晩年 77
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問題文
(かみのつる)
紙の鶴
(「おれはきみとちがって、どうやらおめでたいようである。おれはしょじょでないつまを)
「おれは君とちがって、どうやらおめでたいようである。おれは処女でない妻を
(めとって、さんねんかん、そのじじつをしらずにすごした。こんなことはくちにだすべきで)
めとって、三年間、その事実を知らずにすごした。こんなことは口に出すべきで
(ないかもしれぬ。いまはこうふくそうにあみものへねっちゅうしているつまにたいしても、)
ないかも知れぬ。いまは幸福そうに編み物へ熱中している妻に対しても、
(いやがらせとなるであろう。しかし、おれはくちにだす。きみのとりすましたかおを)
いやがらせとなるであろう。しかし、おれは口に出す。君のとりすました顔を
(なぐりつけてやりたいからだ。おれは、ヴぁれりいもぷるうすともよまぬ。)
なぐりつけてやりたいからだ。おれは、ヴァレリイもプルウストも読まぬ。
(おおかた、おれはぶんがくをしらぬのであろう。しらぬでもよい。おれはべつなもっと)
おおかた、おれは文学を知らぬのであろう。知らぬでもよい。おれは別なもっと
(ほんとうのものをみつめている。にんげんを。にんげんといういわばしじょうのあおばえを。)
ほんとうのものを見つめている。人間を。人間という謂わば市場の青蠅を。
(それゆえおれにとっては、さっかこそすべてである。さくひんはむである。)
それゆえおれにとっては、作家こそすべてである。作品は無である。
(どういうけっさくでも、さっかいじょうではない。さっかをひやくしちょうえつした)
どういう傑作でも、作家以上ではない。作家を飛躍し超越した
(さくひんというものは、どくしゃのげんわくである。きみは、いやなかおをするであろう。)
作品というものは、読者の幻惑である。君は、いやな顔をするであろう。
(どくしゃにいんすぴれえしょんをしんじさせたいきみは、おれのことばをひぞくとか)
読者にインスピレエションを信じさせたい君は、おれの言葉を卑俗とか
(なまやぼとかいやしめるにちがいない。そんならおれは、もっとはっきりいっても)
生野暮とかいやしめるにちがいない。そんならおれは、もっとはっきり言っても
(よい。おれは、おれのさくひんがおれのためになるときだけしごとをするのである。)
よい。おれは、おれの作品がおれのためになるときだけ仕事をするのである。
(きみがまさしくそうめいならば、おれのこんなたいどをこそはなでわらえるはずだ。)
君がまさしく聡明ならば、おれのこんな態度をこそ鼻で笑える筈だ。
(わらえないならば、こんご、かしこそうにくちまげるくせをよしたまえ。おれは、いま、きみ)
笑えないならば、今後、かしこそうに口まげる癖をよし給え。おれは、いま、君
(はずかしめるいとがこのしょうせつをかこう。このしょうせつのだいざいは、おれのはじさらしと)
はずかしめる意図がこの小説を書こう。この小説の題材は、おれの恥さらしと
(なるかもしれぬ。けれども、けっしてきみにれんびんのじょうをもとめまい。きみよりたかいたちばに)
なるかも知れぬ。けれども、決して君に憐憫の情を求めまい。君より高い立場に
(よって、にんげんのいつわりないくのうというものをきみのよこつらにたたきつけてやろうと)
拠って、人間のいつわりない苦悩というものを君の横面にたたきつけてやろうと
(おもうのである。おれのつまは、おれとおなじくらいのうそつきであった。)
思うのである。おれの妻は、おれとおなじくらいの嘘つきであった。
(ことしのあきのはじめ、おれはいっぺんのしょうせつをしあげた。それは、おれのかていの)
ことしの秋のはじめ、おれは一篇の小説をしあげた。それは、おれの家庭の
(しあわせをかみにほこったたんぺんである。おれはつまにもそれをよませた。つまは、それを)
仕合せを神に誇った短篇である。おれは妻にもそれを読ませた。妻は、それを
(ひくくおんどくしてしまってから、いいわ、といった。そうして、おれにだらしない)
ひくく音読してしまってから、いいわ、と言った。そうして、おれにだらしない
