晩年 73

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プレイ回数700難易度(4.2) 3179打 長文 かな
太宰 治

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問題文

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(たろうはたくのとうなんのすみにいて、そのしもぶくれのもちはだのほおをよいでうすあかくそめ)

太郎は卓の東南の隅にいて、そのしもぶくれのもち肌の頬を酔いでうす赤く染め

(たらりとさがったくちひげをひねりひねりさけをのんでいた。じろべえはそれと)

たらりと下がった口髭をひねりひねり酒を呑んでいた。次郎兵衛はそれと

(それとあいはんしてせいほくのすみにじんどり、むくんだおおきいかおにあぶらをぎらぎらうかせ、)

それと相反して西北の隅に陣どり、むくんだ大きい顔に油をぎらぎら浮かせ、

(さかずきをもったひだりてをうしろからおおまわしにゆっくりまわしてくちもとへもっていって)

杯を持った左手をうしろから大廻しにゆっくり廻して口もとへ持っていって

(ひとくちのんではさかずきをめのたかさにささげたまましばらくぼんやりしているのである。)

一口のんでは杯を目の高さにささげたまましばらくぼんやりしているのである。

(さぶろうはふたりのまんなかにこしをおろしてさけをのみはじめた。さんにんはもとより)

三郎は二人のまんなかに腰をおろして酒を呑みはじめた。三人はもとより

(きゅうちのあいだがらではない。たろうはほそいめをはんぶんとじながら、じろべえはいっぷんかんほど)

旧知の間柄ではない。太郎は細い眼を半分とじながら、次郎兵衛は一分間ほど

(かかってゆったりとくびをねじむけながら、さぶろうはきょろきょろおちつかぬ)

かかってゆったりと首をねじむけながら、三郎はきょろきょろ落ちつかぬ

(きつねのめつきをつかいながら、それぞれほかのふたりのありさまをぬすみみしていたわけで)

狐の眼つきを使いながら、それぞれほかの二人の有様を盗み見していたわけで

(ある。よいがだんだんはっしてくるにつれてさんにんはすこしずつあいよった。)

ある。酔いがだんだん発して来るにつれて三人は少しずつ相寄った。

(さんにんのこらえにこらえたよいがいちじにばくはつしたときさぶろうがまずくちをきった。)

三人のこらえにこらえた酔いが一時に爆発したとき三郎がまず口を切った。

(こうしていっしょにあさからさけをのむのもなにかのえんだとおもいます。ことにもえどは)

こうして一緒に朝から酒を呑むのも何かの縁だと思います。ことにも江戸は

(はんちょうあるくとたきょうだといわれるほどのこみあったところなのに、こうしてせまい)

半丁あるくと他郷だと言われるほどの籠みあったところなのに、こうしてせまい

(いざかやにどうじつどうじこくにおちあせたというのはふしぎなくらいです。)

居酒屋に同日同時刻に落ち合せたというのは不思議なくらいです。

(たろうはおおきいあくびをしてから、のろのろこたえた。おれはさけがすきだから)

太郎は大きいあくびをしてから、のろのろ答えた。おれは酒が好きだから

(のむのだよ。そんなにひとのかおをみるなよ。そういっててぬぐいでほおかむりした。)

呑むのだよ。そんなに人の顔を見るなよ。そう言って手拭いで頬被りした。

(じろべえはたくをとんとたたいてたくのうえにさしわたしさんすんくらいふかさちょっとくらい)

次郎兵衛は卓をとんとたたいて卓のうえにさしわたし三寸くらい深さ一寸くらい

(のくぼみをこしらえてからこたえた。そうだ。えんといえばえんじゃ。おれはいま)

のくぼみをこしらえてから答えた。そうだ。縁と言えば縁じゃ。おれはいま

(ろうやからでてきたばかりだよ。さぶろうはたずねた。どうしてろうやへはいったのです。)

牢屋から出て来たばかりだよ。三郎は尋ねた。どうして牢屋へはいったのです。

(それは、こうじゃ。じろべえはおくのしれぬようなぼそぼそごえでおのれのはんせいを)

それは、こうじゃ。次郎兵衛は奥のしれぬようなぼそぼそ声でおのれの半生を

など

(かたりだした。かたりおえてからなみだをいってき、さかずきのさけのなかにおとしてぐっと)

語りだした。語り終えてから涙を一滴、杯の酒のなかに落としてぐっと

(のみほした。さぶろうはそれをきいてしばらくかんがえごとをしてから、なんだか)

