)

風物の中で、構内は人影も疎らなほどの裏淋しさ、象徴樹の籬が揺れ、枯枝が

(はしりざわめいて、そのなかから、ようぜんとまきおこってくるのが、れいはいどうで)

走りざわめいて、その中から、湧然と捲き起ってくるのが、礼拝堂で

(おこなわれている、みせりこるでぃあのがっしょうだった。のりみずはやかたにはいると、ひとりでさろんのなかに)

行われている、御憐憫の合唱だった。法水は館に入ると、独りで広間の中に

(はいっていったが、そこでかれのけつろんがうらがきされたことは、ふたたび)

入って行ったが、そこで彼の結論が裏書きされたことは、再び

(だんねべるぐふじんのへやで、ふたりのまえにあらわれたときのかおいろでわかった。そして、)

ダンネベルグ夫人の室で、二人の前に現われた時の顔色で判った。そして、

(いまやれいはいどうに、かぞくのいちどうにおしがねはかせまでもくわえた かんけいしゃのぜんぶが)

いまや礼拝堂に、家族の一同に押鐘博士までも加えたーー関係者の全部が

(つどっているのをしると、のりみずはなんとおもったか、そうぎのほっそくを)

集っているのを知ると、法水はなんと思ったか、葬儀の発足を

(しばらくえんきするようにめいじた。それから、もちろん、はんにんが)

しばらく延期するように命じた。それから、「勿論、犯人が

(れいはいどうのなかにいるのはたしかなんだよ。しかも、もうぜったいに)

礼拝堂の中にいるのは確かなんだよ。しかも、もう絶対に

(うごくことのできぬじょうたいにある。けれども、ぼくはのぶこに ことにそのいがいが、)

動くことの出来ぬ状態にある。けれども、僕は伸子にーーことにその遺骸が、

(ちじょうにあるあいだに、はんにんのなをつげなければならぬぎむがあるとおもうのだ)

地上にある間に、犯人の名を告げなければならぬ義務があると思うのだ」

(といってしばらくくちをつぐんでいたが、やがて、さくざつしたかんじょうをかおにうかべて)

と云ってしばらく口を噤んでいたが、やがて、錯雑した感情を顔に浮べて

(いいだした。ところではぜくらくん、さしものきょじんのじんえいがかききえてしまって、)

云い出した。「ところで支倉君、さしもの巨人の陣営が掻き消えてしまって、

(このやかたはふたたびはくじつのもとにさらされることになった。そこで、まずじゅんじょどおりに、)

この館は再び白日の下に曝されることになった。そこで、まず順序どおりに、

(さいしょのだんねべるぐじけんからせつめいしてゆくことにしよう。しかし、あのときふじんが)

最初のダンネベルグ事件から説明してゆくことにしよう。しかし、あの時夫人が

(なぜぶらっどおれんじのみをとったかというてんに、ぼくはいままであのじおですいく・らいん)

何故ブラッド洋橙のみを取ったかという点に、僕は今まであの最短線ーー

(さんとにん くちゅうざい のきししょうをおろそかにしていたのだ。あのしやいちめんを)

サントニン(駆虫剤)の黄視症を疎かにしていたのだ。あの視野一面を

など

(きいろにかしてしまうちゅうどくしょうじょうが、かるいきんしのせいもてつだって、くだものさらのうえから、)

黄色に化してしまう中毒症状が、軽い近視のせいも手伝って、果物皿の上から、

(なしもそれいがいのおれんじも、さらのちとおなじいっしょくにぬりつぶしてしまったのだよ。)

梨もそれ以外の洋橙も、皿の地と同じ一色に塗り潰してしまったのだよ。

(したがって、とくいなあかみをおびているぶらっどおれんじのみしか、)

したがって、特異な赤味を帯びているブラッド洋橙のみしか、

(だんねべるぐふじんのめにはうつらなかったのだ。それにまた、)

ダンネベルグ夫人の眼には映らなかったのだ。それにまた、

(さんとにんちゅうどくとくゆうのげんみげんかくなどがともなったので、あれほどちしりょうを)

サントニン中毒特有の幻味幻覚などが伴ったので、あれほど致死量を

(はるかにこえたいしゅうのあるどくぶつでも、だんねべるぐふじんはうたがわず)

はるかに越えた異臭のある毒物でも、ダンネベルグ夫人は疑わず

(えんかしてしまったのだよ。けれども、そのおもいつきというのは、けっして)

