晩年 72
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問題文
(さぶろうはしあんした。こんなにひにいくじゅうにんものひとにてがみのだいひつをしてやったり)
三郎は思案した。こんなに日に幾十人ものひとに手紙の代筆をしてやったり
(こうじゅつをしてやったりしていたのではとてもはんにこたえぬ。いっそじょうししようか。)
口述をしてやったりしていたのではとても煩に堪えぬ。いっそ上梓しようか。
(どうしたならおやもとからたくさんのかねをおくってもらえるか、これをいっさつのしょもつに)
どうしたなら親元からたくさんの金を送ってもらえるか、これを一冊の書物に
(してしゅっぱんしようとかんがえたのである。けれどもこのしゅっぱんにあたってはひとつの)
して出版しようと考えたのである。けれどもこの出版に当ってはひとつの
(さしさわりがあることにきづいた。そのしょもつをおやもとがあがないじゅくどくしたなら、)
さしさわりがあることに気づいた。その書物を親元が贖い熟読したなら、
(どういうことになるのであろう。なにやらつみぶかいけっかがよそうできるのであった)
どういうことになるのであろう。なにやら罪ぶかい結果が予想できるのであった
(さぶろうはこのしょもつのしゅっぱんをやめなければならなかった。しょせいたちのひっしのはんたいが)
三郎はこの書物の出版をやめなければならなかった。書生たちの必死の反対が
(あったからでもあった。それでもさぶろうはちょじゅつのけついだけはまげなかった。)
あったからでもあった。それでも三郎は著述の決意だけはまげなかった。
(そのころえどでりゅうこうのしゃれぼんをしゅっぱんすることにした。ほほ、うやまってもおす、)
そのころ江戸で流行の洒落本を出版することにした。ほほ、うやまってもおす、
(というようなかきだしであたうかぎりのわるふざけとごまかしをかくことであって、)
というような書きだしで能うかぎりの悪ふざけとごまかしを書くことであって、
(さぶろうのせいかくにまったくぽたりとあっていたのである。かれがにじゅうにさいのとき)
三郎の性格に全くぽたりと合っていたのである。彼が二十二歳のとき
(よいいどろやめちゃめちゃせんせいというひつめいでしゅっぱんしたにさんのしゃれぼんはおもいのほかにうれた)
酔い泥屋滅茶滅茶先生という筆名で出版したニ三の洒落本は思いのほかに売れた
(あくるひ、さぶろうはちちのぞうしょのなかにかれのしゃれぼんちゅうのけっさく「にんげんばんじうそはまこと」)
翌る日、三郎は父の蔵書のなかに彼の洒落本中の傑作「人間万事嘘は誠」
(いっかんがまじってるのをみて、なにげなさそうにおうそんにたずねた。めちゃめちゃせんせいのほんは)
一巻がまじってるのを見て、何気なさそうに黄村に尋ねた。滅茶滅茶先生の本は
(よいほんですか。おうそんはにがりきってこたえた。よくない。さぶろうはわらいながらおしえた)
よい本ですか。黄村はにがり切って答えた。よくない。三郎は笑いながら教えた
(あれはわたしのとくめいですよ。おうそんはろうばいをみせまいとしてたかいせきばらいを)
あれは私の匿名ですよ。黄村は狼狽を見せまいとして高いせきばらいを
(ふたつみっつして、それからあたりをはばかるようなひくいこえでとうた。)
二つ三つして、それからあたりをはばかるような低い声で問うた。
(なんぼもうかったかの。けっさく「にんげんばんじうそはまこと」のあらましのないようは、けんえんせんせい)
なんぼもうかったかの。傑作「人間万事嘘は誠」のあらましの内容は、嫌厭先生
(というとしわかいよのすねものがおもしろおかしくよのなかをわたったことのしだいを)
という年わかい世のすねものが面白おかしく世の中を渡ったことの次第を
(じょしたものであって、たとえばけんえんせんせいがかりゅうのちまたにあそぶにしてもあるいはやくしゃと)
叙したものであって、たとえば嫌厭先生が花柳の巷に遊ぶにしても或いは役者と
(いつわりあるいはおだいじんをきどりあるいはおしのびのこうきのひとのふりをする。)
いつわり或いはお大尽を気取り或いはお忍びの高貴のひとのふりをする。
(そのいかさまごとがあまりにもくふうにとみほとんどしんにちかくげいしゃまっしゃもそれを)
そのいかさまごとがあまりにも工夫に富みほとんど真に近く芸者末杜もそれを
(それをうたがわず、はてはかれじしんもうたがわず、それはけっしてゆめではなくげんざいたしかに、)
それを疑わず、はては彼自身も疑わず、それは決して夢ではなく現在たしかに、