呑みほした。三郎はそれを聞いてしばらく考えごとをしてから、なんだか

(あにじゃびとのようなきがするとまえおきをして、それからじしんのはんせいをうそに)

兄者人のような気がすると前置きをして、それから自身の半生を嘘に

(うそにならないようにうそにならないようにきにしいしいいっせつずつくぎって)

嘘にならないように嘘にならないように気にしいしい一節ずつ口切って

(かたりだしたのである。それをしばらくきいているうちにじろべえは、)

語りだしたのである。それをしばらく聞いているうちに次郎兵衛は、

(おれにはどうもわからんじゃ、といってうとうといねむりをはじめた。)

おれにはどうも判らんじゃ、と言ってうとうと居眠りをはじめた。

(けれどもたろうは、それまではたいくつそうにあくびばかりしていたのを、)

けれども太郎は、それまでは退屈そうにあくびばかりしていたのを、

(やがてほそいめをはっきりひらいてききみみをたてはじめたのである。)

やがて細い眼をはっきりひらいて聞き耳をたてはじめたのである。

(はなしがおわったとき、たろうはほおかぶりをたいぎそうにとって、さぶろうさんとかいったが)

話が終わったとき、太郎は頬被りをたいぎそうにとって、三郎さんとか言ったが

(あなたのきもちはよくわかる。おれはたろうといってつがるのもんです。)

あなたの気持ちはよく判る。おれは太郎と言って津軽のもんです。

(にねんまえからこうしてえどへでてぶらぶらしています。きいてくださるか、と)

二年まえからこうして江戸へ出てぶらぶらしています。聞いて下さるか、と

(やはりねむたそうなくちょうでじぶんのいままでのけいれきをこまごまとかたってきかせた。)

やはり眠たそうな口調で自分のいままでの経歴をこまごまと語って聞かせた。

(だしぬけにさぶろうはさけんだ。わかります、わかります。じろべえはそのさけびごえのために)

だしぬけに三郎は叫んだ。判ります、判ります。次郎兵衛はその叫び声のために

(めをさましてしまった。にごっためをぼんやりあけて、なにごとですか、とさぶろうに)

眼をさましてしまった。濁った眼をぼんやりあけて、何事ですか、と三郎に

(たずねた。さぶろうはおのれのうちょうてんにきづいてはずかしくおもった。うちょうてんこそうその)

尋ねた。三郎はおのれの有頂天に気づいて恥かしく思った。有頂天こそ嘘の

(けっしょうだ、ひかえようとむりにつとめたけれど、よいがそうさせなかった。)

結晶だ、ひかえようと無理につとめたけれど、酔いがそうさせなかった。

(さぶろうのなまなかのよくせいしんがかえってかれじしんにはねかえってきて、もうはや)

三郎のなまなかの抑制心がかえって彼自身にはねかえって来て、もうはや

(やけくそになり、どうにでもなれとくちからでまかせのおおうそをはいた。)

やけくそになり、どうにでもなれと口から出まかせの大嘘を吐いた。

(わたしたちはげいじゅつかだ。そういううそをいってしまってから、いよいようそにねつがくわわって)

私たちは芸術家だ。そういう嘘を言ってしまってから、いよいよ嘘に熱が加って

(きたのであった。わたしたちさんにんはきょうだいだ。きょうここであったからには、)

来たのであった。私たち三人は兄弟だ。きょうここで逢ったからには、

(しぬるともはなれるでない。いまにきっとわたしたちのてんかがくるのだ。)

死ぬるとも離れるでない。いまにきっと私たちの天下が来るのだ。

(わたしはげいじゅつかだ。せんじゅつたろうしのはんせいとけんかじろべえしのはんせいとそれからせんえつながら)

私は芸術家だ。仙術太郎氏の半生と喧嘩次郎兵衛氏の半生とそれから僭越ながら

(わたしのはんせいとみっつのいきかたのもはんをせじんにかいておくってやろう。かまうものか。)

私の半生と三つの生きかたの模範を世人に書いて送ってやろう。かまうものか。

(うそのさぶろうのうそのかえんはこのへんからそのきょくてんにたっした。わたしたちはげいじゅつかだ。)

嘘の三郎の嘘の火焔はこのへんからその極点に達した。私たちは芸術家だ。

(おうこうといえどもおそれない。きんせんもまたわれらにおいてこのはのごとくかるい。)

王侯といえども恐れない。金銭もまたわれらに於いて木葉の如く軽い。

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