黒死館事件9

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小栗虫太郎の作品です。
句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(のりみずはくだものさらからめをはなして、しつないをあるきはじめた。とばりでくぎられている)

法水は果物皿から眼を離して、室内を歩きはじめた。帷幕で区劃られている

(そのいっかくは、ぜんぽうのへやといちじるしくおもむきをいにしていて、かべはいったいにはいいろの)

その一劃は、前方の室といちじるしく趣を異にしていて、壁は一帯に灰色の

(もるたるでぬられ、ゆかにはおなじいろで、むじのじゅうたんがしかれてあって、まどは)

膠泥で塗られ、床には同じ色で、無地の絨毯が敷かれてあって、窓は

(まえべやよりもややちいさく、いくぶんじょうほうにきられてあるので、ないぶははるかに)

前室よりもやや小さく、幾分上方に切られてあるので、内部ははるかに

(うすぐらかった。はいいろのかべとゆか、それにくろいとばり といえば、そのむかし)

薄暗かった。灰色の壁と床、それに黒い帷幕――と云えば、その昔

(ごーどぅん・くれいぐじだいのぶたいそうちをおもいだすけれども、そういうがいけんせいどうに)

ゴードゥン・クレイグ時代の舞台装置を想い出すけれども、そういう外見生動に

(とぼしいきちょうしょくが、なおいっそうこのへやをちんうつなものにしていた。ここもやはり、)

乏しい基調色が、なおいっそうこの室を沈鬱なものにしていた。ここもやはり、

(まえべやとどうようあれるにまかせていたらしく、あるくにつれて、かべのじょうほうからそうをなした)

前室と同様荒れるに任せていたらしく、歩くにつれて、壁の上方から層をなした

(ほこりがずりおちてくる。しつないのちょうどは、しんだいのそばにおおさけがめがたのたちきゃびねっとが)

埃が摺り落ちてくる。室内の調度は、寝台の側に大酒甕形の立卓笥が

(あるのみで、そのうえには、しんのおれたえんぴつをつけためもと、ひがいしゃがねるときに)

あるのみで、その上には、芯の折れた鉛筆をつけたメモと、被害者が臥る時に

(とりはずしたらしいきんしにじゅうよんどのべっこうめがね、それに、かきえのきぬしぇーどをつけた)

取り外したらしい近視二十四度の鼈甲眼鏡、それに、描き絵の絹覆をつけた

(すたんどとがのっていた。きんしきょうもそのていどでは、ただりんかくがぼっとする)

卓子灯とが載っていた。近視鏡もその程度では、ただ輪廓がぼっとする

(のみのことで、じぶつのしきべつはほとんどめいりょうにつくはずであるから、それには)

のみのことで、事物の識別はほとんど明瞭につくはずであるから、それには

(いっこするかちもなかった。のりみずは、がろうのりょうかべをかんしょうしてゆくようなあしどりで、)

一顧する価値もなかった。法水は、画廊の両壁を観賞してゆくような足取りで、

(ゆったりほをはこんでいたが、そのはいごからけんじがこえをかけた。やはりのりみずくん、)

ゆったり歩を運んでいたが、その背後から検事が声をかけた。「やはり法水君、

(きせきはしぜんのあらゆるりほうのかなたにあり かね うん、わかったのは)

奇蹟は自然のあらゆる理法の彼方にあり――かね」「ウン、判ったのは

(これだけだよ とのりみずはあじのないこえをだした。まるではんにんはてるみたいに、)

これだけだよ」と法水は味のない声を出した。「まるで犯人はテルみたいに、

(たったいっしで、むきだしよりもひどいしやんを、あいてのはらのなかへぶちこんで)

たった一矢で、露き出しよりも酷い青酸を、相手の腹の中へ打ちこんで

(いるだろう。つまり、そのさいしゅうのけつろんにたっするまでに、ひかりとそうもんをあらわすものが)

いるだろう。つまり、その最終の結論に達するまでに、光と創紋を現わすものが

(ひつようだったということだ。いわばあのふたつというのは、はんこうをかんせいさせるための)

必要だったという事だ。云わばあの二つと云うのは、犯行を完成させるための

など

(ほきょうさようであって、そのどうていにかいてはならぬ、しんえんながくりだとみて)

補強作用であって、その道程に欠いてはならぬ、深遠な学理だとみて

(さしつかえない じょうだんじゃない。あまりくうろんもどがすぎるぜ とくましろはあきれかえって)

