晩年 ⑱

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太宰 治

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(ぎょふくき)

魚服記

(ほんしゅうのほくたんのさんみゃくは、ぼんじゅさんみゃくというのである。せいぜいさんよんひゃくめーとるほどの)

本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。せいぜい三四百米ほどの

(きゅうりょうがきふくしているのであるから、ふつうのちずにはのっていない。)

丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの地図には載っていない。

(むかし、このへんいったいはひろびろしたうみであったそうで、よしつねがけらいたちを)

むかし、このへん一帯はひろびろした海であったそうで、義経が家来たちを

(つれてきたへきたへとぼうめいしていって、はるかえみしのとちへわたろうとここをふねで)

連れて北へ北へと亡命して行って、はるか蝦夷の土地へ渡ろうとここを船で

(とおったということである。そのとき、かれらのふねがこのさんみゃくへしょうとつした。)

とおったということである。そのとき、彼らの船が此の山脈へ衝突した。

(つきあたったあとがいまでものこっている。さんみゃくのまんなかごろのこんもりした)

突きあたった跡がいまでも残っている。山脈のまんなかごろのこんもりした

(こやまのちゅうふくにそれがある。やくいっせぶぐらいのあかつちのがけがそれなのであった。)

小山の中腹にそれがある。約一畝歩ぐらいの赤土の崖がそれなのであった。

(こやまはまはげやまとよばれている。ふもとのむらからがけをながめるとはしっているうまの)

小山は馬禿山と呼ばれている。ふもとの村から崖を眺めるとはしっている馬の

(すがたににているからというのであるが、じじつはおいぼれたひとのよこがおににていた。)

姿に似ているからと言うのであるが、事実は老いぼれた人の横顔に似ていた。

(まはげやまはそのやまのかげのけしきがいいから、いっそうこのちほうでなだかいのである。)

馬禿山はその山の陰の景色がいいから、いっそう此の地方で名高いのである。

(ふもとのむらはこすうもわずかにさんじゅうでほんのかんそんであるが、そのむらはずれをながれている)

麓の村は戸数もわずか二三十でほんの寒村であるが、その村はずれを流れている

(かわをふたさとばかりさかのぼるとまはげやまのうらへでて、そこにはじゅうじょうちかくのたきが)

川を二里ばかりさかのぼると馬禿山の裏へ出て、そこには十丈ちかくの滝が

(しろくおちている。なつのすえからあきにかけてやまのきぎがひじょうによくこうようするし、)

しろく落ちている。夏の末から秋にかけて山の木々が非常によく紅葉するし、

(そんなきせつにははまべのまちからあそびにくるひとたちでやまもすこし)

そんな季節には浜辺のまちから遊びに来る人たちで山もすこし

(にぎわうのであった。たきのしたには、ささやかなちゃみせさえたつのである。)

にぎわうのであった。滝の下には、ささやかな茶店さえ立つのである。

(ことしのなつのおわりごろ、このたきでしんだひとがある。)

ことしの夏の終わりごろ、此の滝で死んだ人がある。

(こいにとびこんだのではなくて、まったくのかしつからであった。)

故意に飛び込んだのではなくて、まったくの過失からであった。

(しょくぶつのさいしゅうをしにこのたきへきたいろのしろいみやこのがくせいである。このあたりにはめずらしい)

植物の採集をしにこの滝へ来た色の白い都の学生である。このあたりには珍しい

(しだるいがおおくて、そんなさいしゅうかがしばしばおとずれるのだ。)

羊歯類が多くて、そんな採集家がしばしば訪れるのだ。

など

(たきつぼはさんぼうがたかいぜっぺきで、にしがわのいちめんだけがせまくひらいて、そこからたにがわが)

滝壺は三方が高い絶壁で、西側の一面だけが狭くひらいて、そこから谷川が

(いわをかみつつながれていた。ぜっぺきはたきのしぶきでいつもぬれていた。しだるいは)

岩を噛みつつ流れていた。絶壁は滝のしぶきでいつも濡れていた。羊歯類は

(このぜっぺきのあちこちにもはえていて、たきのとどろきにしじゅうぶるぶると)

此の絶壁のあちこちにも生えていて、滝のとどろきにしじゅうぶるぶると

(そよいでいるのであった。がくせいはこのぜっぺきによじのぼった。)

そよいでいるのであった。学生はこの絶壁によじのぼった。

(ひるすぎのことであったが、しょしゅうのひざしはまだぜっぺきのちょうじょうにあかるくのこっていた)