(どうさをしかけた。おれは、どれほどのろまでも、こういうつまのそぶりのかげに、)
動作をしかけた。おれは、どれほどのろまでも、こういう妻のそぶりの蔭に、
(ただならぬきがまえをみてとらざるをえなかったのである。おれは、つまのそんな)
ただならぬ気がまえを見てとらざるを得なかったのである。おれは、妻のそんな
(ふあんがどこからやってきたのか、それをかんがえてさんやをついやした。おれのぎわくは)
不安がどこからやって来たのか、それを考えて三夜をついやした。おれの疑惑は
(ひとつのくやしいじじつにかたまっていくのであった。おれもやはり、じゅうさんにんめの)
ひとつのくやしい事実にかたまって行くのであった。おれもやはり、十三人目の
(いすにすわるべきおせっかいなせいかくをもっていた。おれはつまをせまたのである。)
椅子に坐るべきおせっかいな性格を持っていた。おれは妻をせまたのである。
(このことにもまたさんやをついやした。つまは、かえっておれをわらっていた。)
このことにもまた三夜をついやした。妻は、かえっておれを笑っていた。
(ときどきはいかりさえした。おれはさいごのかんさくをもちいた。そのたんぺんには、)
ときどきは怒りさえした。おれは最後の刊策をもちいた。その短篇には、
(おれのようなおとこにしょじょがさずかったかんきをさえかきしるされているのであったが)
おれのような男に処女がさずかった歓喜をさえ書きしるされているのであったが
(おれはそのかしょをとりあげて、つまをいじめたのある。おれはいまにだいさっかに)
おれはその箇所をとりあげて、妻をいじめたのある。おれはいまに大作家に
(なるのであるから、このしょうせつもこののちひゃくねんはよのなかにのこるのだ。)
なるのであるから、この小説もこののち百年は世の中にのこるのだ。
(するとおまえは、このしょうせつとともにひゃくねんのちまでうそをつきとしてよにうたわれるで)
するとお前は、この小説とともに百年のちまで嘘をつきとして世にうたわれるで
(あろう、とつまをおどかした。むがくのつまは、はたしておびえた。しばらくかんがえてから)
あろう、と妻をおどかした。無学の妻は、果しておびえた。しばらく考えてから
(とうとうおれにささやいた。たったいちど、とささやいたのである。おれはわらってつまを)
とうとうおれに囁いた。たったいちど、と囁いたのである。おれは笑って妻を
(あいぶした。わかいころのけがであるゆえ、それはなんでもないことだ、と)
愛撫した。わかいころの怪我であるゆえ、それはなんでもないことだ、と
(つまにげんきをつけてやって、おれはもっとくわしくつまにかたらせるのであった。)
妻に元気をつけてやって、おれはもっとくわしく妻に語らせるのであった。
(ああ、つまはしばらくして、にど、とていせいした。それから、さんど、といった。)
ああ、妻はしばらくして、二度、と訂正した。それから、三度、と言った。
(おれはなおもわらいつづけながら、どんなおとこか、とやさしくたずねた。おれのしらない)
おれは尚も笑いつづけながら、どんな男か、とやさしく尋ねた。おれの知らない
(なまえであった。つまがそのおとこのことをかたっているうちに、おれはしゅだんでなくつまを)
名前であった。妻がその男のことを語っているうちに、おれは手段でなく妻を
(ほうようした。これは、みじめなあいよくである。どうじにしんじつのあいじょうである。)
抱擁した。これは、みじめな愛慾である。同時に真実の愛情である。
(つまは、ついに、ろくどほど、とはきだしてこえをたててないた。)
妻は、ついに、六度ほど、と吐きだして声を立てて泣いた。
(そのあくるあさ、つまはほがらかなかおつきをしていた。あさのしょくたくにむかいあって)
その翌る朝、妻はほがらかな顔つきをしていた。あさの食卓に向かい合って
(すわったとき、つまはたわむれに、りょうてをあわせておれをおがんだ。おれもようきに)
坐ったとき、妻はたわむれに、両手をあわせておれを拝んだ。おれも陽気に
(したくちびるをかんでみせた。するとつまはいっそうくつろいだようすをして、くるしい?と)