差支えない」「冗談じゃない。あまり空論も度が過ぎるぜ」と熊城は呆れ返って

(よこやりをいれたが、のりみずはへいぜんときせつをつづけた。だって、かぎをおろしたしつないに)

横槍を入れたが、法水は平然と奇説を続けた。「だって、鍵を下した室内に

(しんにゅうしてきて、いち、にふんのうちにほらねばならない。そうなると、)

侵入して来て、一、二分のうちに彫らねばならない。そうなると、

(くらいるじゃないがね。むりでもふしぎなせいりをめざすよりしかたがあるまい。)

クライルじゃないがね。無理でも不思議な生理を目指すより仕方があるまい。

(それに、ぎもんはまだ、うしろへねじれたようなみぎてのかたちにも、それから、みぎかたにある)

それに、疑問はまだ、後へ捻れたような右手の形にも、それから、右肩にある

(ちいさなかぎざきにもあるのだ いや、そんなことはどうでもいいんだ くましろは)

小さな鉤裂きにもあるのだ」「いや、そんなことはどうでもいいんだ」熊城は

(はきだすように、はらんばいでおれんじをのみこんで、しゅんかんむていこうになる)

吐きだすように、「腹ん這いで洋橙を嚥み込んで、瞬間無抵抗になる――

(たった、それだけのはなしなんだよ ところがねえくましろくん、あどるふ・へんけの)

たった、それだけの話なんだよ」「ところがねえ熊城君、アドルフ・ヘンケの

(ふるいほういがくしょをみると、ひとりのいんばいふが、うでをからだのしたにかって)

古い法医学書を見ると、一人のイン売婦が、腕を身体の下にかって

(よこむきになったしせいのままでどくをあおいだのだが、しゅんかんのしょっくをくらうと、かえって)

横向きになった姿勢のままで毒を仰いだのだが、瞬間の衝撃を喰うと、かえって

(しびれたほうのうでがうごいて、びんをまどからかわのなかへなげすてたというおもしろいれいが)

痺れた方の腕が動いて、瓶を窓から河の中へ投げ捨てたと云う面白い例が

(のっているぜ。だからいちおうは、さいしょのしたいをさいげんしてみるひつようがあるとおもうね。)

載っているぜ。だから一応は、最初の姿体を再現してみる必要があると思うね。

(それからしたいのひかりは、あヴりのの せいそうきせきしゅう などに......)

それから死体の光は、アヴリノの『聖僧奇蹟集』などに......

(なるほど、ぼうずなら、ひとごろしにかんけいがあるだろう とくましろはろこつにむかんしんを)

「なるほど、坊主なら、人殺しに関係があるだろう」と熊城は露骨に無関心を

(よそおったが、きゅうにしんけいてきなてつきになって、かくしからなにやらとりだそうとした。)

装ったが、急に神経的な手附になって、衣嚢から何やら取り出そうとした。

(のりみずはふりむきもせず、はいごにこえをなげて、ところでくましろくん、しもんは?)

法水は振り向きもせず、背後に声を投げて、「ところで熊城君、指紋は?」

(せつめいのつくものならむすうにある。それに、さくやこのあきしつにひがいしゃを)

「説明のつくものなら無数にある。それに、昨夜この空室に被害者を

(いれたときだが、そのときしんだいのそうじと、ゆかだけにしんくうそうじきをつかったと)

入れた時だが、その時寝台の掃除と、床だけに真空掃除機を使ったと

(いうからね。あいにくあしあとといってはなにもないしまつだ ふむ、そうか そういって)

いうからね。生憎足跡といっては何もない始末だ」「フム、そうか」そういって

(のりみずがたちどまったのは、つきあたりのへきぜんだった。そこには、さしずめじょうじんならば、)

法水が立ち止ったのは、突当りの壁前だった。そこには、さしずめ常人ならば、

(かおあたりにそうとうするたかさで、さいきんなにか、がくようのものをとりはずしたらしいあとが)

顔あたりに相当する高さで、最近何か、額様のものを取り外したらしい跡が

(のこっていて、それがきわめてなまなましくしるされてあった。ところがそこから)

残っていて、それがきわめて生々しく印されてあった。ところがそこから

(おりかえしてもとのいちにもどると、のりみずはすたんどのなかになにをみとめたものか、)