(いちやにしてひゃくまんちょうじゃになりまたいっちょうめざむればよにかくれなきめいゆうとなり)
一夜にして百万長者になりまた一朝めざむれば世にかくれなき名優となり
(おもしろおかしくそのしょうがいをおえるのである。しんだとたんにむかしのむいちもんの)
面白おかしくその生涯を終えるのである。死んだとたんにむかしの無一文の
(けんえんせんせいにかえるというようなことがかかれていた。これはいわばさぶろうの)
嫌厭先生にかえるというようなことが書かれていた。これは謂わば三郎の
(ししょうせつであった。にじゅうにさいをむかえたときのさぶろうのうそはすでにかみにつうじ、)
私小説であった。ニ十二歳をむかえたときの三郎の嘘はすでに神に通じ、
(おのれがこうといつわるときにはすべてしんじつのおうごんにかしていた。)
おのれがこうといつわるときにはすべて真実の黄金に化していた。
(おうそんのまえではあくまでうちきなこうこうものに、じゅくにかようしょせいのまえではおそろしい)
黄村のまえではあくまで内気な孝行者に、塾に通う書生のまえでは恐ろしい
(わけしりに、かりゅうのちまたではすなわちだんじゅうろう、なにがしのおとのさま、なんとかぐみのおやぶん、)
訳知りに、花柳の巷では即ち団十郎、なにがしのお殿様、なんとか組の親分、
(そうしてそのへんにさしょうのふしぜんもうそもなかった。そのあくるとしにちちのおうそんが)
そうしてその辺に些少の不自然も嘘もなかった。そのあくるとしに父の黄村が
(しんだ。おうそんのいしょにはこういういみのことがらがかかれていた。)
死んだ。黄村の遺書にはこういう意味のことがらが書かれていた。
(わしはうそつきだ。ぎぜんしゃだ。しなのしゅうきょうからこころがはなれればはなれるほど、それに)
わしは嘘つきだ。偽善者だ。支那の宗教から心が離れれば離れるほど、それに
(しんぷくした。それでもいきていれたのは、ははおやのないわがこへのあいのためであろう)
心服した。それでも生きて居れたのは、母親のないわが子への愛のためであろう
(わしはしっぱいしたが、このこをせいこうさせたかったが、このこもしっぱいしそうである。)
わしは失敗したが、この子を成功させたかったが、この子も失敗しそうである。
(わしはこのこにわしがろくじゅうねんかんかかってためたつぶつぶのこぜに、ごひゃくもんをぜんぶ)
わしはこの子にわしが六十年間かかってためた粒々の小銭、五百文を全部
(のこらずあたえるものである。さぶろうはそのいしょをよんでしまってからかおをあおくして)
のこらず与えるものである。三郎はその遺書を読んでしまってから顔を蒼くして
(うすわらいをうかべ、ふたつにひきさいた。それをまたよっつにひきさいた。)
薄笑いを浮かべ、二つに引き裂いた。それをまた四つに引き裂いた。
(さらにやっつにひきさいた。くうふくをふせぐためにこへのせっかんをひかえたおうそん、)
さらに八つに引き裂いた。空腹を防ぐために子への折檻をひかえた黄村、
(このめいせいよりもいんぜいがきがかりでならぬおうそん、きんじょからはどだいかにおうごんの)
子の名声よりも印税が気がかりでならぬ黄村、近所からは土台下に黄金の
(いっぱいつまったかめをかくしているとささやかれたおうそんが、ごひゃくもんのいしょを)
一ぱいつまった甕をかくしていると囁かれた黄村が、五百文の遺書を
(のこしてだいおうじょうをした。うそのまつろだ。さぶろうはうそのさいごっぺのがまんできぬあくしゅうを)
のこして大往生をした。嘘の末路だ。三郎は嘘の最後っ屁の我慢できぬ悪臭を
(かいだようなきがした。さぶろうはちちのそうぎをちかくのにちれんしゅうのおてらでいとなんだ。)
かいだような気がした。三郎は父の葬儀を近くの日蓮宗のお寺でいとなんだ。
(ちょっときくとやばんなりずむのようにかんぜられるおしょうのめったうちにうちならす)
ちょっと聞くと野蛮なリズムのように感ぜられる和尚のめった打ちに打ち鳴らす
(たいこのおとも、みみかたむけてしばらくきいていると、そのりずむのなかにどうしようも)
太鼓の音も、耳傾けてしばらく聞いていると、そのリズムの中にどうしようも
(ないふんぬとしょうりょとそれをちゃかそうというやけくそなおどけとをききとることが)
ない憤怒と焦慮とそれを茶化そうというやけくそなお道化とを聞きとることが
(できたのである。もんぷくをきてじゅずをもちじゅうにんあまりのじゅくせいのまんなかに)
できたのである。紋服を着て数珠を持ち十人あまりの塾生のまんなかに
(せをまるくしてすわって、さんしゃくほどぜんぽうのたたみのへりをみつめながらさぶろうはかんがえる。)