ひるすぎのことであったが、初秋の日ざしはまだ絶壁の頂上に明るく残っていた

(がくせいが、ぜっぺきのなかばにとうたつしたとき、あしだまりにしていたあたまほどのいしころが)

学生が、絶壁のなかばに到達したとき、足だまりにしていた頭ほどの石ころが

(もろくくずれた。がけからはぎとられたようにすっとおちた。とちゅうでぜっぺきのろうじゅの)

もろく崩れた。崖から剝ぎ取られたようにすっと落ちた。途中で絶壁の老樹の

(えだにひっかかった。えだがおれた。すさまじいおとをたててふちへたたきこまれた。)

枝にひっかかった。枝が折れた。すさまじい音をたてて淵へたたきこまれた。

(たきのふきんにいあわせたしごにんがそれをもくげきした。しかし、ふちのそばのちゃみせにいる)

滝の附近に居合わせた四五人がそれを目撃した。しかし、淵のそばの茶店にいる

(じゅうごになるおんなのこがいちばんはっきりとそれをみた。)

十五になる女の子が一番はっきりとそれを見た。

(いちど、たきつぼふかくしずめられて、それから、すらっとじょうはんしんがすいめんから)

いちど、滝壺ふかく沈められて、それから、すらっと上半身が水面から

(おどりあがった。めをつぶってくちをちいさくあけていた。)

踊りあがった。眼をつぶって口を小さくあけていた。

(あおいろのしゃつのところどころがやぶれて、さいしゅうかばんはまだかたにかかっていた。)

青色のシャツのところどころが破れて、採集かばんはまだ肩にかかっていた。

(それきりまたぐっとすいていへひきずりこまれたのである。)

それきりまたぐっと水底へ引きずりこまれたのである。

(はるのどようからあきのどようにかけててんきのいいひだと、まはげやまからしろいけむりのいくすじも)

春の土用から秋の土用にかけて天気のいい日だと、馬禿山から白い煙の行く筋も

(のぼっているのが、ずいぶんとおくからでもながめられる。このじぶんのやまのきには)

昇っているのが、ずいぶん遠くからでも眺められる。この時分の山の木には

(せいきがおおくてすみをこさえるのにてきしているから、すみをやくひとたちも)

精気が多くて炭をこさえるのに適しているから、炭を焼く人達も

(いそがしいのである。まはげやまにはすみやきごやがじゅういくつある。たきのそばにもひとつあった)

忙しいのである。馬禿山には炭焼小屋が十いくつある。滝の傍にもひとつあった

(このこやはほかのこやとよほどはなれてたてられていた。こやのひとがちがうとちの)

此の小屋は他の小屋と余程はなれて建てられていた。小屋の人がちがう土地の

(ものであったからである。ちゃみせのおんなのこはそのこやのむすめであって、)

ものであったからである。茶店の女の子はその小屋の娘であって、

(すわというなまえである。ちちおやとふたりでねんじゅうそこへねおきしているのであった。)

スワという名前である。父親とふたりで年中そこへ寝起きしているのであった。

(すわがじゅうさんのとき、ちちおやはたきつぼのわきにまるたとよしずでちいさいちゃみせをこしらえた。)

スワが十三の時、父親は滝壺のわきに丸太とよしずで小さい茶店をこしらえた。

(らむねとしおせんべいとみずなしあめとそのほかにさんしゅのだがしをそこへならべた。)

ラムネと塩せんべいと水無飴とそのほかニ三種の駄菓子をそこへ並べた。

(なつちかくなってやまへあそびにくるひとがぼつぼつみえそめるじぶんになると、)

夏近くなって山へ遊びに来る人がぼつぼつ見え初めるじぶんになると、

(ちちおやはまいあさそのしなものをてかごにいれてちゃみせまではこんだ。すわはちちおやのあとから)

父親は毎朝その品物を手籠に入れて茶店迄はこんだ。スワは父親のあとから

(はだしでぱたぱたついていった。ちちおやはすぐすみごやへかえってゆくが、)

はだしでぱたぱたついて行った。父親はすぐ炭小屋へ帰ってゆくが、

(すわはひとりいのこってみせばんするのであった。ゆさんのひとかげがちらとでもみえると、)

スワは一人いのこって店番するのであった。遊山の人影がちらとでも見えると、

(やすんでいきせえ、とおおごえでよびかけるのだ。ちちおやがそういえと)