下唇を噛んで見せた。すると妻はいっそうくつろいだ様子をして、くるしい?と
(おれのかおをのぞいたではないか。おれは、すこし、とこたえた。)
おれの顔を覗いたではないか。おれは、すこし、と答えた。
(おれはきみにしらせてやりたい。どんなえいえんのすがたでも、きっとひぞくでなまやぼな)
おれは君に知らせてやりたい。どんな永遠のすがたでも、きっと卑俗で生野暮な
(ものだということを。そのひを、おれはどうしてすごしたか、これをもきみに)
ものだということを。その日を、おれはどうして過ごしたか、これをも君に
(おしえておこう。こんなときには、つまのかおを、つまのそのわるいかこをおもいだすから)
教えて置こう。こんなときには、妻の顔を、妻のそのわるい過去を思い出すから
(というだけでない。おれとつまとのさいきんまでのあんらくだったひをついそうしてしまうから)
というだけでない。おれと妻との最近までの安楽だった日を追想してしまうから
(である。そのひ、おれはすぐがいしゅつした。ひとりのねんしょうのようがかをおとずれることに)
である。その日、おれはすぐ外出した。ひとりの年少の洋画家を訪れることに
(きめたのである。このゆうじんはどくしんであった。さいたいしゃのゆうじんはこのばあいふむきで)
決めたのである。この友人は独身であった。妻帯者の友人はこの場合ふむきで
(あろう。おれはみちみち、おれのずのうがからっぽにならないようにけいかいした。)
あろう。おれはみちみち、おれの頭脳がからっぽにならないように警戒した。
(さくやのことがいりこむすきのにあほど、おれはべつなもんだいについてかんがえふけるので)
昨夜のことが入りこむすきのにあほど、おれは別な問題について考えふけるので
(あった。じんせいやげいじゅつのもんだいはいくぶんきけんであった。ことにぶんがくは、てきめんに)
あった。人生や芸術の問題はいくぶん危険であった。殊に文学は、てきめんに
(あのなまなきおくをよびかえす。おれはとじょうのしょくぶつについてあたまをひねった。)
あのなまな記憶を呼び返す。おれは途上の植物について頭をひねった。
(からたちは、かんぼくである。はるのおわりにしろいろのはなをひらく。なにかにぞくするかは)
からたちは、灌木である。春のおわりに白色の花をひらく。何科に属するかは
(しらぬ。あき、いますこしたつときいろいこつぶのみがなるのだ。それいじょうを)
知らぬ。秋、いますこし経つと黄いろい小粒の実がなるのだ。それ以上を
(かんがえつめるとあぶない。おれはいそいでべつなしょくぶつにめをてんずる。すすき。)
考えつめると危ない。おれはいそいで別な植物に眼を転ずる。すすき。
(これはかほんかにぞくする。たしかかほんかとおそわった。このしろいほは、おばな、と)
これは禾本科に属する。たしか禾本科と教わった。この白い穂は、おばな、と
(いうのだ。あきのななくさのひとつである。あきのななくさとは、はぎ、ききょう、かるかや)
いうのだ。秋の七草のひとつである。秋の七草とは、はぎ、ききょう、かるかや
(なでしこ、それから、おばな。もうふたつたりないけれど、なんであろう。)
なでしこ、それから、おばな。もう二つ足りないけれど、なんであろう。
(ろくどほど。だしぬけにみみへささやかれたのである。おれはほとんどはしるように)
六度ほど。だしぬけに耳へささやかれたのである。おれはほとんど走るように
(して、あしをはやめた。いくたびとなくつまずいた。このらくようは。いや、しょくぶつはよそう。)
して、足を早めた。いくたびとなく躓いた。この落葉は。いや、植物はよそう。
(もっとつめたいものを。もっとつめたいものを。よりめきながらもおれはじんようを)
もっと冷たいものを。もっと冷たいものを。よりめきながらもおれは陣容を
(たてなおしたのである。おれは、aぷらすbのじじょうのこうしきをこころのなかでしょうした。)
たて直したのである。おれは、AプラスBの二乗の公式を心のなかで誦した。
(そのつぎには、aぷらすbぷらすcのじじょうのこうしきについて、けんきゅうした。)
そのつぎには、AプラスBプラスCの二乗の公式について、研究した。