背を丸くして坐って、三尺ほど前方の畳のへりを見つめながら三郎は考える。
(うそははんざいからはっさんするおとなしのへだ。じぶんのうそも、おさないころのひとごろしから)
嘘は犯罪から発散する音無しの屁だ。自分の嘘も、幼いころの人殺しから
(しゅっぱつした。ちちのうそも、おのれのしんじきれないしゅうきょうをひとにしんじさせただいはんざいから)
出発した。父の嘘も、おのれの信じきれない宗教をひとに信じさせた大犯罪から
(しぼりだされた。おもぐるしくてならぬげんじつをすこしでもすずしくしようとしてうそを)
絞り出された。重苦しくてならぬ現実を少しでも涼しくしようとして嘘を
(つくのだけれども、うそはさけとおなじようにだんだんとてきりょうがふえてくる。)
つくのだけれども、嘘は酒とおなじようにだんだんと適量がふえて来る。
(しだいしだいにこいうそをはいていって、せっさたくまされ、ようやくしんじつのひかりをはなつ。)
次第次第に濃い嘘を吐いていって、切磋琢磨され、ようやく真実の光を放つ。
(これはわたしひとりのばあいにかぎったことではないようだ。にんげんばんじうそはまこと。)
これは私ひとりの場合に限ったことではないようだ。人間万事噓は誠。
(ふとそのことばがいまはじめてひふにべっとりくっついておもいだされ、くしょうした。)
ふとその言葉がいまはじめて皮膚にべっとりくっついて思い出され、苦笑した。
(ああ、これはこっけいのちょうてんである。おうそんのほねをていねいにうめてやってから)
ああ、これは滑稽の頂点である。黄村の骨をていねいに埋めてやってから
(さぶろうはひとつきょうよりうそのないせいかつをしてやろうとおもいたった。みんなひみつな)
三郎はひとつ今日より嘘のない生活をしてやろうと思いたった。みんな秘密な
(はんざいをもっているのだ。びくつくことはない。ひけめをかんずることはない。)
犯罪を持っているのだ。びくつくことはない。ひけめを感ずることはない。
(うそのないせいかつ。そのことばからしてすでにうそであった。よきものをよしといい、)
嘘のない生活。その言葉からしてすでに嘘であった。美きものを美しと言い、
(あしきものをあしという。それもうそであった。だいいちよきものをよしと)
悪しきものを悪しという。それも嘘であった。だいいち美きものを美しと
(いいだすこころにうそがあろう。あれもきたない、これもきたない、とさぶろうはやがてひとつの)
言いだす心に嘘があろう。あれも汚い、これも汚い、と三郎はやがてひとつの
(たいどをみつけた。むいしむかんどうのちほうのたいどであった。かぜのようにいきること)
態度を見つけた。無意志無感動の痴呆の態度であった。風のように生きること
(である。さぶろうはにちじょうのこうどうをすべてこよみにまかせた。こよみのうらないにまかせた。)
である。三郎は日常の行動をすべて暦にまかせた。暦のうらないにまかせた。
(たのしみは、よよ、ゆめをみることであった。あおくさのけしきもあれば、むねのときめく)
たのしみは、夜夜、夢を見ることであった。青草の景色もあれば、胸のときめく
(むすめもいた。あるあさ、さぶろうはひとりでちょうしょくをとっていながらふとくびをふってかんがえ、)
娘もいた。或る朝、三郎はひとりで朝食をとっていながらふと首を振って考え、
(それからぱちっとはしをおぜんのうえにおいた。たちあがってへやをぐるぐる)
それからぱちっと箸をお膳のうえに置いた。立ちあがって部屋をぐるぐる
(さんどほどめぐりあるき、それからふところでしてそとへでた。むいしむかんどうのたいどが)
三度ほどめぐり歩き、それから懐手して外へ出た。無意志無感動の態度が
(うたがわしくなったのである。これこそうそのじごくのおくやまだ。いしきしてつとめた)
うたがわしくなったのである。これこそ嘘の地獄の奥山だ。意識して努めた
(ちほうがなんでうそでないことがあろう。つとめればつとめるほどわたしはうそのうわぬりを)
痴呆がなんで嘘でないことがあろう。つとめればつとめるほど私は嘘の上塗りを
(していく。かってにしやがれ。むいしきのせかい。さぶろうはあさっぱらからいざかやへ)
して行く。勝手にしやがれ。無意識の世界。三郎は朝っぱらから居酒屋へ
(でかけたのである。なわのれんをはじいてなかへはいると、このそうちょうに、もうはや)
出かけたのである。縄のれんをはじいて中へはいると、この早朝に、もうはや
(ふたりのせんきゃくがあった。おどろくべし、せんじゅつたろうとけんかじろべえのふたりであった。)
二人の先客があった。驚くべし、仙術太郎と喧嘩次郎兵衛の二人であった。