嚥下してしまったのだよ。けれども、その思い付きというのは、けっして

(ぐうぜんのしょさんではない。こんぽんのたんしょをいえば、やはり、はんにんにかしたぼくの)

偶然の所産ではない。根本の端緒を云えば、やはり、犯人に課した僕の

(しんりぶんせきにあったのだ。しかし、もうひとつ、そくめんからしげきしてきたものがあって)

心理分析にあったのだ。しかし、もう一つ、側面から刺戟してきたものがあって

(きみょうなことに、そのひとつのさんとにんがはんにんにもえいきょうをあたえ、そのりょうめんを)

奇妙なことに、その一つのサントニンが犯人にも影響を与え、その両面を

(あわせてみると、まるでいんがとようがのようにふごうしてしまうのだよ。というのは)

合わせてみると、まるで陰画と陽画のように符合してしまうのだよ。と云うのは

(ほかでもない、あのえんげいぐつのくつあとなんだ。あれはとうに、ぼくのかいせきから)

ほかでもない、あの園芸靴の靴跡なんだ。あれは既に、僕の解析から

(ぎぞうあしあとであることが、はんめいしたけれども、そのふくろのちゅうとでなんのいみもなく、)

偽造足跡であることが、判明したけれども、その復路の中途で何の意味もなく、

(とうぜんふめばよいとしかおもわれない、かれしばをおおきくまたぎこえている。ところが、)

当然踏めばよいとしか思われない、枯芝を大きく跨ぎ越えている。ところが、

(そのあやうくみのがすところだったびさいなてん いわばらな・かぷりなのものというものに、)

その危く見逃すところだった微細な点ー云わば毛ほどのものと云うものに、

(じつをいうと、はんにんのしめいをせいしたひとつのもうてんがあったのだよ。そこにぼくは、)

実を云うと、犯人の死命を制した一つの盲点があったのだよ。そこに僕は、

(ねめしすのまりょくを、しっかととらえることができた。このうんめいひげきでは、)

因果応報の神の魔力を、しっかと捉えることが出来た。この運命悲劇では、

(はんにんがぼるじあのじょどくとしてもちいた、さんとにんによって、しゅうきょくには)

犯人がボルジアの助毒として用いた、サントニンによって、終局には

(みずからがたおされなければならなかったのだ。なぜならはぜくらくん、はんにんは)

自らが斃されなければならなかったのだ。何故なら支倉君、犯人は

(だんねべるぐふじんとおなじに、じぶんもさんとにんをのまなければ)

ダンネベルグ夫人と同じに、自分もサントニンを嚥まなければ

(ならなかったのだから、とうぜんそうわかると、あのかれしばをなぜ)

ならなかったのだから、当然そう判ると、あの枯芝を何故

(またがねばならなかったか といういみが、はんぜんとするだろう。つまり、)

跨がねばならなかったかーーという意味が、判然とするだろう。つまり、

(それはいっしゅのうずいじょうのもうてんで、じぶんにはさほどのきししょうじょうも)

それは一種脳髄上の盲点で、自分にはさほどの黄視症状も

(おこっていないにかかわらず、とうぜんきししょうがはっしているとしんじてしまったのだ。)

起っていないにかかわらず、当然黄視症が発していると信じてしまったのだ。

(そして、あの やもくにきいろくひかってみえるかれしばを、みずたまりが、きししょうのために)

そして、あのーー夜目に黄色く光って見える枯芝を、水溜りが、黄視症のために

(きいろくみえた とさくごをおこしたからなんだよ。しかし、さんとにんがじんぞうに)

黄色く見えたーーと錯誤を起したからなんだよ。しかし、サントニンが腎臓に

(およぼしたえいきょうが、いっぽうあのしこうのせいいんを、たいないからひふのひょうめんへ)

及ぼした影響が、一方あの屍光の生因を、体内から皮膚の表面へ

(かつぎあげてしまったのだ それから、のりみずはとばりのなかにはいって、しんだいの)

担ぎ上げてしまったのだ」それから、法水は帷幕の中に入って、寝台の

(にすのしたにぐいとないふのはをいれた。すると、したにはまたちゃんようのそうがあって、)

塗料の下にグイと洋刀の刃を入れた。すると、下にはまた瀝青様の層があって、

(それにえんぴつのしりかんをちかづけると、かすかながらさだかにみえるけいこうがはっせられた。)

それに鉛筆の尻環を近づけると、微かながらさだかに見える螢光が発せられた。

(いままでは、しんだいのふきんに、したいのようなせいみつなちゅうしを)