やすんで行きせえ、と大声で呼びかけるのだ。父親がそう言えと

(もうしつけたからである。しかし、すわのそんなうつくしいこえもたきのおおきなおとに)

申しつけたからである。しかし、スワのそんな美しい声も滝の大きな音に

(けされて、たいていは、きゃくをふりかえさすことさえできなかった。)

消されて、たいていは、客を振りかえさすことさえ出来なかった。

(いちにちごじゅっせんとうりあげることがなかったのである。)

一日五十銭と売りあげることがなかったのである。

(たそがれどきになるとちちおやはすみごやから、からだじゅうをまっくろにしてすわをむかえにきた。)

黄昏時になると父親は炭小屋から、からだ中を真黒にしてスワを迎えに来た。

(「なんぼうれた。」「なんも。」「そだべ、そだべ。」)

「なんぼ売れた。」「なんも。」「そだべ、そだべ。」

(ちちおやはなんでもなさそうにつぶやきながらたきをみあげるのだ。それからふたりしてみせの)

父親はなんでもなさそうに呟きながら滝を見上げるのだ。それから二人して店の

(しなものをまたてかごへしまいこんで、すみごやへひきあげる。)

品物をまた手籠へしまい込んで、炭小屋へひきあげる。

(そんなにっかがしものおりるころまでつづくのである。)

そんな日課が霜のおりるころまでつづくのである。

(すわをちゃみせにひとりおいてもしんぱいはなかった。やまにうまれたおにごであるから、)

スワを茶店にひとり置いても心配はなかった。山に生まれた鬼子であるから、

(いわねをふみはずしたりたきつぼへすいこまれたりするきづかいがないのであった。)

岩根を踏みはずしたり滝壺へ吸いこまれたりする気づかいがないのであった。

(てんきがよいとすわはらしんになってたきつぼのすぐちかくまでおよいでいった。)

天気が良いとスワは裸身になって滝壺のすぐ近くまで泳いで行った。

(およぎながらもきゃくらしいひとをみつけると、あかちゃけたみじかいかみをげんきよく)

泳ぎながらも客らしい人を見つけると、あかちゃけた短い髪を元気よく

(かきあげてから、やすんでいきせえ、とさけんだ。あめのひには、ちゃみせのすみで)

かきあげてから、やすんで行きせえ、と叫んだ。雨の日には、茶店の隅で

(むしろをかぶってひるねをした。ちゃみせのうえにはかしのたいぼくがしげったえだを)

むしろをかぶって昼寝をした。茶店の上には樫の大木がしげった枝を

(さしのべていていいあまよけになった。つまりそれまでのすわは、どうどうと)

さしのべていていい雨よけになった。つまりそれまでのスワは、どうどうと

(おちるたきをながめては、こんなにたくさんみずがおちてはいつかきっとなくなってしまうに)

落ちる滝を眺めては、こんなに沢山水が落ちてはいつかきっとなくなって了うに

(ちがいない、ときたいしたり、たきのかたちはどうしてこういつもおなじなのだろう、と)

ちがいない、と期待したり、滝の形はどうしてこういつも同じなのだろう、と

(いぶかしがったりしていたものであった。それがこのごろになって、すこししあん)

いぶかしがったりしていたものであった。それがこのごろになって、すこし思案

(ぶかくなったのである。たきのかたちはけっしておなじでないということをみつけた。)

ぶかくなったのである。滝の形はけっして同じでないということを見つけた。

(しぶきのはねるもようでも、たきのはばでも、めまぐるしくかわっているのがわかった)

しぶきのはねる模様でも、滝の幅でも、眼まぐるしく変わっているのがわかった

(はては、たきはみずでない、くもなのだ、ということもしった。たきぐちからおちると)

果ては、滝は水でない、雲なのだ、ということも知った。滝口から落ちると

(しろくもくもくふくれあがるあんばいからでもそれとさっしられた。だいいちみずが)

白くもくもくふくれ上る案配からでもそれと察しられた。だいいち水が

(こんなにまでしろくなるわけはない、とおもったのである。)

こんなにまでしろくなる訳はない、と思ったのである。

(すわはそのひもぼんやりたきつぼのかたわらにたたずんでいた。くもったひであきかぜが)

スワはその日もぼんやり滝壺のかたわらに佇んでいた。曇った日で秋風が

(かなりいたくすわのあかいほおをふきさらしているのだ。)

可成りいたくスワの赤い頬を吹きさらしているのだ。

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