折り返して旧の位置に戻ると、法水は卓子灯の中に何を認めたものか、

(ふいにけんじをふりむいて、はぜくらくん、まどをしめてくれたまえ といった。けんじは)

不意に検事を振り向いて、「支倉君、窓を閉めてくれ給え」と云った。検事は

(きょとんとしたが、それでも、かれのいうとおりにすると、のりみずはふたたびしたいの)

キョトンとしたが、それでも、彼のいうとおりにすると、法水は再び死体の

(ようこうをあびながら、すたんどにてんかした。そうなってはじめてけんじにわかったのは、)

妖光を浴びながら、卓子灯に点火した。そうなって初めて検事に判ったのは、

(そのでんきゅうが、さっこんはほとんどみられないかーぼんきゅうだということで、おそらくきゅうばに)

その電球が、昨今はほとんど見られない炭素球だと云う事で、恐らく急場に

(まにあわせたちょうどるいが、ながらくしまわれていたものであろうとそうぞうされた。)

間に合わせた調度類が、永らく蔵われていたものであろうと想像された。

(のりみずのめはそのあかっちゃけたひかりのなかで、しぇーどのえがくはんえんをしばらくおうていたが、)

法水の眼はその赭っ茶けた光の中で、覆の描く半円をしばらく追うていたが、

(いまがくのあとをみつけたばかりのかべからいっしゃくほどてまえのゆかに、なにやらしるしをつけると)

いま額の跡を見付けたばかりの壁から一尺ほど手前の床に、何やら印をつけると

(へやはふたたびもとにもどって、まどからにゅうしょくのがいこうがはいってきた。けんじはまどのほうへ)

室は再び旧に戻って、窓から乳色の外光が入って来た。検事は窓の方へ

(ためていたいきをふうっとはきだして、いったい、なにをおもいついたんだ?)

溜めていた息をフウッと吐き出して、「いったい、何を思いついたんだ?」

(なにね、ぼくのせつだってそのじつぐらぐらなんだから、ためしに、めでみえなかった)

「なにね、僕の説だってその実グラグラなんだから、試しに、眼で見えなかった

(にんげんをつくりあげようとしたところさ とのりみずはきまぐれめいたちょうしでいったが、)

人間を作り上げようとしたところさ」と法水は気紛れめいた調子で云ったが、

(そのごびをすくいあげるようなごきとともに、くましろはいちまいのしへんをつきだした。)

その語尾を掬い上げるような語気とともに、熊城は一枚の紙片を突き出した。

(これで、きみのびゅうせつがふんさいされてしまうんだ。なにもくるしんでまで、)

「これで、君の謬説が粉砕されてしまうんだ。なにも苦しんでまで、

(そんなかくうなものをつくりあげるひつようはないさ。みたまえ。ゆうべこのへやには、)

そんな架空なものを作り上げる必要はないさ。見給え。昨夜この室には、

(じじつそうぞうもつかないじんぶつがしのんでいたのだ。それをおれんじをくちにふくんだ)

事実想像もつかない人物が忍んでいたのだ。それを洋橙を口に含んだ

(しゅんかんにしって、だんねべるぐふじんがぼくらにしらそうとしたのだよ そのしへんの)

瞬間に知って、ダンネベルグ夫人が僕等に知らそうとしたのだよ」その紙片の

(うえにかかれてあるもじをみて、のりみずぎゅっとしんぞうをつかまれたようなきがした。)

上に書かれてある文字を見て、法水はギュッと心臓を掴まれたような気がした。

(けんじはむしろあきれたようにさけんだ。てれーず!これはじどうにんぎょうじゃないか)

検事はむしろ呆れたように叫んだ。「テレーズ!これは自働人形じゃないか」

(そうなんだよ。これにあのそうもんをむすびつけたなら、よもやげんかくとは)

「そうなんだよ。これにあの創紋を結びつけたなら、よもや幻覚とは

(いわれんだろう とくましろもひくくこえをふるわせた。じつは、しんだいのしたに)

云われんだろう」と熊城も低く声を慄わせた。「実は、寝台の下に

(おちていたんだが、それをこのめもとひきあわせてみて、ぼくはぜんしんが)

落ちていたんだが、それをこのメモと引合わせてみて、僕は全身が

(そうげたったきがした。はんにんはまさしくにんぎょうをつかったにちがいないのだ)

慄毛立った気がした。犯人はまさしく人形を使ったに違いないのだ」

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