「今までは、寝台の附近に、屍体のような精密な注視を

(ようきゅうするものがなかったので、それで、しぜんきがつかれなかったに)

要求するものがなかったので、それで、自然気がつかれなかったに

(ちがいないがね。もちろんこのちゃんようのものが、うらにうむをふくむ)

違いないがね。勿論この瀝青様のものが、ウラニウムを含む

(ぴっちぶれんどであることはいうまでもあるまい。そして、ぼくがいつぞや)

ピッチブレンドであることは云うまでもあるまい。そして、僕がいつぞや

(してきしたよっつのせいそうしこう、それがことごとくぼへみありょうをとりかこんでいるのだ。)

指摘した四つの聖僧屍光、それがことごとくボヘミア領を取り囲んでいるのだ。

(もちろんそれは、しんきゅうりょうきょうとのかっとうがうんだ、じいてきなかんさくにすぎないだろう。)

勿論それは、新旧両教徒の葛藤が生んだ、示威的な奸策にすぎないだろう。

(けれども、それがちりてきにせっきんしているのは、ちょうどそのちゅうしんに、)

けれども、それが地理的に接近しているのは、ちょうどその中心に、

(しゅさんちであるえるつさんかいがあるためにほかならないのだ。しかし、ようするに、)

主産地であるエルツ山塊があるためにほかならないのだ。しかし、要するに、

(あのせんこのしんぴは、いちじょうのりかがくてきさぎにすぎないのだよ。ところではぜくらくん、)

あの千古の神秘は、一場の理化学的瑣戯にすぎないのだよ。ところで支倉君、

(きみはあーせにっく・いーたーということばのいみをしっているだろうね。ことに、ちゅうせいのしゅうどうそうが)

君は砒食人という言葉の意味を知っているだろうね。ことに、中世の修道僧が

(おおくせいよくざいとしてひせきをもちいていたことは、ろーれるびやく ろーれるゆにきょくびの)

多く制慾剤として砒石を用いていたことは、ローレル媚薬(ローレル油に極微の

(せいさんをくわえたもの。けいれんをはっしていっしゅいようなげんかくをおこすじとくざい などとともに)

青酸を加えたもの。痙攣を発して一種異様な幻覚を起す自涜剤)などとともに

(ちょめいなはなしなんだ。ところが、ろだんの きっす のなかから、ぼくがいまはっけんした)

著名な話なんだ。ところが、ロダンの『接吻』の中から、僕がいま発見した

(ないようにもしるされているとおりで、だんねべるぐふじんもやはりあーせにっく・いーたー)

内容にも記されているとおりで、ダンネベルグ夫人もやはり砒食人ーー

(つねひごろしんけいびょうのちりょうざいとして、ふじんはびりょうのひせきをじょうようしていたのだ。)

常日頃神経病の治療剤として、夫人は微量の砒石を常用していたのだ。

(そうすると、ながいあいだには、そしきのなかにまでも、ひせきのむきせいぶんが)

そうすると、永い間には、組織の中にまでも、砒石の無機成分が

(しんとうしてしまう。したがって、さんとにんによってふしゅやはっかんがひふめんにおこると)

浸透してしまう。したがって、サントニンによって浮腫や発汗が皮膚面に起ると

(とうぜん、そこにぎょうしゅうしているひせきのせいぶんそうが、ぴっちぶれんどの)

当然、そこに凝集している砒石の成分層が、ピッチブレンドの

(うらにうむほうしゃのうをうけなければならないだろう もちろんげんしょうてきには、それで)

ウラニウム放射能をうけなければならないだろう」「勿論現象的には、それで

(じゅうぶんせつめいがつくだろうがね。また、どんなにひょうげんのもうろうたるものでも、)

十分説明がつくだろうがね。また、どんなに表現の朦朧たるものでも、

(たしかあたらしいみりょくにはちがいない。だがしかしだ。きみのせつめいは、こいにぐたいてきな)

たしか新しい魅力には違いない。だがしかしだ。君の説明は、故意に具体的な

(じょじゅつをさけているようにおもわれる。いったいはんにんはだれなんだ?とけんじは、ゆびを)

叙述を避けているように思われる。いったい犯人は誰なんだ?」と検事は、指を

(しんけいてきにからませて、ぐびっとつばをのみこんだ。)

神経的に絡ませて、グビッと唾を嚥み込んだ。

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